満州に消えた青春 満蒙開拓青少年義勇軍
柳沼広幸2021年9月11日 10時30分
95歳になった長井竹男さん=2021年8月24日午後4時52分、群馬県高崎市上大類町、柳沼広幸撮影
日本が1931年9月に中国東北部に侵攻を始めた満州事変から90年。翌32年に傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国し、農業移民の満蒙開拓団が送り込まれた。群馬からの移民も多い。今の中高生の年代で訓練を受けた満蒙開拓青少年義勇軍もあった。大陸で青春を送り、敗戦で多くを失った。
高崎市萩原町の建設資材会社会長の長井竹男さん(95)は42年2月、15歳で旧満州に渡った。北安省(現黒竜江省)の鉄驪(てつれい)義勇隊訓練所で軍事訓練や農業を2年間学び、群馬出身者による大利根義勇隊開拓団で米や大豆を作った。
戦況が悪化していた45年1月に徴兵検査を受け、2月に関東軍に入隊。ソ連(現ロシア)と満州の国境地帯へ移動中、チチハルで8月15日を迎えた。駅近くで朝食の準備中、ソ連軍の爆撃機に襲われ、ヨモギの草むらに隠れた。近くに爆弾が落ち、熱い砂に覆われた。「やられた」「生きてたか」。仲間とともに命は助かった。
9月にシベリアのクラスノヤルスク収容所に送られた。食料が不足し、草の根も食べた。冬は零下40~50度。仲間は栄養失調などで次々と死んだ。凍っていて穴を掘れず、死体は山に置いてきた。
「人が死ぬのが当たり前になり、何も感じなくなっていった。私がいた収容所では184人が亡くなった」
3年のシベリア抑留に耐え、48年10月に帰国。「義勇軍に行くときは万歳三唱で盛大に見送られ、『国に忠、親に孝』と一生懸命務めた。帰国して褒められると思ったら非国民のように冷たい目でみられた」。義勇軍の経験は長い間話さなかった。戦後50年の95年、義勇軍の仲間と「曠野(こうや)に消えた青春」を出版し、語り伝えるようになった。
「相手を殺さなければ、自分が殺される。それが戦争だ。勝っても負けてもいい人生は送れない。戦争はやめたほうがいい」
義勇軍の少年たちも90歳を超え、多くが亡くなった。群馬県義勇軍連合会は今年3月末で解散した。「寂しいが、わずかな会員も動けなくなった」と、会長を務めてきた安中市岩井の小俣喜一郎さん(92)。
小俣さんは、11人きょうだいの三男で父は石材業。小学校で「満州に行けば10町歩(約10ヘクタール)の土地がもらえる。地主になれる」と教師に勧められ、14歳で満州に渡った。長井さんと同じ鉄驪義勇隊訓練所で訓練を受けていた16歳の時、敗戦を迎えた。
飛行機の潤滑油にする松の木の根っこ掘りから訓練所に戻ると、副所長が「日本は負けた。牛でも馬でも全部食べて、玉砕だ」と話した。「玉砕という言葉がおっかなかった。全員、刺し違えて死ぬんだ」と恐怖を感じた。
玉砕はしなかったが、武装解除した訓練所は暴民に襲われ、新京(現長春)に逃れた。さらに西安に移動し、炭鉱で働きながら冬を越した。落盤事故やガス爆発事故があった。コレラなどの伝染病で亡くなる人が相次いだ。「よく命を落とさなかったものだ」
引き揚げて10年後、小学校の教師に再会した。教師は「満州に行かせて悪かった」と涙を流して謝った。「帰れたからいいんだ」と先生を恨まなかった。
小俣さんの孫は中学生。義勇軍に入った年ごろだ。「戦争は勝つ国も負ける国もない。共倒れになる」。そう伝えたい。
奈良教育大の太田満・准教授は、長井さんや小俣さんら群馬の元義勇軍4人に話を聞き、「群馬県送出の満蒙開拓青少年義勇軍―入隊者の戦中・戦後体験の記録―」と題した冊子を今年3月に出した。
「義勇軍は、学校が大きくかかわり、教員が勧誘して送り出した。満蒙開拓や敗戦後の引き揚げ、戦後の生活など一人ひとりが生きてきた歴史を伝えたい。学校で何を教えるのか、現職の教師にも考えるきっかけにしてほしい。同じ轍(てつ)を踏まないために」(柳沼広幸)
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満蒙開拓団 満州国に送り出された農業移民。1932年の試験移民に始まり、36年の「100万戸移住計画」が国策になり、全国から約27万人が渡った。
このうち15~18歳の満蒙開拓青少年義勇軍は約8万6千人。
群馬からの義勇軍は約1600人。45年8月の敗戦で満州国は消滅し、開拓団は暴民の襲撃や集団自決、伝染病、栄養失調などで約8万人が亡くなった。戦後も帰国できない残留邦人の問題が残った。