相手が知ってる事を前提に語られる言葉って何か変だよね?
相手が知らなくても伝わるものが言葉なんでない?
チャネリング理論におけるマルチチャンネル構想と同じくらい
曖昧でいい加減なこっちの自分語とあっちのヤツラ語が
でたらめちっくにはびこってる不思議空間が
情報過多による肩こりを作り出すわけで…
飛躍思考すれば
知識垂れ流しの世の中で他者の外部記憶としての自分には
たいして意味を見出せないと思い込まされてるわけですよ。
ほんならよっしゃ
ここはいっちょ入力と出力の限界に挑戦したりまひょ
ってな事で
五感入力と筋肉出力以外の
あれでもねーこれでもねーじゃーそれいってみっか
という電波系の模索になるわけですが
そもそも一つの全体脳における
ちまっこい細胞生物的自分であるならば
当然、言語も思考も一つの入力系となりうるわけで。
テレパシーなんぞ信じなくても
何かを頭で思い付いた瞬間に既にそれは入力なわけですよ。
言語覚を6番目の感覚器官と位置づけ
じゃぁ出力はなんなのかと考えると
じつは俺は出力なんかしとらんのです。
僕はいつも世界を感じるだけ
何も生産なんかしていない
相手が知らなくても伝わるものが言葉なんでない?
チャネリング理論におけるマルチチャンネル構想と同じくらい
曖昧でいい加減なこっちの自分語とあっちのヤツラ語が
でたらめちっくにはびこってる不思議空間が
情報過多による肩こりを作り出すわけで…
飛躍思考すれば
知識垂れ流しの世の中で他者の外部記憶としての自分には
たいして意味を見出せないと思い込まされてるわけですよ。
ほんならよっしゃ
ここはいっちょ入力と出力の限界に挑戦したりまひょ
ってな事で
五感入力と筋肉出力以外の
あれでもねーこれでもねーじゃーそれいってみっか
という電波系の模索になるわけですが
そもそも一つの全体脳における
ちまっこい細胞生物的自分であるならば
当然、言語も思考も一つの入力系となりうるわけで。
テレパシーなんぞ信じなくても
何かを頭で思い付いた瞬間に既にそれは入力なわけですよ。
言語覚を6番目の感覚器官と位置づけ
じゃぁ出力はなんなのかと考えると
じつは俺は出力なんかしとらんのです。
僕はいつも世界を感じるだけ
何も生産なんかしていない