「できました。」
マスク越しのくぐもった声の少年はノートを差し出してきた。彼の実年齢よりは幾分やさしい問題が解き終わったとのことだった。インクの出が悪い赤ボールペンを構えて、チョロチョロと慣れない丸をつける。
所詮腰掛けアルバイトの僕からすればこんな中身のない学生に金を払って先生、先生と教えを乞うのは虚業だとおもえた。
「こんなの楽勝っすよ」
僕は手際よくみえるように丸を付けていった。
「おれが不登校のとき、どんだけ必死にやったか……」
彼は今にも消えてしまいそうな声でつぶやいた。
「たくさん合ってるじゃん。えらいね。」
僕は回答と見比べながら次々に円を描く。
ふと彼の隣に座るのは僕じゃなくともいいような気がした。ただ回答とあっていれば、成果物のうえから不格好な楕円形で汚す。特に彼の言葉に耳を傾けようともしない。ならばいまの僕の仕事は人間である必要があるのだろうか。
「先生、」
「んー?」
正直、面倒はごめんだとおもった。そんな自分は教育者にはからきし向いていないのだろう。
「先生が前に言ってくれたこと、無理そうです。」
「そうなの?」
彼には夢があるらしかった。以前話してくれたとき、礼節程度の空っぽな励ましを言ってしまった。少し申し訳なくなって取り繕うために吐いた出任せを彼は今日まで噛み締めていたようだった。
「おれ、もうすぐ遠くに行くらしいです。」
「そうなんだ。」
眉を潜めてみたが、彼のほうを見るつもりはなかった。ただ丸だけが増えていった。
「できても、きっとずっと遠い未来になるとおもいます。」
遥か遠い未来の先にでもあるなら、君の視力は落ちちゃいないとおもうよ。
「紙とえんぴつがあれば、どこでだって何にでもなれるさ。」
心底適当だとおもった。仕方ないか。
少年はあまり腑に落ちない顔でこちらを見上げた。まぁそうだろうね。
でもさ、今の時代はインターネットがあるじゃないか。努めて明るい調子で無理矢理話を切り上げた。インターネットが魔法かなにかのように語るのはポケベル世代の決め台詞だった。よく言われたもんだ。
彼は素直なのか話しても仕方ないとおもったのか、僕と同じ調子で「そうですよね、がんばります」なんて意味のないことを言った。
概ね正解だった。少しケアレスミスもあったが、彼の学年から考えれば出来て当然の問題だった。
「惜しかったね。」
僕はノートを少年に返した。浮かない顔のまま、少年はシャーペンの先を見つめていた。
「おれ、誰にも必要とされてないとおもうんです。」
「そう?」
「どうして…」
涙をいっぱいに溜めた彼は僕の家族ではなかった。お客さんである。お金で繋がった関係だ。だから慰めることも単なるサービスに代わりはない。
「先生、君の夢が叶うの楽しみだな。」
これは呪いだろうか。安易な優しさのつもりだったのだろうか。十三歳の君があと何年生きて、そのうちいつまで覚えていて、どれ程本気なのか僕は知りようもない。それに大人は都合よくなかったことにする。
それでもまぁ、いっか。
彼が涙を拭くまでは覚えていても。
【おわり】