へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

何故新聞が読まれなくなったのか

2010年01月18日 04時23分15秒 | Weblog
「最近は新聞を読む人が減った」と言って新聞屋の親父が嘆いていたが、ネットでいくらでもニュースを見られることが原因だとも言われてはいるが、私は新聞がなくならない限り読むことをやめないだろう。
私は今現在ネットと繋がっており、その気になればネットでニュースを見ることも出来るのだが、残念ながら私はネットでニュースを見ることは殆どないのです。
その主な理由は「私が求めるような情報が殆ど無い」と言うことである。
ネットで得られる情報の多くは「興味本位」の物が多く、教養を高めるような物や、広い分野の情報を得る事が難しい事も大きな要因でしょう。
そしてもう一つ重要な問題点として「記事から記事への移動が非常に面倒だ」と言うこともあるのです。
新聞であれば簡単に次のページに移動したり前のページに戻る事も簡単で、同じページの中であればなお簡単に出来るのだが、ネットではとても無理な話で、新聞のように落ち着いて読むことも出来ないのです。
これは、携帯でも同じ事が言え、携帯の場合は表示される文字数が少ないため、全体的に理解する事が更に難しくなってしまいます。
そして、この事が最近の若い世代に「全体的に物事を見て判断する」と言う能力を奪っているのです。
私は携帯も一応持ってはいるのだが、何時も思うことに「長いメールは全体が見えないので意味が伝わりにくい」と言う事があります。
実際の話し、少し長い文章になると全体を一度に読むことが出来なくなり、見えている部分だけで判断しがちになり、自分でメールを送る場合も「内容の再確認が難しい」と言う問題が起きるのです。
私がこのブログに書く記事は「およそ1000文字前後」なのだが、これを書き上げるのには、「文章の再確認や修正も含めて約1時間」と言ったところで、時には2時間近くかかることもあり、時には殆ど始めから書き直す事も珍しくないのですが、ある作家の話では「小さなコラムでも1週間かかることもある」と言うのである。
最近では「携帯小説」もはやっているようだが、これも私は好きになれず、携帯やネットの発達は、ニュースにしても小説にしても「使い捨て」といった感じがしてならないのです。
このように一見便利な世の中になったように見える現代社会だが、私から見ると、偏った情報による「情報の栄養失調」にしか見えないのである。
このような「情報の栄養失調」と、携帯やパソコンと言う、限られた狭い範囲しか見られない状態から来る「視野の狭さ」とが合わさった若者たちの将来は、一体どんな事になるのであろうか・・・・。
昔は私のような人(横丁のご隠居・ご意見番・小言幸兵偉)が沢山いて、ある程度秩序が保たれていたのだが、最近は余り見かけなくなり、いまや「絶滅危惧種」の仲間入りをしたようでさびしい限りである。
最近は若い世代が発言力を強めているのだが、「若さ=未熟」と言うことも十分に考慮しなくてはいけないと思うのだが・・・・。
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「自分ではしているつもり」

2010年01月17日 02時39分02秒 | Weblog
よく耳のする言葉だが、自分ではしているつもりでも、他人から見るとしていないのと同じ状態の事が良くあるが、最近の私のボーリングが正にそれなのである。
昨年ボウリング教室でプロの指導を受け、それ以来180以上のアベレージを保ってきものが、先週あたりから少しづつおかしくなり、今週に入って更に調子を落とし、ついに170点台に落ち込んでしまったのである。
いろいろ試してみても調子が戻らず、土曜日に行けばある人に会えると思い昼過ぎに行ったところいたのですが、他の人と一緒にゲームをしているところだったので直ぐに話をすることは出来なかったのだが、1時間半ほどしてその人たちがゲームを終了したので見てもらうことにした。
そして、その人に「私がしていると思っているだけで、実際には出来ていない」あることを指摘されたのである。
早速そのことを注意して投球すると、何となく調子のよかった時の感覚が戻ってきたのです。
このように、余程注意をしていても、いつの間にか元に戻ってしまう事は良くあることで、「自分ではしているつもり」ではダメなのである。
「しているつもり」とか「・・・・と思っています」、「私は・・・・と信じています」と言う言葉は、自分で自分を評価する都合の良い言葉で、他人の評価とは大きくかけ離れているのです。
そして、この言葉が非常に良く使われるの「政治の世界で」、議員が絡んだ事件で特によく使われる「逃げ口上」でもあるのだが、「他人の振り見て我が振りなおせ」と言う言葉があるように、私も心して気を付けなくてはいけないのです。
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私の嫌いな言葉

2010年01月15日 04時42分06秒 | Weblog
私の嫌いな言葉に「キレル」と言う言葉があるのだが、私もこのブログでは「キレル」とカタカナで書いてはいるのだが、正直な気持ちを言うなら「切れる」と書きたいのである。
今時の人は簡単に「キレル」だとか「キレタ」と言うのだが、私はこの言葉を聞くたびに悲しい気持ちになってしまうのです。
私にとって「キレル」は「切れる」に繋がり、そして「縁が切れる」と言うことに繋がってしまい、どうしても好きになれなのです。
このような理由から私は「キレル」と言う言葉を極力使わない(使った記憶も無いが)ようにし、使うときは「一生縁が切れても良い」と言うときだけで、それ以外の時には使わないのです。
もっとも、「キレル」と言う言葉を使う人に言わせれば「頭にきた」と言う意味で使っていると言いたいかもしれないのだろうが・・・・。
だいぶ前には「トサカに来る」と言う言い方も有ったのだが、いずれにしても安易に使われ過ぎている。
安易に使われ過ぎる原因は「堪え性がない」「我慢が出来ない」と言うことに有るのだが、当人にすれば「我慢をしている」と言う返事が返ってくるのである、が・・・・しかし、である。
確かに我慢をしているのだろうが、問題なのは「どの程度まで我慢をしているか」と言う事で、少々乱暴な比較になってしまうのだが、一つの例として、1万円の商品を買うときのことを考えてみたい。
1万円の商品を買うためには「1万円」が必要なのは言うまでも無い事だが、もし財布の中に9千円しかなかったらどうなるだろうか。
1万円の商品を買いたいのに9千円しかなければ買うことは出来ず、9千円は役にたたない事になってしまうのである。
このように、いくら我慢をしたと言っても、その我慢が役に立つレベルに達していなければ「我慢をしている」とは言えないのではないだろうか。
また別の例えをするなら、自分以外の人は全員100万円を持っている時に「俺は10万円持っているぞ」と言ったらどうなるであろうか。
自分以外は1万円しか持っていないときに「10万円持っている」と言えば「すごい」とか「たいしたもんだ」と言ってもらえるだろうが、自分以外は100万円持っている時には「ナンだそれだけかよ」とか「たったそれがけ?」と言われてしまうのである。
このように、自分は我慢(苦労)をしているつもりでも、全体的に見てどのレベルに有るかを考えなければいけないのであるが、本当の我慢や苦労を知らない人には無理な話かもしれない。
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「キレル」と言うこと

2010年01月15日 02時26分21秒 | Weblog
最近は若者ばかりか「高齢者」までキレやすい人が増えているようで、ナンとも困った時代になったものであるが、最近私はある話から息子夫婦に「キレタ!」と言われたのだが、私に言わせれば「その程度の話でキレルのなら、私の方はとっくの昔にキレている」と言いたかったのだが、そんな事を言えば問題が更にややこしくなるので言わなかったが、私の時代には「親にキレタなどと言う」事などとんでもない話で、時代は変わればかわるものである。
私の場合「キレル」と言う事は「全く」と言ってよいほど無く、「キレタ!」と言うのは最後の最後で「完全に縁を切る(切れても良い)」と言う場合以外は使わないことにしている。
過去に何度も「よく黙っているネェー」とか、「腹が立たないの?」とか言われたことが有るが、成人するまで耐え忍ぶ生活を強いられ、商人の家に生まれたことと、社会人になってからもお客様と直接接する仕事が多かった事も有り、「自分を殺す」と言うことに慣れているのであるが、それに裏打ちをしてくれた人がいるのも確かである。
これは20歳になる少し前の話なのだが、或る激しい言い争いの場に居合わせた時の事、私はどうすればよいのかわからずにいたのだが、たまたまそばにいた50歳くらいの人が「馬鹿者同士が喧嘩しているのだから放っておけばいい」と言い、「ああいうのを見ているのも面白いもんだよ!」とまで言うのである。
私が「エッ?!」と思っているとその人は「馬鹿を相手にする奴が一番馬鹿だ!」とまで言うのである。
そして「無闇に腹を立てたり、難癖をつけてくるような人間は『心の貧しいかわいそうな人』」だと思えば腹も立たないと言うのである。
私はその時始めて、何を言われても「かわいそうな人だなァー」と思えば腹も立たないことを知ったのです。
最近は「他人を哀れに思う心」が失われ、チョッとした事でキレル人が多くなってしまったのだが、これが更にエスカレートした時の事を考えると憂鬱になったしまう。
「キレル」と言う度合いを考えて見ると、今の若い世代(一部の高齢者もだが)は「タコ糸が切れた程度」で、私は「ワイヤーロープ」かもしれないが、ワイヤーロープでもキレる事があることは覚悟しなくてはいけないが・・・・。
まあ、タコ糸であれば切れても結ぶのは簡単かもしれないが、ワイヤーロープは切れたら結ぶ事が難しいので切れないように気を付けないと・・・・。
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損な性格

2010年01月14日 02時46分27秒 | Weblog
11日の「私が20だった頃」の中で「お前は損な性格だが、・・・・」と書いたのだが、この「損な性格」の中には「発言自体は正しいのだが、非常に誤解を受けやすい」と言うことも入っている。
最近もこの事が原因で騒ぎが起こっているのだが、1対1や1対2など人数が少ないときはその誤解を無理に解こうとは思わないのだが、その場に10人以上いる場合などは周りに居る人たちが誤解を解いてくれることも良くある。
1対1や1対2の場合は感情的になりやすく、誤解を解こうと努力するほど誤解が深刻になってしまうのであるが、その一方で、周りに沢山の人が居る場合は、周りの人が客観的に見てくれて「そんな事に文句を言う方がおかしいよ」とか「何でそんなことに腹を立てるんだと」と言って私を助けてくれる事も多いのであるが、大体において問題が起きるのは「人数が少ない時」だから困るのである。
過去に「イヤ」と言うほどこのような状況に追い込まれて来たのだが、このような場合の解決策は「自分を悪者にして逃げる」と言う他無くなってしまうのである。
そして、或る程度話をして理解されたように感じる場合も有るが、この場合もけして油断は出来ないのである。
更に、一見問題が解決したような後に出てくる「別にもう気にしてないから」などと言う言葉にも注意が必要なのである。
私の長い?人生の中でどれほどこの言葉に泣かされて来たことか。
これは、簡単に「気にしていない」と言う人ほど注意が必要で、何年も経ってから蒸し返されたり、問題がより深刻化していて困った事が数え切れないほどあるのです。
その典型的な人が「別れた妻」なのです。
他人であれば、私が逃げる事でそれ以上の騒ぎは起き難いのだが、結婚した相手ではそうも行かず、最終的には「離婚」しか手が残されていなかったのである。
今回起きた問題は「身内の問題」なのであるが、別れた妻の血を引いた者が絡んでいるだけに解決が難しく、この先どのような対応をすれば良いのかわからず、「お先真っ暗」と言った状態なのです。
このような私の性格、一体誰の血を引いたのか考えて見ると、それは、親戚の人の話を総合すると、父でも母でもなく「父親の母と母親の父」の血を色濃く継いでおり、正に「隔世遺伝」なのだそうです。
おじいさんは私が生まれる前に死んでいるので知らないのだが、おばあさんは99まで生きており、私を非常に可愛がってくれたのだが、普段は優しいおばあさんが、私が何か悪い事をしたときなどは人が変わったように厳しかったのを今でも覚えている。
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物事の判断基準がおかしい

2010年01月12日 03時26分17秒 | Weblog
かなり前から気が付いてはいたのだが、日本人(特に若い世代に顕著だが)特有の考え方に少々違和感を感じてならない。
インターネットの発達で世界中と簡単に繋がる事が出来るようになったにもかかわらず「物事の判断基準は非常に狭い」と言うことなのである。
このため、たまたま身近で何人かの人が同じ事をしていると「何のためらいも無く右へ倣えをする」のである。
それが正しいかどうかなどまるで考えず、いつの間にかそれが当たり前のことになり、私などから見ると何とも困った物なのであるが、それを社会全体が助長しているのだから始末が悪い。
昔であれば、様々な人間関係の中で形成されていた判断基準も、核家族化が進み、最早「核家族ならぬ、個家族」と言っても良い時代になっては、正しい判断基準を形成する機会も無く、判断基準など無いに等しくなっているのであろう。
インターネットや携帯電話などで、瞬時に誰とでも繋がる事が出来る「一見便利な世の中」に感じるのだが、実は「人間同士の心のつながり」は非常に希薄になっているのである。
そして「目上の人(先生、上司、親・・・・)にでもタメ口で話す」と言うことも、正常?な人間形成には悪影響が大きく、この先どうなるか心配でならないのである。
「時代が変わった」と言う人もいるだろうが、時代が変わっても変えてはいけないものもあるはずで、安易に「時代が変わった」と言ってかたずけるのは少々危険だと思うのだが・・・・。
大河ドラマで坂本竜馬を取り上げているが、坂本竜馬を今の時代に連れてきたとしても、とても力を発揮する事は出来ないであろう。
これこそ、正に「時代が違う」のである。
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私が二十歳だった頃

2010年01月11日 22時12分31秒 | Weblog
今日は成人式の日であるが、私が二十歳だった頃は「1月15日」と決められていたのだが、その頃の私には「成人式なんてどうでもいいよ!」と言う投げやりな感じで生きていたのであった。
正直な話、その頃の私は生きて行く事に何の希望も持てず、高校1年の秋に学校を辞めて以来、今で言うところの「プータロー」を続けていたのである。
それ故成人式に出る気もなかったのだが、実際にはその前の晩には、その頃の私が置かれていた状態を物語るように「区役所から来た成人式の通知のはがきがゴミ箱に捨てられていた」のである。
そして、この頃私が時折行っていた場所があるのだが、その場所は、東京の環状七号線「丸山陸橋の近く」だったのである。
この「丸山陸橋の近く」であるが、この場所は環状七号線内回りを少し代田橋の方へ進んだところにある西武新宿線の横で、この場所は環状七号線が西武新宿線の下をくぐっているのであるが、要するに、私がいるところは「環状七号線の真上」と言う事なのである。
上から眺めれば、丸山陸橋を越えてきた車はスピードが付いている上に西武新宿線の下をくぐるため更に加速されて行くのである。
ここまで書けば想像が付くと思うが、その時の私は「自殺」と言うことを考えていたのである。
しかしながら「死ぬ勇気?が無かった」と言う事で、死ぬ事もできず今に至っているのであるが、しかし・・・・・、である。
運命とは皮肉な物で、翌年の成人式の日に「運命的な出会い」が訪れ、それがきっかけで私の人生が決まったと言っても良いであろうし、このブログを書いている事も「その人の教えの賜物」と言っても良いだろう。
それは今から46年も前の話だが、そのとき私は長野県の白馬村にスキーに行っていたのだが、たまたま泊まっていた民宿である大学の心理学の教授と出会い、2日間にわたり話をする機会があったのだが、その話の中で教授が「お前は損な性格だが、お前のような人間がいないと世の中が困る、よって、もしお前が損な性格を受け入れられるのであるなら『信念を曲げずに押し通せ!』」と言われたのである。
このとき私は始めて「アーッ!、やっと理解してくれる人が現れた」と言う気持ちで一杯になり、生きてゆく希望がわいてきたのである。
この心理学の教授とは翌年も会えるはずであったが、翌年は教授の都合が悪かったらしく会うことが出来ず、結局はそれ以後会う事も無かったのだが、その時の事は今でも鮮明に覚えているのである。
正に私の生きて行く道を決めてくれた人で、今でもその人に会わなければ「どうなっていたか・・・・」と考え込んでしまう。
『運命的な出会い』、或るようで無いと思うかもしれないが、「運命的な出会い」になるかどうかは「その人の心がけ次第」だと私は思っている。
「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆う」と言うように、せっかくの「運命的な出会い」も、本人の考え方一つで「ただの出会いに終わる」と言う事にもなり、気が付かない事も良くある事なのである。
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咲くやこの花

2010年01月10日 03時42分52秒 | Weblog
NHKの新番組「土曜時代劇」のタイトルなのだが、この番組の主役の女の子が口にする「目立ちたくない」と言う言葉だが、私も基本的には目立ちたくないと思っているのだが、「気が付くと目立っている」と言うことになり、非常に苦労しているのである。
世の中には「目立ちたいのに目立たない」と言う人も多いのだが、私は正に正反対で「目立ちたくないのに目だってしまう」と言う悪い癖?が有り、その事が原因で数々の嫌な思いもし、最終的には離婚する事にもなってしまったのである。
「そんな事で離婚?」と思われるかもしれないが、妻は「目立ちたがり屋でちやほやされたい」と思っているのだが、困った事に「目立ちたくない私が目立ってしまい、妻の影が薄くなる」と言う事で何時も喧嘩になってしまうのであるが、それを決定的にしてしまったのは、子供が中学に入るに当たり、私が中学のPTA本部役員(任期は3年)を引き受けてしまった事が原因になるのである。
私自身はそれ程深く考えずに引き受けてしまったのだが、私が知らないところで「これで2年後は○○さんがPTA会長だね!」とささやかれ、地元で生まれた妻の耳にも入っていたのである。
そんな事とは知らない私は一生懸命に任務をこなしていたのだが、2年目に入ったときに妻から「次期会長候補と言われていい気になっている」とののしられ、PTAの集まりが有るたびに大喧嘩になってしまうのである。
私は会長になる気など全く無く、一緒に役員になったもう一人の男の人の方が相応しいと思っていたのだが、校長、教頭などが裏で現会長と相談していたようで、私の思いとは逆の結果になってしまいったのである。
会長になる前から大喧嘩になっている事を考えればとても引き受けるわけには行かないのだが、周りの雰囲気はとても固辞できる状態ではなく、止むを得ず最終手段を取るしかなかったのである。
「目立ちたくないのに目立ってしまう」、目立ちたい人には何とも羨ましい話かもしれないが、目立ちたくない人にとっては何とも困った問題なのである。


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予想通りの惨敗である

2010年01月07日 03時55分40秒 | Weblog
対戦相手の女性の調子が良く、29ものハンデーがあるのでとても太刀打ちできなかった。
ハンデー無しでは勝てたのだが、ハンデーが29もあると、昨日のようなスコアーでやっと勝てる状態なのだからたまったものではない。
しかしながら、今回負けたことで次回は私のハンデーも増えるので、「勝つチャンスが増える」と言うプラスの面もあるのだが・・・・。
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今日は久しぶりに気分が良い

2010年01月06日 03時23分14秒 | Weblog
年明け早々の悪夢から気分が落ち込み、昨日までの4日間は殆ど外に出ることもなく家に閉じこもっていたのだが、今日は1週間ぶりにボーリングに行ってきた。
料金は今日まで正月料金で高かったのだが、馴染みの顔も沢山おり、おしゃべりに花が咲き楽しい時間をすごす事が出来た。
そして何より、去年の11月から12月にかけてあったボーリング教室で、女子プロの指導でフォームを修正した事で良くなって来ていたスコアーが、今日は更に良くなり「過去最高」と言っても良いスコア-が出たのである。
ハイゲーム自体は224で、過去最高の265には遠く及ばないのだが、1ゲーム目から、177,177,216(ノーミス)、184,190,224(ノーミス)と言うスコアーで、以前は月に1度くらいしか達成出来なかった「ノーミスゲーム」が、ナント「1日で2回も達成」出来たのである。
平均スコアーも、今年の目標である「200」には及ばなかった物の「194」で、ストライクが27個、オープンフレームも8回と、今年の「初投げ」としてはほぼ満足出来る結果が出たのである。
明日(と言っても時間的には今日なのだが)はマイナーではあるがリーグ戦があるのだが、対戦相手の女性は「ハンデーが29」もあり、今日の調子を維持しないと勝ち目は少なくなってしまうだろう。
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