つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

DVD「ナザレのイエス」について。

2006-01-05 21:38:01 | キリスト教(カトリック)
昨日全部見たのですが、日記を書く力がなかったので(笑)、本日の更新になりました。

ところどころ創作というか、解釈が入っていますが、映画としてなかなかのものではないかと思います。
たとえば、ユダの裏切りは、「本人は」イエスを助けかつ試せる(この時点でユダはイエスをメシアと信じ切れなくなっていたため)と思ったために、ユダヤの祭司たちの罠にかかったものだった、とか。
創作というのはピラトがイエスかバラバのどちらを釈放するか、というシーンで、側近が「バラバは危険な男ですよ」と言うのに対し、「イエスはもっと危険かもしれん」と返すシーン。
映画としては劇的ですが、聖書ともずれるし、歴史的事実から見ても、そこまでピラトが頭が切れたら(実際約三百年後には、キリスト教はローマを制しますから)、そもそもユダヤの総督なぞやってなかったでしょうね。

とはいえ、とてもいい映画でした。
イエス役のロバート・パウエルの不思議な薄い色の瞳が、透き通るようで、何もかもを見透かすようで、まさにはまっていました。
また、十字架刑の場面で、「女の方、あなたの息子です」と聖母マリアに声をかけるシーンがあったのですが。
葉月はずっと、どうしてここで「お母さん」と呼ばなかったのか不思議でした。当時一般的に女性をそう呼んだから、とはいっても、母親はお母さん、と呼んでいたと思うので(旧約の訳から考えて)。

でも、映画の中で、あそこで「お母さん」と呼ばれたら…。
並みの母なら、というか私なら、崩れ落ちてしまうかもしれません(マリア様がどうかは到底想像つきませんが)。
それと、「息子である自分は行ってしまうが、新しい息子を傍に置きます」というような意味もあったのかもと思います。
…とはいえ、そこで全キリスト者の母となさった、とまでは葉月のイメージは広がりませんでしたが。

映画で御言葉の意味が深まることもあるんだなと思いました。
コメント
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