選挙権を「選挙義務」に変えることによって何が変わるのだろうか。
選挙権は「選挙において投票する権利」であって、「放棄」するかどうかはその人の自由ですが、「義務」となると「強制」と言うことにもなり、個人の自由の侵害になります。
さて、放棄した場合はどうなるであろうか。
放棄した場合は「結果について文句を言う権利はない」と言うことにもなります。
つまり、権利を放棄したのだから、政治についてとやかく言う権利(資格)もないのです。
出た結果については「自己責任」で受け入れるしかないでしょう。
少なくとも私はそうしていますがね。
しかし、権利を行使した場合はどうであろうか。
実際はこの部分に重大な問題があることを殆ど問題にしていないのである。
「権利と義務は表裏一体」と言う言葉があるにもかかわらず、選挙権に関してだけは何故か切り離されているのだ。
つまり、選挙権を行使しながら「その結果に対する義務(責任)」は全く問題にならないのである。
一部には例外もあるだろうが、「その結果に対する義務(責任)があるから投票しない」と言う人も多いのです。
つまり。「選挙義務」にするよりも、投票した人に「選挙結果に対する責任を問う」と言うことのほうが重要なのです。
現状の選挙制度は問題だらけで、「選挙権」にいたっては「無銭飲食」と同じ状態でありながら「何の罰則もない」のです。
衆議院議員を初めとする議員(党)を選んだのはいったい誰ですか?。
選挙権を使って選んだ以上「その議員(党)のしたことの責任は投票した人にもある」と言うことが無視されているのです。
「選挙義務」にするより「投票した人の責任を問う」と言う事のほうが重要で、それが「最善の策」ではないだろうか。
次に、「和を持って物事を進めようとする日本・・・・」とあるが、本当にそうなのであろうか。
私に言わせると「全く違う」としか言いようがありません。
民主主義の基本理念にはない「多数決」と言うものが最も重要な決定手段になっていて、いったい何処に「和」があるのだろうか。
現実は「長いものには巻かれろ」的な風潮が横行しています。
2年前(平成19年度)に私が自治会の役員になったときのことはすでにブログで書いているのだが、このときは殆ど多数決で問題は決めなかったのですが、これこそ「和」が最も重要な役割を担っています。
私は会長ではなかったのですが、少数意見でもよい意見は積極的に取り上げ、その重要性を説明し、反対意見を引き下がらせる事もしましたが、後でもめることもなかったです。
「全員一致(了解)」なのですから。
このとき重要なことは「自分に不都合な意見も取り上げる」と言うことです。
これをすれば反対する人だって納得せざるを得ないのですが、現実の世界でこんな事をする人がどれだけいるのだろうか。
私の知る範囲だが、そのような人は「立候補の要請を受けても断じて断る」と言う人ばかりです。
国民の多くがこのような考えの人になれば日本も良くなるでしょう。
夢物語ですがね・・・・。
選挙権は「選挙において投票する権利」であって、「放棄」するかどうかはその人の自由ですが、「義務」となると「強制」と言うことにもなり、個人の自由の侵害になります。
さて、放棄した場合はどうなるであろうか。
放棄した場合は「結果について文句を言う権利はない」と言うことにもなります。
つまり、権利を放棄したのだから、政治についてとやかく言う権利(資格)もないのです。
出た結果については「自己責任」で受け入れるしかないでしょう。
少なくとも私はそうしていますがね。
しかし、権利を行使した場合はどうであろうか。
実際はこの部分に重大な問題があることを殆ど問題にしていないのである。
「権利と義務は表裏一体」と言う言葉があるにもかかわらず、選挙権に関してだけは何故か切り離されているのだ。
つまり、選挙権を行使しながら「その結果に対する義務(責任)」は全く問題にならないのである。
一部には例外もあるだろうが、「その結果に対する義務(責任)があるから投票しない」と言う人も多いのです。
つまり。「選挙義務」にするよりも、投票した人に「選挙結果に対する責任を問う」と言うことのほうが重要なのです。
現状の選挙制度は問題だらけで、「選挙権」にいたっては「無銭飲食」と同じ状態でありながら「何の罰則もない」のです。
衆議院議員を初めとする議員(党)を選んだのはいったい誰ですか?。
選挙権を使って選んだ以上「その議員(党)のしたことの責任は投票した人にもある」と言うことが無視されているのです。
「選挙義務」にするより「投票した人の責任を問う」と言う事のほうが重要で、それが「最善の策」ではないだろうか。
次に、「和を持って物事を進めようとする日本・・・・」とあるが、本当にそうなのであろうか。
私に言わせると「全く違う」としか言いようがありません。
民主主義の基本理念にはない「多数決」と言うものが最も重要な決定手段になっていて、いったい何処に「和」があるのだろうか。
現実は「長いものには巻かれろ」的な風潮が横行しています。
2年前(平成19年度)に私が自治会の役員になったときのことはすでにブログで書いているのだが、このときは殆ど多数決で問題は決めなかったのですが、これこそ「和」が最も重要な役割を担っています。
私は会長ではなかったのですが、少数意見でもよい意見は積極的に取り上げ、その重要性を説明し、反対意見を引き下がらせる事もしましたが、後でもめることもなかったです。
「全員一致(了解)」なのですから。
このとき重要なことは「自分に不都合な意見も取り上げる」と言うことです。
これをすれば反対する人だって納得せざるを得ないのですが、現実の世界でこんな事をする人がどれだけいるのだろうか。
私の知る範囲だが、そのような人は「立候補の要請を受けても断じて断る」と言う人ばかりです。
国民の多くがこのような考えの人になれば日本も良くなるでしょう。
夢物語ですがね・・・・。