「運も実力のうち」と言うが、本当にそうなのであろうか?。
考えようでは「正しいと」とも言えるのだが、その「実力の中身」を考えると複雑な気分になることも多い。
管総理の退陣表明を受け、民主党内部で様々な思惑が渦巻いており、何人もの人が立候補を表明し始めたが、顔ぶれを見て考えるのは「運も実力のうち?」と言うことである。
安部、福田、麻生、鳩山、管と、続けざまに総理大臣の辞任が続き、その実力の無さが際立っている。
昔の言葉に「玉石混交」と言う言葉があるが、今の状況を考えると「石石混交」と言ったほうが良いと思うのだが・・・・。
しかし・・・・。
「玉磨かざれば光無し」と言う言葉もある。
私は「石石混交」と書いたのだが、可能性としては低いながら「玉が混じっている?」と言う可能性(希望的観測)もあるかもしれない。
が、しかし・・・・。
たとえ「玉」が混じっていたとしても、それを磨く人がいなければ玉の意味を無さないのだ。
それではいったい誰が磨くのだろうか?。
それは言うまでも無く「国民自身」なのである。
が・・・・。
磨いて光り輝くまでには多くの時間と努力や忍耐も必要で、今の日本には欠けているものばかりなのだ(世界的にも言えるかも・・・・)。
常日頃私が書いているように「政治の腐敗は国民の腐敗」であるように、国民の意識が変わらない限り政治も変わらないのである。
「出たい人よより、出したい人を」と言う言葉もあるが、今の時代は「出たい人ばかり」で、「出したい人」などどこにも見当たらないのである。
これも何度も書いているが「あの人なら何とかしてくれるのでは」とか「この人ならこうしてくれるだろう」と言う考え自体に問題があるのである。
本当の意味(意見には個人差があるが)で将来を考えた結果なら良いのだが、その中身は「未必の故意による賄賂の要求」でしかないのである。
私のところにも過去に3回「町議選への立候補要請」が来ているが、全てお断りをしている。
立候補を要請してくる人たちの話には共通する考え方があるのだ。
それは、前にも書いているように「この人なら何とか・・・・」と言う下心丸見えの考え方なのである。
仮の話だが、私が町議会議員になったとしたときの事を考えてみよう。
私の基本理念は、支持者の意見より「今なすべきこと」が最重要課題で、それがたとえ「支持者に都合が悪い事」であってもである。
ここまで書けばわかるだろうが、私が正式にお断りする前に「立候補要請自体をあきらめる」と言う結果になるのである。
このことからもわかるように、民主党の代表選に立候補を表明した人は全て「出たい人」なのである。
出たい人に共通することは「このチャンスを逃がしたくない」と言う思惑が働き、体制に媚び諂い、何とかして支持者を増やそうとする考えしかないのだ。
ここで登場するのが「大きな派閥の代表」である。
派閥に属する議員は「代表の意見に従う」と言うことが基本にあり、代表の賛同は「必要不可欠」な問題になるのである。
ここで登場する問題に「交換条件」と言うものがあるが、悪い言い方をするなら「裏取引」である。
裏取引である以上「黒い影」が付きまとうのは仕方のないこなのだが、国民にそれをとやかく言う資格は無いだろう。
選挙での投票は「国民の権利」だと言われるのだが、私はその権利を放棄している。
「棄権」を無責任だと言う人もいるだろうが、私に言わせれば「権利だけ主張して義務を果たさない人」のほうがよっぽど無責任だろう。
「権利には義務が付き物」だと言う事を忘れているのである。
権利と義務は「表裏一体のもの」で、権利を主張すれば「義務が発生する」と言うことを無視しているのだから困ったものである。
国や政府にあれこれ要求する人が多いのだが、国や政府が何かをしようとするために必要なものを考えた事があるのだろうか?。
国や政府が何かをしようとすれば必ず必要になるものに「財源」と言うものがある。
この財源の元になるのが、国民や企業が納める「税金」である。
「税金は納めたく無いが、あれもこれもしろ」。
何とも無責任な話である。
考えようでは「正しいと」とも言えるのだが、その「実力の中身」を考えると複雑な気分になることも多い。
管総理の退陣表明を受け、民主党内部で様々な思惑が渦巻いており、何人もの人が立候補を表明し始めたが、顔ぶれを見て考えるのは「運も実力のうち?」と言うことである。
安部、福田、麻生、鳩山、管と、続けざまに総理大臣の辞任が続き、その実力の無さが際立っている。
昔の言葉に「玉石混交」と言う言葉があるが、今の状況を考えると「石石混交」と言ったほうが良いと思うのだが・・・・。
しかし・・・・。
「玉磨かざれば光無し」と言う言葉もある。
私は「石石混交」と書いたのだが、可能性としては低いながら「玉が混じっている?」と言う可能性(希望的観測)もあるかもしれない。
が、しかし・・・・。
たとえ「玉」が混じっていたとしても、それを磨く人がいなければ玉の意味を無さないのだ。
それではいったい誰が磨くのだろうか?。
それは言うまでも無く「国民自身」なのである。
が・・・・。
磨いて光り輝くまでには多くの時間と努力や忍耐も必要で、今の日本には欠けているものばかりなのだ(世界的にも言えるかも・・・・)。
常日頃私が書いているように「政治の腐敗は国民の腐敗」であるように、国民の意識が変わらない限り政治も変わらないのである。
「出たい人よより、出したい人を」と言う言葉もあるが、今の時代は「出たい人ばかり」で、「出したい人」などどこにも見当たらないのである。
これも何度も書いているが「あの人なら何とかしてくれるのでは」とか「この人ならこうしてくれるだろう」と言う考え自体に問題があるのである。
本当の意味(意見には個人差があるが)で将来を考えた結果なら良いのだが、その中身は「未必の故意による賄賂の要求」でしかないのである。
私のところにも過去に3回「町議選への立候補要請」が来ているが、全てお断りをしている。
立候補を要請してくる人たちの話には共通する考え方があるのだ。
それは、前にも書いているように「この人なら何とか・・・・」と言う下心丸見えの考え方なのである。
仮の話だが、私が町議会議員になったとしたときの事を考えてみよう。
私の基本理念は、支持者の意見より「今なすべきこと」が最重要課題で、それがたとえ「支持者に都合が悪い事」であってもである。
ここまで書けばわかるだろうが、私が正式にお断りする前に「立候補要請自体をあきらめる」と言う結果になるのである。
このことからもわかるように、民主党の代表選に立候補を表明した人は全て「出たい人」なのである。
出たい人に共通することは「このチャンスを逃がしたくない」と言う思惑が働き、体制に媚び諂い、何とかして支持者を増やそうとする考えしかないのだ。
ここで登場するのが「大きな派閥の代表」である。
派閥に属する議員は「代表の意見に従う」と言うことが基本にあり、代表の賛同は「必要不可欠」な問題になるのである。
ここで登場する問題に「交換条件」と言うものがあるが、悪い言い方をするなら「裏取引」である。
裏取引である以上「黒い影」が付きまとうのは仕方のないこなのだが、国民にそれをとやかく言う資格は無いだろう。
選挙での投票は「国民の権利」だと言われるのだが、私はその権利を放棄している。
「棄権」を無責任だと言う人もいるだろうが、私に言わせれば「権利だけ主張して義務を果たさない人」のほうがよっぽど無責任だろう。
「権利には義務が付き物」だと言う事を忘れているのである。
権利と義務は「表裏一体のもの」で、権利を主張すれば「義務が発生する」と言うことを無視しているのだから困ったものである。
国や政府にあれこれ要求する人が多いのだが、国や政府が何かをしようとするために必要なものを考えた事があるのだろうか?。
国や政府が何かをしようとすれば必ず必要になるものに「財源」と言うものがある。
この財源の元になるのが、国民や企業が納める「税金」である。
「税金は納めたく無いが、あれもこれもしろ」。
何とも無責任な話である。