嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

心の臓器が、破壊されたその日から。

2005年03月11日 20時20分06秒 | 駄文(詩とは呼べない)
新しい世界について、そろそろ考えないといけないのだろうか?
今ある言葉で考えるのはダメだ。
それは新しい世界ではない。

まずは言語と感覚を、捨てねばならない。
誰にも見つからないように、自分を消す方法を、
もう少し真面目に考えないといけない。
そんな気がする。

おそらくは、もっとも混乱した環境に身を投じること、
それが一つの鍵とはなるだろうけど。
まずは管理社会というネットワークから抜け出して、
一人で考えないといけない。
一人だけの世界で、自分と世界を消し去って、
そこから生まれる新しいものだけを、うまく抽出せねばならない。

ここでは無理のような気がする。

自分を諦める奴はすぐに死ぬ。

2005年03月11日 20時08分19秒 | 駄文(詩とは呼べない)
諦める…?
諦めるってなんだろ。
ほとんど誰もが宇宙の外に出る事を諦めているんじゃないのか?

この宇宙の広さの限界は科学者たちの言い訳の限界なのに、
その嘘に騙されっ放しでいいのか?

僕が宇宙を知った時に、同時に宇宙が生まれたとしても
僕が知る前に誰かが知っていたんじゃないのか?
最初に宇宙を知った人は誰なんだ?
最初に宇宙を考えた人は何者だ?
最初に宇宙を創った人はそれまでの世界の果てを壊したはずだ。

あの豊かな真っ暗闇の声を聞き、それに近付こうとしたはずなんだ。
もしくは宇宙になろうとしたはずなんだ。

だけど本当は、宇宙なんか無いんだ
地球の丸さも嘘なんだ
宇宙の広さは、人間の観念の共有の広さだから。

感覚が一つのフレームを飛び越える時、
その痛みは別のチャンネルに繋がる
五感が一つに統合される錯覚は、
チャンネルの刻みが、あまりにもシンクロしているからだろう

TVを見るとき、僕は何を見ている…?
TVの音を見るのか?
TVの映像を見るのか?
TVのドットを見るのか?
TVの匂いを見るのか?
TVの四角さを見るのか?
TVという言葉を見るのか?
TVの向こう側を見るのか?
TV番組を作った人の頭の中を見るのか?
TVを見ている自分を見るのか?
TVが突き刺す、自分の心を見るのか?
TVを通過した、電気の光を見るのか?

たぶん、どれも違うんだろう。
テレビという曖昧でわからない鏡を通して、僕はTVになるんだろう。
僕とテレビが同じだという意識の動きを見るんだ。
何故なら僕とTVは違っているけどテレビとしては同じだから。

ほらね、やっぱりこの言葉は不完全だ。
泣けてくるね

僕はTVを語ることすらも、決してできはしないんだ。
もちろんテレビを語ることも出来ない。

僕はこうやって日常の一つの具体性を語ろうとすることで
日常の波に飲まれてゆく。
自世界の謎を解く事を後回しにし続ける。
他人を知ろうとする方が、他者の宇宙を知ろうとする事よりも、
遥かに簡単だからだ。
そして僕は光を失っていく。
現実が現実としての色合いをますます増していき、
他者に対して暴力的になり、他人に対して優しくなるんだ。

もう一度、問われなければならない。
ルールは誰が決めたのか。
ルールこそが、僕の世界を縛り付ける拘束具であるという感覚は、
抽象的な世界を、具体化の色で染め続ける、その馬鹿げた科学競争にあるんじゃないのか?

自分が決められる事なんて、せいぜい一つ、あるかないかだろう。
自分が死ぬという事、それを決められる世の中である事を、僕は精一杯願うだけだ。
何一つとして、自分では決められないうさんくさい世界で、
それを決められるかもしれないという可能性だけが、
僕の唯一の希望なのかもしれない。

だからたぶん、諦めとは、これに似てるんだと思うね。
君は何故、これを読むことを諦めないのだろうか?