<世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる>
(無常のこの世を
逃れる道はないのだ
世の中を捨てようと
深く分け入った山の奥にも
妻恋う鹿の声が聞こえる
あわれ鹿よ
わが心も千々に乱れ
静けさを失う
遁世の難しさよ)
・『千載集』巻十七・雑に、
「述懐の百首歌よみ侍りける時、
鹿の歌としてよめる」
として出ている。
この歌は、
俊成がまだ顕広(あきひろ)といっていた、
二十七歳の頃の作。
折しも二十三歳だった北面の武士、
佐藤義清もこの年、
出家している。
円位と名乗っていた彼こそ、
のちの西行である。
俊成は後白河法皇の仰せをうけて、
『千載集』を撰進したが、
若いときによんだこの自信作を入れたいと思った。
しかし「道こそなけれ」が、
政治風刺ととられてはまずいとためらっていたところ、
特に勅命があって入集したらしい。
芸術も政治の束縛をのがれにくい。
定家は父の作品からこの一首を、
百人一首に入れた。
藤原俊成、
「としなり」とよんでも、
まちがいではないが、
「しゅんぜい」とよむのが、
古くからのならわしである。
永久二年(1114)生まれ、
元久元年(1204)九十一歳で死去。
定家の父。
王朝末期歌壇の大御所。
定家、寂蓮、良経、式子内親王といった、
新古今調の騎手たちを指導育成した。
俊成は、定家ほど絢爛ではないが、
余情あり、あわれの余韻は深い。
私の好きな歌は、
<またや見む 交野のみ野の 桜狩
花の雪散る 春のあけぼの>
<住みわびて 身をかくすべき 山里に
あまりくまなき 夜半の月かな>
俊成は一世の歌人として、
うやまわれた人だけに逸話も多いが、
人々がことに愛するのは、
『平家物語』巻七の、
平忠度(ただのり)の話であろう。
平家一門が都落ちするとき、
忠度は侍五騎を連れ、
俊成の邸の門を叩く。
俊成はこの時七十歳、
すでに出家して釈阿と号していた。
忠度は戦地に向かおうとして、
自分の歌集を俊成に托したのである。
勅撰集撰進のことを聞き、
「生涯の面目に、
一首の御恩をかうむり候はばや」
忠度は勝ち目のない戦いに出かけてゆくが、
生きたあかしに、
せめて勅撰集の中に一首でもとどめられたい、
と願ったのだった。
兵乱が終わり、平家は滅び、
忠度も戦死した。
俊成は勅撰集『千載集』に、
忠度の歌を入れてやりたいと思った。
しかし勅勘の人なので、
名を出すのははばかりがあり、
詠み人知らずとして入れた。
それが、
<さざなみや 志賀の都は 荒れにしを
昔ながらの 山ざくらかな>
(次回へ)