”坂本龍馬が大政奉還を発明し、彼の奔走によって実現した”という龍馬伝説「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。
5・6年前に買って飛ばし読みして以来行方不明だった、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)を遂に発見した。エッチなビデオ・DVDを入れていた箱から出てきた。松浦先生、ごめんなさい。
ざっと読んだだけだったので具体的な内容は余り記憶していないのだが、歴史的実在の坂本龍馬と、主に司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』によって形成された通俗的坂本龍馬像は全然違うのだという大雑把な認識をこの本によって持った。
とりあえず私が関心を持った部分を引用させて頂く。
大政奉還は龍馬の発案ではない、というお話である。
引用文中に登場する「A氏」とは、松浦氏が会った「ある初対面の、狭義の龍馬専門家ではないけれども龍馬に関する著述をお持ちの人」である。
(ルビは当該文字・語句の直後に”《 》”でくくって表記した。文字強調は私メガリスによる。)
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大政奉還についても触れて置こう。『竜馬がゆく』では、これから後藤と共に上方に向うという六月の長崎、小曽根家にいる「おりょう」に書置きを残して外へ出た龍馬が、夜の石畳を歩きながら大政奉還の思案を続けるという場面になる。
そこで龍馬の思いついている大政奉還は、後藤から土佐藩の政治的行方について相談されたときに「とっさにひらめいた案」で、「驚天動地の奇手」というべきものだとの司馬さんの解説が入る。これは小説の主人公龍馬に対する司馬さんのサービスである。
実際には大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって、政局に影響力を持つ議論として持出されている。文久二年(一八六ニ)の一翁はその論が一因となって側用取次という旗本としては最高の、将軍に対して強い影響力を行使できる地位から左遷された。文久三年の春嶽は攘夷を拒否して将軍職を返上せよと政事総裁職のポストを賭けて争い、敗れると任務を放棄して福井に引込んだ。
一翁も春嶽も政権を返上すべきだとの考え方を生《き》まじめに堅持し続け、機会あるごとに繰返し持出している。近いところでは十四代将軍家茂《いえもち》 が長州再征中の大坂で死んだあとのことがそうだ。春嶽は、徳川本家も尾張徳川家や紀伊徳川家と同じ一徳川家の位置に下がり、政治方針は朝廷の招集する大名 の会議で決するべきだとの意見であった。慶喜は春嶽を裏切って十五代将軍の地位に就いたのである。
龍馬は一翁や春嶽から直接に話を聞かされているのだから、文字通りの直弟子である。したがって「とっさにひらめた案」だとか「驚天動地の奇手」だとか言うのは褒めすぎ、龍馬に対するサービスのし過ぎである。龍馬の功績は、春嶽や一翁から受売りの大政奉還を、藩から幕府に建白させる「きっかけ」を作ったというに過ぎない。
しかしこれも、かく言う私の意見は「歴史」ではなくて、司馬さんの『竜馬がゆく』の方が「歴史」なのであるから、たとえばA氏では、そのような驚天動地の 奇手を思いつく龍馬の存在を、統制型人間である薩摩の大久保利通は許すことができず、殺意を固めるという話になるのである。大政奉還論は龍馬の発明ではありませんよと私などが横から言っても耳には入らない。
司馬さんが龍馬に対するサービスとして「驚天動地の奇手」と書いたことが、或る種の読者の側では、実際の大政奉還を龍馬が殆ど一人で実現したかのごとき思 い込みにつながり、龍馬暗殺の真犯人を大政奉還反対派に求めるという賑やかな(これはもちろんA氏だけではない)議論につながっていくのである。
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