赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
↑次にお星さまが増えるのはいったいいつになるのでしょう…
 





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職業作家の佐藤優さんが臨済宗相国寺派の研修において同派僧侶及び一般市民の受講者に対して行った4回の連続講義の内容をテキスト化したもので、その内容はクリスチャンの目から見た足下の危機に対する克服の処方箋というものです。著者は宗教というものの本質について、「人間を救済すること」としていますが、その宗教から危機に強い人間になる技法を体得ために本書は有益であると位置づけています。キリスト教徒(プロテスタントのカルヴァン派)である著者が僧侶という仏教専門家に対して行った講義内容ということで、宗教専門家以外にもわかる内容に編集しなおされているようです。本書の構成は講義に合わせて4つに分かれており、以下それぞれの講について概略や個人的に気になったものを抜粋します。

「第1講」では、世界情勢を読み解く上で必要となる世界3大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教それぞれの基本的なスタンスについて、時に時事問題のケーススタディも織り交ぜながら説明しています。キリスト教については、「神学論争では常に論理的に弱い方、無茶なことを言う方が(弾圧したり政治的圧力を加えて)勝つ」、「神学的な論争には進歩がなく、論争をしても暴力的な形で決着がつき、数百年後にまた同じ議論が蒸し返される」という自虐的にも思える認識を示しつつ、西欧を作っている根本原理として①ユダヤ・キリスト教の一神教の原理、②ギリシャ古典哲学の原理、③ローマ法の原理の3つを挙げています。

なお、ここで著者は「一神教は不寛容で多神教は寛容」という俗説」について、(ⅰ)一神教は神様と自分との関係において自分だけが救われればよいと考えており、他人がどうしようが関心がないと言う意味で寛容であり、(ⅱ)世界を見渡して紛争を起こしているのは一神教だけではなく多神教同士の紛争もある、という2点をもって否定していますが、私は著者の否定する「俗説」をまだ捨てきれませんので、そちらはもう少し研究してみたいと思っています。イスラム教については、一口にイスラム教徒と言っても、主流派であるスンニ(スンナ)派と、イランで盛んなシーア派の2つに分けられ、そこから更に分派していく。そして、イランの核開発問題やシリアのアサド政権の行動原理といった世界情勢を理解しようとする上ではそうした分派のスタンスまで理解する必要があるようです。そして仏教については仏教の専門家相手ということもあってかここでは詳しく触れていません。

「第2講」では「『救われる』とは何か」。宗教というのは何のためにあるのかということで、基本的には人間の救済のためにあるものとしています。そして、その宗教は必ず物語の形で語られること、神話は科学によって拒否するものではなく解釈するものであることを指摘しています。また、日本人の思考方法として、基本的に「言挙げ」(言葉に出して言い立てること)をしない。あるいは「言挙げ」できるものによって「言挙げ」できない部分を知るという方法であるとしています。他方欧米では、フランス革命の原動力の一つであり、米国の建国の理念でもある「啓蒙主義」があります。そこでは理性が基本にあり、つまり啓蒙とは真っ暗な部屋に1本また1本と蝋燭を立てることで明るくなり、それまで見られなかったものが見られるようになる(理解できなかったものが理解できるようになる)というもの。この考え方が近代欧州で強まったが、それに対し、「いや光があれば影があるはずだ」と言うことでその影の部分=暗闇に着目したのがロマン主義である。ロマン主義の立場から言えば、啓蒙主義で蝋燭を立てて明るくしていった結果が第1次世界大戦、第2次世界大戦というカタストロフィーだった。これは光を増やせば増やすほど闇が増大したのではないか、そこにナチズムの跋扈のようなことが起きたのではないかとの認識であるということ。。

「第3講」は「宗教から民族が見える」ということで、民族というのは、宗教としては国家とともに避けて通ることのできない問題です。生きている人間と向かい合う必要のある宗教としては、生きている現実の政治、現実の民族、現実の国家の動きをまず押さえないといけない。最も強い宗教や主流の宗教という観点から見ることで実は民族が見えてくる。そしてその強い宗教というのは「宗教」というよりもむしろ「慣習」という形であらわれる。

いにしえからの伝統について、合理性では割り切れないが「真理」として信じるものがある伝統宗教。これに対して、いわゆる「新宗教」の構成は近代主義的で、合理的な考え方をうまく取り入れている点を指摘しています。そして、その新宗教のひとつであったオウム真理教について、実は仏教というよりもキリスト教のドクトリンの方が強くなっていったのではないか、という指摘は興味深いものでした。実際に麻原彰晃氏とその仲間が著者の専門分野であるロシアに行っているそうです。そのロシアの19世紀の思想家ニコライ・フョードロフは「科学技術が発展すれば人類は人間を生物学的に完全復活させることが可能になる」としている。そして、もしそれが実現し、アダムとエバまで遡る過去の人類がみんな復活すれば地球が手狭になる。そうなれば宇宙に出るためのロケットだ、ということでロケットの元になる考え方を発案したそうです。この発想は「ロケット工学の父」と言われる人物を経由してドイツに流れ、フォン・ブラウン博士によりV1ロケット、V2ロケットというナチスドイツ軍のミサイル兵器となり、引いてはソ連の人工衛星や米国のアポロ計画に繋がったといいます(「フォン・ブラウン」というワードはガンヲタとしては反応せざるを得ません)。つまり、人類の宇宙に対する関心の根っこに宗教的動機があったということなります。そして、その「万人を復活させる」という考えが麻原氏の思想に影響を与えた。「魂が死んだ後も残る」という発想は仏教ではなくキリスト教の発想で、実際麻原氏は「キリスト宣言」までしている。そして「オウム真理教という素晴らしい宗教に弾圧をかけようとする政府や反オウムの人々はそれにより自らの魂を汚すこととなってしまう。だから魂を汚す前に彼らを殺してしまうことが彼らの救済に繋がるのだという、考えに陥り、あのようなテロ行為を行わしめた、という指摘です。

またここでの一連の指摘として、日本人は成文憲法を作りなくなかった。今の憲法(日本国憲法)が「おしつけ憲法」だとすれば、大日本帝国憲法も「成文憲法のない国になど関税自主権は与えないし、治外法権も撤廃しない」という外圧によるという意味でやはり「おしつけ憲法」ではないか。我々は日本人だと言う目に見えない憲法が我々の中に生きている。だから憲法が実態と離れても余り困らない、というものがありましたが、「日本には英国のような不文憲法の方がなじむのではないか」という考えに至りつつある自分としては少々興味深いところです。

そして、我が国にも、天皇神話に包摂されていない沖縄と言う「民族」問題があることを忘れてはならない。沖縄という存在がある以上日本もやはり「帝国」である。沖縄は日本と異なり、「天の意思が変わり、天に見放された権力者には従う必要はない」という中国の易姓革命思想がそのまま入ってきている、といった一連の指摘は、母上が沖縄のご出身である佐藤さんならではの視点と言えましょう。

最後の「第4講」は国家と宗教ということで、「国家というものを見つめると宗教の重要性が見えてくる」とした上で、国家と民主主義というもののあり様を考える上で、「中間団体」としての宗教団体の重要性を指摘しています。ここでいう中間団体とは国家と個人の中間にあるもの=組織や団体のことであり、仮に個人ひとりひとりが国家と直接対峙することになってしまえばその圧倒的な力の差から国民の権利を守ることが困難になる。だからこそ、その間に入りクッションになり得る中間団体が民主主義を担保する存在なのだ、というもの。米国は新自由主義で小さな政府だが、それでもかの国にはセーフティネットとして社会団体や中間団体がある。その前提があってこその新自由主義であり小さな政府であった。しかしその米国の古き良き中間団体が弱体化した結果、「1%の富裕層対99%の我々国民」というウォール街のデモが起きるような状況に陥ってしまった、という指摘は個人的には新しい視点でした。中間団体としての宗教団体については、我が国では現憲法の定める「政教分離」とあるいは相反するものなのかもしれませんが、そこはバランスの問題なのでしょう。

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