「わたし、失うものなんてないので。」
契約社員のおねーさんは目に涙を浮かべながら、まっすぐ前を向いていた。
弊社の部署は終わってるらしい。新卒当初から配属された僕としては比べようがないが、長時間労働、業務過多、ギスギスした人間関係に、パワハラの見本市との評判だ。たしかに、仕事ができない人は徹底的に惨めな思いをする職場だった。
お前はどっちの味方なのかと迫る上司と週末はゴルフに行くことになっている。
長時間の定義も、労働の意義も残念ながら千差万別だって気がついた頃には、僕も擦りきれていた。
契約社員のおねーさんは仕事もできるし、なんだって相談できた。だから僕はこっそり尊敬していた。おねーさんがただの普通の社員なら、おねーさんは人の上に立つべき人だとおもったし、人権だってあったおもう。
けれども、僕はもうずいぶん擦りきれてしまったから、なにかを感じるには手遅れだった。
だから本当はすこし楽しみだった週末の、新入社員の歓迎会と称した陰口大会で、僕はきっとおねーさんがいかに空気も読めず、和を乱す異物であるかについて迫られ、くたびれた愛想笑いで従うしかないんだ。それが堪らなく悲しかったのに、これからも僕はきっとずるい人や強い人、こわい人に従い、弱くて優しくて正しい人を踏みにじるんだろう。そうやって波風を立てずうつむくんだ。
「ぜったい、わたしを庇わないでね」
窓のない給湯室で耳打ちされた。
「君は社員さんなんだから、彼らが今後どこまで上にいくかわからないからね」
お湯を注ぐわずかな刹那、僕は後を追うこともできないまま、置いていかれてしまった。
ひとりぼっちの僕はそれでもきっとまぐれの身分に守られていて、たくさんの笑顔を咲かせたおねーさんは当たり前のようにいなくなった。
ブラックコーヒーをひとくちすする。ふと床に落ちた職場の標語には靴のあとがついていた。
「なにかほかにあるかな?」
職場のデスクに空きが出た頃、会議室の窓から見える街路樹がイチョウだと気づいた。課長との面談はお決まりの定型文をなぞった。僕は意欲ある若手社員の文字列を並べた。
「ほかに、なにかあるかな。」
最後の一言でそれらがきちんと整うことは明らかだった。だからなんでかな。「なにもありません」の一言が喉をつっかえて息が苦しくなった。
僕らはとっても弱い生き物で、それをわかったうえで、自分で、自分の言葉でそれを認めなくちゃいけないんだ。
「なにもありません。
ありがとうございました。」
眉間に刻まれた皺は、爪先をにらんだ数だけ深くなっていった。
深く刻まれた海の底で、きっといずれ僕の目も、口も、耳も退化して、不気味な触覚だけが発達して、僕は僕じゃないなにかに変身するんだろう。
だけれども、それでも、僕はまだこのしょっぱい海の美しさを知りたいとおもった。
【おわり】