低下傾向にあった日本の児童の学力が「下げ止まった」と言うような発表があったが、この先回復の見込みはあるのだろうか。
私の見立てでは「望み薄」ではないかと思っているのだが、その理由を少し書いてみようと思う。
いろいろな要因が考えられるのだが、日本は「島国」だと言うことも大きく影響しているように思えてならない。
次に、「先進国と大きく離れたアジアの一角にある」と言うことも大きく影響しているだろう。
島国であるが故に「異民族からの侵略を殆ど受けたことがない」とともに、「アジアではもっとも発展している」と言う、一種の「自惚れ」も災いしているだろう。
「島国」を別な言い方で表すと「井の中の蛙」とも言えると思うのだが、「井の中の蛙大海を知らず」と言うように、世界が「地球規模のグローバル化(国際化)社会」になりつつある中、日本人の多くが世界を積極的に知ろうとせず、進出もしようとしていないのである。
政治の世界もまたしかりで、グローバル化・国際化などお構いなしに「枝葉抹消の問題で争っている」のだからどうしようもないであろう。
親にしてもまたしかりである。
本来であれば「親が身に付けさせなければいけない基本的な躾」までおも学校に押し付け、それでも飽き足らぬように「モンスター」「クレーマー」と化しているのである。
以前「政治の腐敗は有権者(国民)の責任だ」と書いたように、「児童の学力低下は親の責任」だと言うことを素直に受け入れる必要があるだろう。
一部(大多数かもしれないが)の人は「勉強は学校でするもの」と考えているようだが、私は「本当の勉強は家庭(社会)でするもの」だと思っている。
このような考え方の違いが出るのは「勉強」と言うものの捕らえ方が違っているからで、多くの人が考える「勉強」は、「狭義(狭い意味)の勉強」であって、国語、算数、理科、社会などを学ぶことだけが勉強だと思っているのだろう。
しかし、「勉強」と言う言葉を別の言い方で現すと、「学ぶ」「学習する」と言う言い方も出来、「学ぶところ」と言う意味で「学校」と言われているのだが、学校以外でも学ぶものは沢山あるはずである。
しかし、本来家庭で学ぶべきことまで学校に押し付けては、「学校で学ぶべき本来の勉強をする時間が足りなくなる」のは仕方のないことで、その結果として「学力の低下」と言うことも起きてくるのである。
一つの参考例として、数日前と今日の昼間起きたことを書いてみよう。
数日前のことは、未だ1歳になる前くらいの男の子を乳母車に乗せて家の前を通っかかったお母さんのことだが、男の子は私の姿を見つけるとうれしそうに手を振っており、私が「こんにちわ」と言うと小さな頭を下げて喜んでいたのであるが・・・・。
お母さんは一瞬足を止めはしたのだが、すぐに子供の様子を無視して歩き始めてしまったのである。
子供はその後もしきりに振り返って私のほうを見ているのだが、お母さんはそんなことには目もくれず歩いて行ってしまったのである。
一方、今日の昼間に起きたことはボーリング場でのことだが、小学校4年くらいの男の子を頭にした「3兄弟」の話である。
私が知人と一緒にボーリングを始めようとしたところ、母親と一緒に来ていた3兄弟が私たちのところへやってきて「コツを教えてください」と言うのである。
そこで知人と少し教えてあげたのだが、お母さんは「申し訳ありません」と言うのだが、子供たちの礼儀はきちんとしており、帰るときには3兄弟そろって何度も「ありがとうございました!」と挨拶をしていたのだが、母親も少し離れた所で頭を下げていたのである。
最近は他人とのかかわりを嫌う風潮が強いのだが、他人とのかかわりから学ぶことも多いことも知っておく必要があると思うし、全てがそうだとは言わないが、積極的に他人とのかかわりを持つ子の方が何事にも前向きで、社会に出てから大いに役立つと思うのだが・・・・。
そして、「学力低下の心配」も少ないと思うのだ。
私の見立てでは「望み薄」ではないかと思っているのだが、その理由を少し書いてみようと思う。
いろいろな要因が考えられるのだが、日本は「島国」だと言うことも大きく影響しているように思えてならない。
次に、「先進国と大きく離れたアジアの一角にある」と言うことも大きく影響しているだろう。
島国であるが故に「異民族からの侵略を殆ど受けたことがない」とともに、「アジアではもっとも発展している」と言う、一種の「自惚れ」も災いしているだろう。
「島国」を別な言い方で表すと「井の中の蛙」とも言えると思うのだが、「井の中の蛙大海を知らず」と言うように、世界が「地球規模のグローバル化(国際化)社会」になりつつある中、日本人の多くが世界を積極的に知ろうとせず、進出もしようとしていないのである。
政治の世界もまたしかりで、グローバル化・国際化などお構いなしに「枝葉抹消の問題で争っている」のだからどうしようもないであろう。
親にしてもまたしかりである。
本来であれば「親が身に付けさせなければいけない基本的な躾」までおも学校に押し付け、それでも飽き足らぬように「モンスター」「クレーマー」と化しているのである。
以前「政治の腐敗は有権者(国民)の責任だ」と書いたように、「児童の学力低下は親の責任」だと言うことを素直に受け入れる必要があるだろう。
一部(大多数かもしれないが)の人は「勉強は学校でするもの」と考えているようだが、私は「本当の勉強は家庭(社会)でするもの」だと思っている。
このような考え方の違いが出るのは「勉強」と言うものの捕らえ方が違っているからで、多くの人が考える「勉強」は、「狭義(狭い意味)の勉強」であって、国語、算数、理科、社会などを学ぶことだけが勉強だと思っているのだろう。
しかし、「勉強」と言う言葉を別の言い方で現すと、「学ぶ」「学習する」と言う言い方も出来、「学ぶところ」と言う意味で「学校」と言われているのだが、学校以外でも学ぶものは沢山あるはずである。
しかし、本来家庭で学ぶべきことまで学校に押し付けては、「学校で学ぶべき本来の勉強をする時間が足りなくなる」のは仕方のないことで、その結果として「学力の低下」と言うことも起きてくるのである。
一つの参考例として、数日前と今日の昼間起きたことを書いてみよう。
数日前のことは、未だ1歳になる前くらいの男の子を乳母車に乗せて家の前を通っかかったお母さんのことだが、男の子は私の姿を見つけるとうれしそうに手を振っており、私が「こんにちわ」と言うと小さな頭を下げて喜んでいたのであるが・・・・。
お母さんは一瞬足を止めはしたのだが、すぐに子供の様子を無視して歩き始めてしまったのである。
子供はその後もしきりに振り返って私のほうを見ているのだが、お母さんはそんなことには目もくれず歩いて行ってしまったのである。
一方、今日の昼間に起きたことはボーリング場でのことだが、小学校4年くらいの男の子を頭にした「3兄弟」の話である。
私が知人と一緒にボーリングを始めようとしたところ、母親と一緒に来ていた3兄弟が私たちのところへやってきて「コツを教えてください」と言うのである。
そこで知人と少し教えてあげたのだが、お母さんは「申し訳ありません」と言うのだが、子供たちの礼儀はきちんとしており、帰るときには3兄弟そろって何度も「ありがとうございました!」と挨拶をしていたのだが、母親も少し離れた所で頭を下げていたのである。
最近は他人とのかかわりを嫌う風潮が強いのだが、他人とのかかわりから学ぶことも多いことも知っておく必要があると思うし、全てがそうだとは言わないが、積極的に他人とのかかわりを持つ子の方が何事にも前向きで、社会に出てから大いに役立つと思うのだが・・・・。
そして、「学力低下の心配」も少ないと思うのだ。