5月9日から10日にかけて、小生地元の新郷中学校の校長室金庫から現金23万円が紛失するという報道がありました。
ポイントは①同校の番頭様たる教頭先生の引出しに金庫の鍵があったのですが、その机自体が無施錠状態だったこと。②ダイヤルキー番号も教職員らで共有されていたこと。
つまり「セキュリティー」「危機管理」の問題なわけです。
さて、告白すれば事件当時、小生は同校のPTA会長を仰せつかっており、従って、当然小生も当事者であり、責任の一端があります。
その上で、あえて言わせてもらえれば、ここの校風は、(小規模校ということもあり)生徒教職員みな一つの家族のようなもので、互いの信頼関係は絶大なものがありました。
小生はその校長、教頭をよく知っていますが、人格・見識とも申し分のない人物であり、会長時代は随分と勉強をさせてもらったものです。ですので、彼らの顔に泥をぬった犯人には非常に腹が立っていますし、特に教頭先生の人の良さにつけこんだ、この破廉恥な事件は本当に残念なわけです。もちろん、警察は外部犯か内部犯かは明らかにしてませんがね。
ちなみに報道では「管理体制に不備があったとして、地元の教育委員会は今月3月15日付で教頭を高等訓告、同28日付で好調を文書訓告の処分とした。」とあります(10日付デーリー東北)
さて、確かにセキュリティー上の問題があったと指摘されれば、確かにそれは「正論」でしょう。誰も否定できるわけがありません。
しかし、あえて言うなら日本の社会は「そんなことする人いるわけがない」という、前提で成り立っている側面があり、事実、そうだと実感できることが多々あります。
小生はニューヨークで移動の際、地下鉄をよく利用していたのですが、下記の同改札の写真をご覧ください。
Metroカードという黄色いカードを購入し、それをクレジットカードみたいにスライドさせると回転する鉄格子の向こうに行けるという仕組みなのですが、小生最初にこれを見たときは「日本と違って随分と遅れているなぁ」という感想を持ちました。しかし、それはさにあらず。無断乗車を避けるためのまさに「鉄格子」そのものなのであります。つまり、ニューヨークメトロは、人間を「性悪説」で見ている。
一方、下記はお馴染みの日本のJRの改札。Suicaをピッとかざせば、薄っぺらいプラスチックの板がパカッと開く仕組み。
はっきりいって、無理やり通ろうと思えば向こう側へ行ける。しかし、JRは「まさか、そんなことする人はいない」という前提で、そのシステムを採用している。完全な「性善説」。
また、L.Aではこんなこともありました。小生が雑貨屋で、何か(お土産だったと思う)を買おうとレジにて50ドル札を店員に出した時、現地の日本人コーディネーターに(その札を戻され)、こう注意されました。「ドルを出すときは、相手がちゃんと金額を言って、要求された時に払ってください。でないと、とぼけてもう一回(再度)要求されることがあります。」
店員のお金の二重取り。日本のコンビニやスーパーで、そんなこと想像したことありますか?
「そんなことする店員なんているわけがない。」そう思って、みんな生きてるはず。
「性善説社会」日本。
「人を見たら泥棒と思え」。そう思って社会を生きることは、非常につらいし、ギスギスした世知辛い世の中になることでしょう。
まぁ確かに、東京オリンピックを控え、新幹線などの交通機関をはじめ社会のセキュリティーはこのままでよいのか?ってのは考えなければなりません。早急に。(小生は新幹線も飛行機なみのセキュリティチェック必要と思うし、山手線とかにも監視カメラ整備すべきと考える。ちなみにロンドンの赤バスにもついている)
ましてや、国際社会。つまり、日本の安全保障。
驚くべきことに「日本国憲法」そのものも「性善説」に立脚しています。
その前文の一部をご紹介します。
※北朝鮮国家のことを想像して、これを熟読してみてください。いかにばかげた妄想かお分かりになるはずです。
はっきり申して国際社会とは、つまるところ「国益」と「国益」のパイの奪い合いであって、一見平和状態に見えながら、その水面下では「暗闘」が繰り広げられていることは、ある一定の教養がある方にとっては常識というものです。
考えてもごらんなさい。
ロシアの公正と信義を信頼したら、平和を愛するロシアが武力制圧で違法占拠している「北方領土」を返してくれるのでしょうか?
韓国の公正と信義を信頼したら、平和を愛する韓国が武力制圧で違法占拠している「竹島」を返してくれるのでしょうか?
中国の公正と信義を信頼したら、平和を愛する中国が、「尖閣諸島」への領土的野心を捨てるのでしょうか。
そして、真打の「北朝鮮」は・・・
我らの隣国のどこに「平和を愛する諸国民」ってあるのでしょうか?
ましてや、これら隣国の「公正と信義を信頼したら、国民の安全と生存を保持できる」なんて究極の「性善説」というものです。
「北朝鮮を信頼してるから、ミサイル頭上通っても、枕高くして寝てられる。何せ、彼らは平和を愛する諸国民だし、憲法を拝んでたら安全だよなぁ~」
「性善説」を通り越して、もはや、おめでたい。
武力放棄(9条2項)したために、罪もない同胞多数が隣国に拉致されるという辱めを受けた(受けている)この現状を考えたら、そんなことは言えないはずです。まして、母国に戻られず未だ、独裁者の圧政下にある被害者の無念を思うと、小生はこの「憲法」が腹立たしいのです。
さて、随分と話がそれましたが、言いたいことは2つ。
1. 文科省傘下の「教育委員会」が、「性悪説」に立脚した学校の「セキュリティー」「危機管理」を先生方に指導するなら、生徒にも授業において、同様の「性悪説」に立脚した国際社会の現実を教え、「性善説」憲法の矛盾点も教えるべき。
2. メディアも同様に「性悪説」に立脚した学校の「セキュリティー」「危機管理」の必要性を説くなら、同様に我らの祖国、日本の「安全保障ナショナルセキュリティー」の早急な整備の必要性を説くべき。当然、護憲派の詭弁も指摘すべき。
学校には賊が入るかもしれないから「危機管理」が必要。
日本には賊が入らないから「危機管理」は不要(何故なら憲法が保障してる)。
って、おかしいでしょ。
それでもなお、「文科省」も「メディア」も、「性善説」に立脚した「現行憲法」を拝んでたら国民は安全とするなら、それは驚くべき「二重基準(ダブルスタンダード)」というものです。