へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

私の嫌いな言葉

2010年01月15日 04時42分06秒 | Weblog
私の嫌いな言葉に「キレル」と言う言葉があるのだが、私もこのブログでは「キレル」とカタカナで書いてはいるのだが、正直な気持ちを言うなら「切れる」と書きたいのである。
今時の人は簡単に「キレル」だとか「キレタ」と言うのだが、私はこの言葉を聞くたびに悲しい気持ちになってしまうのです。
私にとって「キレル」は「切れる」に繋がり、そして「縁が切れる」と言うことに繋がってしまい、どうしても好きになれなのです。
このような理由から私は「キレル」と言う言葉を極力使わない(使った記憶も無いが)ようにし、使うときは「一生縁が切れても良い」と言うときだけで、それ以外の時には使わないのです。
もっとも、「キレル」と言う言葉を使う人に言わせれば「頭にきた」と言う意味で使っていると言いたいかもしれないのだろうが・・・・。
だいぶ前には「トサカに来る」と言う言い方も有ったのだが、いずれにしても安易に使われ過ぎている。
安易に使われ過ぎる原因は「堪え性がない」「我慢が出来ない」と言うことに有るのだが、当人にすれば「我慢をしている」と言う返事が返ってくるのである、が・・・・しかし、である。
確かに我慢をしているのだろうが、問題なのは「どの程度まで我慢をしているか」と言う事で、少々乱暴な比較になってしまうのだが、一つの例として、1万円の商品を買うときのことを考えてみたい。
1万円の商品を買うためには「1万円」が必要なのは言うまでも無い事だが、もし財布の中に9千円しかなかったらどうなるだろうか。
1万円の商品を買いたいのに9千円しかなければ買うことは出来ず、9千円は役にたたない事になってしまうのである。
このように、いくら我慢をしたと言っても、その我慢が役に立つレベルに達していなければ「我慢をしている」とは言えないのではないだろうか。
また別の例えをするなら、自分以外の人は全員100万円を持っている時に「俺は10万円持っているぞ」と言ったらどうなるであろうか。
自分以外は1万円しか持っていないときに「10万円持っている」と言えば「すごい」とか「たいしたもんだ」と言ってもらえるだろうが、自分以外は100万円持っている時には「ナンだそれだけかよ」とか「たったそれがけ?」と言われてしまうのである。
このように、自分は我慢(苦労)をしているつもりでも、全体的に見てどのレベルに有るかを考えなければいけないのであるが、本当の我慢や苦労を知らない人には無理な話かもしれない。
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