メガリス

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龍馬殺害実行者の定説「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」

2008年11月04日 01時47分01秒 | 幕末維新

 坂本龍馬殺害実行者は「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」というのが既に定説となっている。

 平成20年11月5日(水) 19:58から日本テレビ系で『日本史サスペンス劇場 龍馬を愛した女たち』(プロデューサー・総合演出:近澤駿)が放送予定だが、龍馬殺害事件についても言及されるらしい。

 反戦平和・暴力反対・人命第一の反日サヨクにとっての天敵西郷隆盛を目のカタキにするこの番組のことだから、龍馬殺害事件についても専門の歴史学者からは嘲笑されている俗説の一つでしかない“薩摩藩黒幕説”をことさら強調し、またしても西郷を悪者扱いにするに違いない。大政奉還後の徳川氏の処遇について坂本龍馬と意見を異にしていた西郷らが坂本の居場所を幕府側に漏らした、あるいは直接「人斬り半次郎」こと中村半次郎(後の桐野利秋)を差し向けて坂本を暗殺したという説だ。昨年9月18日に放送されたこの番組の前身である『本当にあった日本史サスペンス劇場』でもそうだった。

 歴史学者の間では坂本龍馬殺害実行者については確定した定説がある。「京都見廻組実行説」だ。

 NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』『琉球の風』『篤姫』の監修をした鹿児島大学教授:原口泉氏の著書『龍馬を超えた男 小松帯刀』から龍馬暗殺に関しての記述を引用する。

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 犯人はいまだにわかっていません。ただ龍馬はこれまで、帯刀の庇護下で活動していました。その庇護がなくなったとき、龍馬をかねてから狙っていた京都見廻組の佐々木只三郎らに殺されたと見るのが妥当でしょう。

引用終了--------------------

 もう少し詳しい説明をウィキペディアから引用する。(文字強調は私メガリスによる。)

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京都見廻組実行説
大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。なお現場に駆けつけ中岡慎太郎を見舞った谷干城は京都見廻組説を信じていなかったという。

(中略)

薩摩藩陰謀説
大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。徳川慶喜の処遇をめぐっては、西郷隆盛と坂本龍馬では意見の相違があったことは明らかになっている。維新クーデターによる大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。また、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情である。

引用終了----------------------

 エライ学者さんたちの間の定説だからこれが正しいのだ、などと言う気は無い。だが、この定説を覆すような事実は殆ど見当たらないのだから、やはりこれが真実であろう。

 土佐の大政奉還運動の主役は後藤象二郎だった。坂本龍馬が其の中心人物だったというのはフィクションに過ぎない。龍馬は薩長と足並みをほぼ揃えていて、もし徳川慶喜が大政奉還策を受け入れないなら慶喜を襲撃殺害する計画まで練っていた。“龍馬は平和的大政奉還論者でその運動の中心人物だった”というフィクションを前提とし「あくまで武力討幕を目指す薩摩が平和的大政奉還論者の龍馬を疎んじ殺害した」という見当違いのリクツを述べているのが「薩摩藩黒幕説」である。

 「西郷降し」の目的で、あるいは、単にお話としての面白いからという理由で、西郷や薩摩に濡れ衣を着せるのは止めて頂きたい。