韓国はなぜあれほど日本を目の敵にするのか
――それは「韓国は国家ではなく団体である」ことに起因していると京大教授・小倉紀蔵氏は語る。
何を考えているのかわからない、どうしてそういう行動にでるのか理解できない――これがいま、多くの日本人が韓国に対して抱いてしまう感情だろう。
しかし、韓国は隣国であり、韓国を理解できるかどうかは日本の死活問題である。
理解を可能にする新しい視点とは?
※本稿は、小倉紀蔵著『韓国の行動原理』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
韓国に対するニヒリズム
日本人の多くは、韓国の国家としてのふるまいに対して、反感や違和感を持っているにちがいない。
それは、当然のことだ。 2005年に山野車輪の『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)が刊行されたころから、日本のなかで「嫌韓」という現象が顕著になった。
だがわたしの体感でいうと、非常に多くの日本人が「嫌韓」感情を持つようになったのは、2012年のことだった。
この年に当時の李明博・韓国大統領が突然竹島に上陸し、さらに「天皇が訪韓したいのだったら、独立運動家の子孫に謝罪せよ」という発言をしたのが大きかった。
わたしのまわりの多くの韓国文化ファンたちが、このときから一気に嫌韓的な感情を持つようになった。
それは実にすさまじい転向だった。
2013年には就任したばかりの朴槿恵大統領が、韓国外交の優先順位は「米国、中国、日本」の順だといういわずもがなの信じられない発言をした。
先進国の首脳には次々と「告げ口外交」をし、「加害者と被害者の関係は千年経っても変わらない」と演説した。
2015年の暮れには慰安婦問題に関する歴史的な「日韓合意」が発表されたが、その後の韓国社会はこれに反対する市民運動団体の理不尽な主張に支配され、文在寅政権はこの合意を反故にするなど、政府間の国際的合意をいとも簡単に踏みにじった。
2018年には韓国の大法院(最高裁判所)が、元徴用工への慰謝料を日本企業が払うべきだという判決を出した。
2021年1月には、慰安婦問題に関してソウル地裁が日本政府に賠償命令をする判決を出した。
その後4月の別の裁判の判決では「主権免除」の理由により訴えが退けられたが、そんなことで納得する日本人ではない。
もうすでに、韓国に対して「なにかを信頼して」「こわれた関係を誠実に修復しようと」努力しようなどというメンタリティは、日本人にはなくなってしまったと見てよい。
韓国という国とは、関われば関わるほど裏切られる、という認識が、日本のなかでほぼかたまってしまったといってよい。
わたしは立場として「親韓派」なのだが、多くの日本人が上のような諦念と嫌悪と反感を韓国に対して持ってしまっていることも、よく理解できる。
「韓国は正しい。日本は悪く、間違っている」というような思考停止の呪文を唱えるような「従韓派」ではわたしはない。
しかし安全保障や経済の側面では、韓国と決裂するという選択肢はありえないのだし、もっと文明論的にいうなら、米国と中国が文明的な対立構造に突入しつつあるいま、日本が協力すべき相手としては韓国以外ありえないのである。
ここで、大いなる発想の転換をする必要がある。
つまり、たしかに韓国は、“きちんとした国家”としてはあるまじきふるまいをしているのだが、「ではそもそも韓国とは国家なのか」と考えてみる必要があるのだ。
韓国が“ちゃんとした国家”である、という前提で韓国を見るから、ちゃんとした国家としてのふるまいをしない韓国に対して腹を立てたり蔑視したりしてしまうわけだ。
しかし、そもそも韓国とはちゃんとした国家なのだろうか。そうではない、と考えてみることから始めてみてはどうだろう。
韓国とは「運動団体」である
そもそも朝鮮半島には、ふたつの国家がある。
このふたつとも別々に国連に加盟しているので、一応、朝鮮半島には互いに排他的なふたつの国家があるといってよいであろう。
だがこのふたつの国家が1991年に国連に加盟するまえは、それぞれが堂々と「自分たちの領土は朝鮮半島全体」と言い張っていた。
いまはかつてのようには強く主張しないが、朝鮮半島におけるふたつの国家の主権の関係性はかなり複雑である。
朝鮮王朝、大韓帝国まではひとつの国家だったが、それがふたつの国家に分かれている。
そして1950年に始まった朝鮮戦争はいまだ休戦状態のままだ。
北朝鮮の独裁的な体制における自由と民主の欠如は当然のことだが、韓国にもかつての日本の治安維持法のような国家保安法という悪法がある。
1948年に大韓民国が成立してから現在までの歴史を知っている者なら、この国が尋常ならざる変革につぐ変革をやりとおしてきて、いまに至っていることがわかる。
これほどの変革の連続は、日本のように社会の安定性に最大の価値を置く国家とは根本的にまったく異なる国家だからこそできたことである。
憲法や法の「重み」が日本とまったく異なるのも、当然である。
国家自体が軽く、柔軟で、変化による摩擦やダメージへのレジリエンスがある。
国家自体が必要以上に鈍重で、かちこちに固まっており、変化への恐怖心に支配されている日本とは根本的に異なるのだ。
韓国は、日本人が常識的に「これが国家だ」とイメージするような国家ではないのだ。
韓国を国家だとは思わないほうがよいのである。
「国家なき運動団体」だと考えたほうがむしろよい。
理解するのが難しい「韓国のメンタリティ」
韓国だけではない。北朝鮮も中国も台湾も、正常な国家ではない。
「これから正常な国家になるために運動している中途半端な状態の国家」なのである。
わたしは、これらの国をけなしているのではない。
そもそも世界中に国家は200近くもあるが、そのうち正常できちんとした国民国家、主権国家はいくつあるというのか。
国連に加盟しているからといって、正常できちんとした国民国家、主権国家だというわけではない。
特に東アジアは、冷戦がいまだ継続している地域である。
中国も朝鮮も、イデオロギーによってきれいにふたつに分かれてしまっている。
これらの国を、正常できちんとした国民国家、主権国家として認識すること自体が間違っている。
韓国は、つねに革新を求めて運動する団体である。
特に文在寅政権の中枢には、そのようなメンタリティが非常に強い。
「正義と革新を求めて運動する団体こそが国家である」という認識を持っている。
この考えから見れば、
「正義と革新を求めず、運動しない団体」である日本なぞはきちんとした正常な国家ではないのである。
「大韓民国こそ立派な国であり、不道徳で反省しない日本こそ国家として欠損がある」というのが、この政権の根本的な考えである。
この考えを日本人は理解しなくてはならない。
ふつうの日本人の感覚では、到底理解できないであろう。
しかし、理解しなくてはならないのである。なぜか――。
まさにそのような根本思想を持っている国が、日本のすぐとなりにあるからである。
韓国も北朝鮮も、この根本思想の部分は同じである。
だから、この考えを理解できるかできないかということは、日本の死活問題なのだ。
日本は「国家なき不変の団体」
日本のニヒリズムの根源には、「日本こそもっともちゃんとした国家」だという思い込みがある。
「日本は誠実な国家である。日本はきちんとした法治国家である。
日本は国際的に信頼されている一級国家である。
日本は経済大国として尊敬されている国家である。
日本は平和国家として国際的に重要な役割を果たしている。日本は……」。
こういう認識は、決して間違いとはいえないのだが、残念ながら日本人は、なにかの宗教を信じているかのごとく、上のような認識を強く持ちすぎている。
「日本はきちんとした一流国家である」という誇りを持つことはよいことだが、この認識によって国家に関するすべてのことが思考停止になってしまってはならない。
現実を直視しなくてはならない。
保守側も左派側も、この「日本はきちんとした国家」であるという幻想を強く持ちすぎている。
だがコロナ禍に対処する政府の取り組みのお粗末さ加減によって、日本がガバナンスと危機管理能力を持った国家だとはとてもいえないことが露呈した。
与党支持者たちも、このことにはじゅうぶんに気づいているだろう。
本当は日本は、国家の質ということでいえば低いレベルであるという、だれもが気づいてはいるが声を大にしていいにくかった事実が、コロナ対策というわかりやすい局面で急速にあからさまになっている。
日本人は、日本社会が「動かない」ことをもって、日本という国家が正常だという根拠として考えることに慣れすぎている。
そうすると、不安定に動くこと自体が国家としての欠損と認識されるようになってしまう。
もちろん法や社会の安定性は重要である。
韓国のような不安定な社会で暮らすことのストレスは、ものすごいものがある。
だが、たとえば、自分たちがつくったわけでもない憲法を不磨の大典とみなし、それを一字一句もいじらないことこそが「きちんとした正常な国家」の根本だと考えるような守旧至上主義(左派・リベラル)が、日本社会では強大な力を持ちすぎている。
日本は「運動がない」ことによって、正常な国家ではないのである。
きちんとした正常な国家というのは、自分たちの根本的な法体系であっても、あるいは文化や社会の決まりであっても、果敢に変えていくことができなくてはならない。
それができないのなら、日本は韓国とはまったく逆の意味で、「きちんとした正常な国家」ではなく、「守旧と不変に凝り固まった団体」にすぎないのである。
韓国が「動きすぎるから国家でない」のであれば、日本は「動かなすぎるから国家でない」のである。
日本も不動を決めこんでいないで自ら動いたらどうなのだ。そういうことをできるのが、きちんとした正常な国家であろう。
小倉紀蔵(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)