日本と世界

世界の中の日本

韓国国民は、文大統領を選んで「失敗した」という局面を迎えるに違いない

2020-05-27 01:51:31 | 日記
勝又壽良のワールドビュー

好評を頂いている「勝又壽良の経済時評」の姉妹版。勝又壽良が日々の世界経済ニュースをより平易に、かつ鋭くタイムリーに解説します。中国、韓国、日本、米国など世界の経済時評を、時宜に合わせ取り上げます。



韓国の文大統領が、韓国経済の現状を「戦時財政」と呼ぶほど財政に依存する状態になった。

コロナ禍で、韓国経済が痛めつけられているからだ。職を失った人たちは過去最大の規模に達している。

輸出依存経済であり、もともと内需の基盤が弱いという脆弱性を抱えている。コロナ禍は、この弱い内需を直撃している。


『ブルーンバーグ』(5月26日付)は、「韓国の5月の消費者心理指数、世界金融危機以来の低水準から回復」と題する記事を掲載した。



韓国の5月の消費者信頼感は、前月記録した世界金融危機以来の低水準から回復した。

新型コロナウイルス感染拡大を抑制する取り組みが成果を挙げ、経済に対する懸念が幾分和らいだ。


(1)「韓国銀行(中央銀行)が26日発表した5月の消費者心理指数は77.6と、約11年ぶりの低水準だった4月の70.8から回復。上昇幅は3年ぶりの大きさだったが、なお100を大きく下回っており、悲観的な回答が楽観的な回答より多いことを示している」

コロナ不況は、2008年のリーマンショックと同じく、消費者心理を急激に引下げている。

5月の消費者心理指数は77.6と、4月の70.8から回復しているが、その回復幅は水面下(100以上が正常状態)であること。

また、08年時の回復幅をはるかに下回っている。08年時の消費者心理指数は、マイナス下でいったん回復しながら持続せず、再び低下するジグザグ状況を描いた。水面に出たのは翌09年5月である。

このリーマンショック時の消費者心理の悪化状況を見れば、今回のコロナ禍に伴う打撃は短期回復を望める状況にないことを示唆している。

しかも、コロナ禍では社会的距離を置いた生活を余儀なくされる。経済活動には相当の制約がかかっているだけに、早期回復は不可能であろう。

(2)「韓国銀行は28日に金融通貨委員会を開く。消費者信頼感の回復を委員会がどのように解釈するかが、政策金利決定の重要な要因となる見込み。大半のアナリストは中銀が政策金利を0.25ポイント引き下げて0.5%にすると予想しているが、据え置くとの見方もある。新型コロナ感染件数の鈍化で景気や家計収入の先行きに対する消費者信頼感が改善したと韓国銀行は発表資料で説明した」

下線部分は、韓国銀行の苦し紛れの説明と言わざるを得ない。コロナ禍は、第二波、第三波のぶり返しが危惧されている。こういう状態では警戒心が強く、消費者心理が右上がり状況になると見るのは楽観的過ぎるのだ。

このように判断するのは、過去最大の離職者を出していることである。最低賃金の大幅引き上げというミスも重なり、雇用改善の見込みはない。

『ハンギョレ新聞』(5月18日付)は、「今年に入り200万人以上が失職、史上最多」と題する記事を掲載した。



年初から4月までに失職した人の規模は200万人を超え、史上最多となった。景気不振に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡散による雇用ショックが加わったことで失職者が増えたものだが、特に休業や廃業などによる非自発的な理由による失職者が急増している。

(3)「今年1月から4月18日までの間に職場を辞めた人は207万6346人で、前年同期(165万754人)より42万5582人(25.8%)増えた。

2015年から昨年まで同期間の失職者数は150万~160万人台を維持していた。失職時期の調査が開始された2000年以降、200万人を超えたのは今年が初」


今年1月から4月18日までの間に、職場を辞めた人は207万6346人と前年比25.8%増である。過去の同期間では、150万~160万人台であったから、韓国は「大失業時代」へ突入している。

政府は、「K防疫の成功」と自画自賛しているが、大変な数の離職者を出しているのだ。


(4)「そのうち非自発的な失職者は104万4720人で、前年に比べ43万615人(70.1%)も増加した。

非自発的失職の理由では「職場の休業や廃業」が15万9932人で、前年(6万4000人)に比べ149.9%の増加。

「名誉退職、早期退職、整理解雇」は20万5454人で、前年(10万5402人)より94.9%の増加。

「臨時または季節的仕事の完了」は33万4937人で、前年(23万4420人)より42.9%の増加。「仕事がない、または事業不振」は34万4397人で、前年(21万283人)より63.8%の増加だ」。

数字ばかり多くて辟易するが、少し我慢していただきたい。

非自発的な失職者は104万4720人もいることに注目したい。

非自発的失職とは、自分の意思で失職したのでなく、首を切られたということ。

全体の失職者が前記の通り207万6346人である。

首を切られた人は、50.3%も占めている。

これでは、まさに「首切り旋風」に遭遇していると言うほかない。

問題は、この大量失職者が今後さらに増えることである。

文大統領が、「戦時財政」と緊張するのは当然だ。

韓国国民は、文大統領を選んで「失敗した」という局面を迎えるに違いない。

韓国の家計負債はねえ・・・韓国つぶれるわ!

2020-05-27 00:30:16 | 日記
韓国の家計負債はねえ・・・韓国つぶれるわ!


2018-07-29 20:45:48

テーマ:韓国・朝鮮


こりあうぉっちんぐさんのブログをそっくりリブログです。



韓国の家計負債はねえ・・・・・何度も書いたなあ

2018年07月28日(土) 21時00分10秒NEW !
テーマ:経済

2018/7/28 東亜日報

高まったローンの敷居に「雪だるま」のカードローンが経済時限爆弾になるか

カードローンの膨らみが尋常ではない。

今年3月末現在のカードローンの融資残高は26兆3381億ウォンで、昨年末の24兆9562億ウォンより1兆4000億ウォン近くも膨らんだ。

ローン残高基準としては史上最高だ。

主に庶民と零細自営業者などの脆弱階層が利用する高金利ローンという点で、景気低迷期を迎えて、懸念が高まる。

カードローンの急増は、政府が家計負債や不動産市場の安定対策として取り出した「ローン締め付け」の影響のためだ。

銀行や相互金融、貯蓄銀行までが融資の敷居を引き上げたことで、融資をぎりぎりまで使ったり、格付けが低く、お金を借りるのが難しくなった庶民が、カードローンに殺到したのだ。

家計負債の増加が落ち着きを見せ始めている状況の中、クレジットカード会社やキャピタル会社のローンだけが増えている。

(中略)
安全な「利息商売」で上半期だけで利息収入として14兆ウォンを稼いだ銀行圏にも責任がある。

無条件担保だけを要求するのではなく、細かな信用測定で返済能力のある借主を区別するための努力が必要だ。

様々な中金利商品を開発して、庶民が高金利カードローンに嵌らないように突破口を作ることも、金融当局と銀行圏が手がけなければならないことである。

毎年200万〜300万枚ずつ増えるクレジットカードの発行数は、今年で1億枚を突破すると推定される。

カードローンが韓国経済の時限爆弾になれば、家計負債の増加速度の調整のための努力さえ無駄になってしまう。

http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/1405137/1

引用ここまで

 緑色の文字列は関連記事へのリンクです

 韓国の家計負債については何度も書いてきました。とにかく膨大なものですから、銀行だって貸さなくなっているんですよね。

いわゆる第一金融圏・・・・都市銀行など・・・・・というところですな。

 ですから庶民としては、サラ金その他の金融に頼らざるを得ず・・・・・・2014年11月の朝鮮日報は”女性専用ローン、なぜ韓国で利用者が急増しているのか”・・・という記事で”女性客は一般に男性客に比べ借金の取り立てが容易なため、消費者金融会社にとっては良い客だ”・・・と書いていました。

 何というか・・・・・水戸黄門の世界そのままですなあ。

 ”格付けが低く、お金を借りるのが難しくなった庶民が、カードローンに殺到したのだ”・・・韓国じゃ乞食も何枚かはカードを持っている・・・・・というようなハナシもありました。

 田舎に住む隠居なんぞはローンのためのカードなんぞは一枚も持っておらんわ。

 別にどうでもいいんですが、韓国の方々は



 金融資産の持ち合わせが極度に少なく、資産の大半は非金融資産・・・・・要するに不動産・・・・・なんですね。

 別に日本の方を観なければどうでもいいんですが。

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まあ、ホントのところ韓国がどうなっても、私としては関心がなく、もう一度危機になるだろう程度の期待感しかない。

ソウルの空港に3度くらい立ち寄った程度で、大した印象もない。

ただ、上のブログのように、以前から家計の負債が増える傾向には注意していた。と言うのも韓国の動向が中国の先行する状況ではないかとみていたからです。中国も景気が後退すると、韓国のようになるのではとみている。

韓国経済の見通しについて、ビジネスジャーナルから高安雄一「隣国韓国と日本の見方」の記事を見つけたので紹介します。



高安雄一「隣国韓国と日本の見方」2018.07.02

韓国経済、一気に停滞局面突入か…

米国と中国への過度な「依存経済」、米中貿易摩擦で裏目

http://biz-journal.jp/2018/07/post_23914_2.html

要は、韓国は輸出依存度が高く、特に中国に19%、アメリカに17%、EU12%,日本は8%という関係。

 しかし米中間の貿易摩擦は、韓国の力強い景気に暗い影を落とし始めている。

実体経済にはまだ影響は出ていない。中国やアメリカ向けの輸出は共に好調であり、中国向け輸出の前年同月比は2018年に入っても2桁の増加が続いている。アメリカ向けの輸出は増減を繰り返す展開となっているが、5月は2桁の増加であった。これは中国とアメリカの景気がまだ減速していないから当然であるといえる。
 しかし最近は気になる動きも出ている。為替レートは、景気の力強さを反映してウォン高基調で推移していたが、6月に入りウォン安に転じた。株価指数も下落が目立つようになってきた。

金融当局の分析によれば、株価指数については米中の貿易摩擦に対する不安感により外国人による韓国株の売越額が拡大したため下落した。

また為替については、米中貿易摩擦に関連した不安心理によりウォン安となっていると分析されている。
 
米中間の貿易摩擦がエスカレートすれば、中国の景気に影響が出ると考えられる。中国はインフラ投資が一服して今後の景気に不透明感が出ているなか、アメリカ向け輸出が減少すれば景気が腰折れる可能性がある。

アメリカの景気については貿易摩擦からの直接の影響は小さいとみられるが、中国の景気が失速すれば、韓国の景気も2つのうちの1つのエンジンが不調になることから悪影響を免れない。

またアメリカは利上げにより景気の軟着陸を図っているが、過度にブレーキが利きすぎれば景気が後退する可能性も否定できない。

そうなれば韓国経済を支えてきた2つのエンジンが止まることとなり、景気が一気に後退局面に入る可能性が高まる。
 
このように米中間の貿易摩擦は韓国にとって対岸の火事ではなく、まさに自国経済も燃え上がるリスクをはらんでいる。

さらには、先に述べたように、アメリカが韓国からの自動車輸入に高関税をかける可能性も排除できず、この場合も韓国の輸出、ひいては景気に悪影響を及ぼす。

いずれにせよ、今後の韓国景気はトランプ大統領の動きに翻弄されそうであるが、中間選挙を前に過激さを増すと考えられるアメリカの通商政策を勘案すれば、良い方向には向かないことが予想される。しばらくの間、韓国景気は嵐に翻弄されることになりそうである。(文=高安雄一/大東文化大学教授)
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まあ、大したことは書かれていなかった。誰もが見ているものだ。

むしろ、ラオスのダム決壊の問題が、韓国経済衰退の引き金になるのではないか。

韓国経済危機特集

http://kankokukeizai.kill.jp/wordpress/category/kankokukeizai/



【画像】ラオスのダムの跡地が初公開 ダムの大部分が崩壊・消失

記事要約:今回は2chの記者さんがヨウツベから持ってきた画像を紹介する。動画見れるかたはそっちのリンクを張っておく。ただ、あまり、韓国語が嫌いな人もいるとおもうので画像も用意しておく。どちらにせよ酷いとしかいいようがない。





見ての通りだ。何もない。普通にダム決壊のことを知らない誰かに見せたら、ここに何があったかすらわからないだろう。

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ダムのすべてがなくなったみたい。

被害はカンボジアにも波及しているようで、どうするんでしょうね。これで韓国のインフラ工事に対する信用は全くなくなるし、この工事の保険などかけているのか?家計債務の増加に、さらに政府の債務の増加が加わる。

EAUの原子力発電所の問題も片付いていないし、パラオの橋も日本が再建設したし、この問題は韓国が尻拭いしなさい。


韓国経済、〔ラオスのダム決壊〕「韓国は東南アジアで支持を失う」―米華字メディア

2018年7月25日、米華字メディア・多維新聞は、ラオスで発生したダム決壊事故について、施工を担当した韓国が東南アジアでの支持を失う可能性があると報じた。

現地時間24日、韓国のSK建設と西部発電がラオスのアッタプー県で建設工事を請け負っていたダムが決壊し、50億立方メートルの水が下流の村をのみ込み数百人が行方不明になった。

記事は「現在専門家グループによる現地調査が行われているが、天災、人災いずれにしても韓国の東南アジアにおけるイメージは損なわれた」としている。

記事によると、SK建設は「ダムは決壊したのではなく、豪雨により氾濫しただけだ」と主張しているというが、2013年に建設が始まったこのダムはもともと18年に商業利用を開始する計画だったものの、

現時点でも工事が終了しておらず、期日に間に合わせるためのやっつけ仕事になっていた可能性が指摘されているという。

韓国メディアは「22日の豪雨発生時、韓国側がすでにダム周辺の危険性を察知していたにもかかわらず、ラオス側に事の重大性を警告しなかったばかりか、ダムからの放流を試みた。

結局ラオス側は翌日の昼にようやく事態の深刻さに気付き、住民らの避難を開始するがすでに時遅く、惨劇が発生した」と報じており、記事は「今回の天災の背後にある人災の要素がますます浮き彫りになっている」と伝えた。

記事はまた「ベトナム戦争に参加した韓国は、ラオスやベトナムなどの国からそしりを受け続けてきた。

1966年には韓国軍がベトナム国内の村で虐殺を行ったとされるが、韓国政府は現在までこの一件を事実と認めていない。

今回の事故への態度で、韓国の東南アジアにおける支持は失われた可能性がある。たとえ救援隊を派遣したとしても、そのネガティブな影響を消し去ることはできない」というアナリストの見方も紹介している。(翻訳・編集/川尻)

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韓国経済、〔セウォル号の惨劇再び〕「ラオスと韓国の共同建設ダムが決壊。韓国人は全員逃げる。韓国人が死傷したとの情報は入っていない」と中国紙 2018.7.26

記事要約:ラオスで起きたダム決壊は数百以上の行方不明者、6600人が被災するといった悲惨な状況である。

そして、朝に2つの記事で、4ヶ月前倒しの工事短縮で2000万ドルのボーナス。さらに4日前から決壊する可能性を知っていたことを隠蔽したことがわかった。

その時、避難指示をだしたというが、どうしてダムから近い場所にいる韓国人だけが全員逃げれて、死傷者なしで、ラオスの村の人々はたくさんの犠牲者が出ているのか。これを知ってセウォル号の船員を思い出した。

彼らは自分たちが逃げる時間をかせぐために300人以上の生徒をそのまま置き去りにした。船長は真っ先に逃げて、助けられた船でお札を乾かしていた。このことから、おそらく、近隣の村への避難指示がかなり遅かったのだろう。むしろ、韓国人にだけ知らせていたかも知れない。

韓国経済、〔セウォル号の惨劇再び〕「ラオスと韓国の共同建設ダムが決壊。韓国人は全員逃げる。韓国人が死傷したとの情報は入っていない」と中国紙
ラオスでダム決壊、「韓国人は全員逃げる」と中国紙

2018年7月25日、ラオス南東部で起きた建設中のダムの決壊について、環球時報は「ラオスと韓国の共同建設ダムが決壊、韓国人は全員逃げる」と報じた。

23日夜に決壊したのはアッタプー県で建設中の水力発電ダムで、韓国企業が建設に加わっている。

記事は数人が死亡し、行方不明者も数百人に上っていることを説明。

このほか、帰る家を失った人が6600人を超えることを伝えた。
記事によると、韓国・聯合ニュースは24日、韓国外交部関係者の話として「韓国人が死傷したとの情報は入っていない」と報道。

同関係者は「建設に参加している韓国人53人は全員が現場から離れた。(ダム建設に参加している)SK建設などがヘリコプターやボートを派遣するなどして救助活動を行っている」と語ったという。
(https://www.recordchina.co.jp/b628296-s0-c10-d0063.html)

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刑事事件扱いにされてもおかしくない内容だ。

日本人の行動とは全く違う行動だと言うことは明確だ。「ウォル号の惨劇」

を繰り返す。これが朝鮮人だな。

中国紙に書かれるようではお話にならない。

4日前に11センチも沈下し始めていたと言うのだから、もうどこも韓国にインフラ工事は頼めないでしょう。

韓国内においても、この事故が心理的に暗い影を落とすだろうし、言い逃れをすればするほど「信用を失い」、何処からも相手にされなくなるだろう。

文大統領の動向が何もつたわって来ない。真っ先にラオスの被災した人たちへのお詫びの声明を発すべきだろうに。政府も20人程度の救助隊を派遣してお茶を濁すようなことで済むと思っているのだろうか。

世界が韓国と言う国、また北も含めた朝鮮人に対しての評価が定まると言うものだろう。

日韓国交回復の貯金はこれですべて使い果たすことになるだろう。白い目で世界が眺める。大きな声では誰も言わない。誰一人友達になる国はないだろう。中国に頭を下げて面倒見てもらうしかないだろうが、その中国も、まともには扱わないだろう。韓国が持っている技術のすべてを奪い取られて、奴隷にされるだけかも。

文はほんとにバカだね。つくづく能無しだと思う。本当の国の危機が見えていないのだから。北朝鮮に併合されるしかないのかな。



今の状態って、1900年当初の日韓併合前の事情に似ていると思えませんか。世界の何処もが手を差し伸べることがなく、日本に押し付けることになったが、21世紀は事情が違う。

彼らの本性をしっかり見ているから、日本も手を出さない。

清朝時代の李王朝時代に戻る以外に道はないかも。これだけどうしようもない「民族国家」も珍しい。私にはそうとしか言いようがない。

ま、この後の対応を見ていればわかると言うものだろう。言い逃れせずにきちんと対応してほしいとは思いますが、どうなるでしょうか。

堀栄三 渾名マッカーサー参謀

2020-05-26 23:32:06 | 日記
堀栄三


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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曖昧さ回避 「堀栄造」とは異なります。


堀 栄三

Eizo Hori.jpeg

渾名
マッカーサー参謀

生誕
1913年10月16日
日本の旗 日本 奈良県 吉野郡西吉野村

死没
1995年6月5日(81歳没)

所属組織
大日本帝国陸軍
陸上自衛隊

軍歴
1934 - 1945(日本陸軍)
1954 - 1967(陸自)

最終階級
陸軍中佐(日本陸軍)
陸将補(陸自)

除隊後
1991年(平成3年)-1995年(平成7年) 奈良県吉野郡西吉野村長
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堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。階級は陸軍中佐、陸将補。

正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。

戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。

参議院議員、国土交通大臣(2011年4月 - 2012年6月)の前田武志は堀の甥である[1]。


目次 [非表示]

1 陸軍軍人として
2 戦略の失敗を戦術や戦闘で逆転することは出来ない 2.1 航空戦が怪しい
2.2 台湾沖航空戦での戦果判定
2.3 第14方面軍情報部への配置転換
2.4 戦後

3 人柄
4 エピソード
5 著述物
6 脚注 6.1 注釈
6.2 出典

7 関連項目

陸軍軍人として[編集]

奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。

明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。

なお、この陸軍士官学校時代に、上海戦の陣地突破のケーススタディーより物量の前には精神主義が役に立たないという教訓を得、後の情報分析の基本的な考えとなった[2]。

1934年(昭和9年)6月卒業(士官候補生46期)。同年10月に騎兵少尉に任官。騎兵第26連隊に配属された堀は、1936年(昭和11年)10月に騎兵中尉に進級し、1937年(昭和12年)3月に騎兵第16連隊に移る。

同年11月から陸軍騎兵学校丙種学生として学んだ後、1938年(昭和13年)3月から陸軍予科士官学校教官を務め、同7月に騎兵大尉に進級。

1940年(昭和15年)12月に陸軍大学校に入り、1942年(昭和17年)11月卒業(陸大56期)。なお、同年(1942年)8月、陸大在学中に少佐進級。同年12月から陸軍戦車学校に勤務。

1943年(昭和18年)4月から陸軍士官学校戦術教官。同年10月1日から大本営陸軍部第2部参謀として、大本営に勤務。

ドイツ課とソ連課を経て(それぞれの課では両極端な分析方法を採用しており、それが後の分析手法に役立ったとの記録を残している)、アメリカ課に勤務。

そこで、アメリカ軍戦法の研究に取り組み、その上陸作戦行動を科学的に分析して1944年(昭和19年)6月に『敵軍戦法早わかり』を完成させ、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するので行わないようにという内容を伝達した。(内容自体の伝達は、同年3月16日から始めている。)

戦略の失敗を戦術や戦闘で逆転することは出来ない[編集]

『敵軍早わかり』を最初に伝達し、ペリリュー島の戦いにおいて、米軍2個師団を相手に1個連隊を基幹とする約5千名で、2ヶ月以上奮戦した中川州男がいた。

寡勢の上に制空制海権は米軍にあるなか中川大佐以下水戸健児の戦いぶりは世界を震撼させた。

堀は、中川連隊やその他の諸処のの戦場での勇戦奮闘と殉国の精神を讃える一方、戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことは出来なかったと述べている。

太平洋という戦場の特性を情報の視点から究明し、戦争の10年以上も前に「軍の主兵は航空なり」「鉄量にもって鉄量をもってする」という戦略を提唱していた。

堀は、著書で『国破れ企業破れて反省しても遅い、敗れ去る前に自ら襟を正すべきであるが、その中でも情報を重視し、正確な情報的視点から物事の深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。』と述べている[3]。

なお、この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が非常に低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとる事で日本軍の損害が非常に増えていた側面もある。

この資料の完成後は、硫黄島の戦い及び沖縄戦に代表されるように米軍の被害は増加することになる。なお、サイパンの戦いには内容の教授に間に合わなかったと記録に残している[4]。

なお、『敵軍戦法早わかり』以降、大本営内部で意見の調整が行われ、各師団に軍事作戦(戦略)を説明するときに同時に現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった[5]。

航空戦が怪しい[編集]

『敵軍戦法早わかり』完成の約1年前。堀を中心とする米軍戦法研究グループは、各種の統計を取っているうち昭和18年11月5日~17日にわたって行われたブーゲンビル島沖航空戦と、11月21日から29日にわって行われたギルバード沖海軍航空戦の戦果に注目していた。

大本営海軍部の発表を総計すると、米海軍の艦隊はすべて撃沈されたことになっていた。

しかし実際には、一隻もいなくなったはずの米海軍の反撃はかえってピッチを上げ、奇襲から強襲に変わっていった。

堀たちのグループが抱いた疑問の第一が、なぜゼロになった米海軍が大艦砲射撃を強行できるかということであった。

「第一線の航空部隊では、各飛行機の報告をどのように審査しているのだろうか?」

これを調べなければ正確なことはわからない。この疑問が後の台湾沖航空戦の戦果の判定に繋がっていく。

台湾沖航空戦での戦果判定[編集]

1944年(昭和19年)10月13日、『敵軍戦法早わかり』の内容を前線部隊であるフィリピンの第14方面軍に知らせるため、汽車で新田原飛行場に移動したが、折りしも台湾沖航空戦が発生しており、汽車の中でも乗客達はその大戦果の話で持ちきりであった。

新田原では空襲警報が発令されいていることを理由に便乗を断られたが、堀はいままでの戦法研究で疑問が払拭できなかった航空戦を直に確認するため、参謀の威令を発揮し、九州鹿屋の海軍飛行場まで連絡機で移動した。

鹿屋の海軍飛行場脇の大型ピストの前では、大勢の兵士が慌ただしく行き来し数人の幕僚達に戦果を報告していた。

黒板には戦果が次々と書き込まれ、報告のたびに歓声が上がった。

戦法研究中から堀の脳裏を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えていたものが目の前で展開されていた。

堀は、戦果の報告を終え、ピストから出てきたパイロット達に矢継ぎ早に質問をした。

「どうして撃沈とわかった?」

「どうしてアリゾナとわかった?」

「アリゾナはどんな艦型をしていた?」

「どうして自分の爆弾でやったと確信していえるのか?」

「戦果確認機のパイロットは誰だ?」

堀の質問にパイロット達の答えがだんだん怪しくなってくる。

米軍研究の結果、米軍艦の識別は頭の中にたたき込まれていたため、堀にはパイロットたちの返事の曖昧さがよくわかった。

『戦果はこんなに大きくない。誰がこの戦果を確認してきたのだ。

誰がこれを審査しているのだ。やはりこれが幻の戦果の実体だったのだ。』堀はそう直感した。ブーゲンビル沖航空戦では、後になってみると大本営発表の十分の一にも足りない戦果だった。

堀は、10月13日19時、大本営陸軍部第二部長(堀の所属長)宛に「この成果は信用出来ない。いかに多くても2、3隻、それも航空母艦かどうかも疑問」と緊急電報を打った[6]。

後年の堀は

「堀が大本営陸軍部第二部長に打った緊急電報を、大本営陸軍部では承知していたと想像されるが、これが握り潰されたと判明するのは戦後の1958年(昭和33年)夏だから、不思議この上ないことである。

しかし大本営陸軍部の中のある一部に、今(1989年(平成元年))もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される」
と記している[7]。

保坂正康は、この緊急電報が、当時、大本営の作戦参謀であった瀬島龍三によって握り潰された可能性を指摘している[8]。

真相は不明だが、現在もこの電報の現物が行方不明なのは事実である。

ただし、当該電報の後(15日20時)に堀が打った“特緊(特別緊急)電報”は現存している[9]。

15日、鹿屋からマニラへの移動中機体は台北飛行場上空を通過したが、堀は飛行場施設の損害を間近で確認し、上陸に先立って周辺地域の航空基地を念入りに叩く米軍の戦法に違いない旨確信を抱いた。

実際、米軍はレイテ島上陸を目的としたキングII作戦を3段階に区分し、第2段階まではそのような目的の空襲として計画していたのである。

台湾沖航空戦の大戦果発表を鵜呑みにした陸軍は、急遽作戦計画を変更し、レイテ決戦を行うことになる。

それはまさに地獄への引導のようものだった。その深層には、陸軍と海軍が双方とも何の連絡もなく勝手に戦果を発表していたため、陸軍は海軍の発表を鵜呑みにするしかないという日本最高統帥部の組織的欠陥があった。

堀は、10月15日にマニラに到着後、17日に南方総軍司令部第2課で台湾沖航空戦の戦果に再検討を加え、米軍の健在な空母を12隻と計算し、第14方面軍司令官の山下奉文大将、参謀副長の西村敏雄少将に報告した。

報告時、折りしも米軍艦載機によるマニラ空襲が行われており、山下大将と西村少将は堀の報告を信じた[10]。

同月19日には、憲兵隊から、撃墜した米軍艦載機のパイロットを尋問した結果、ルソン島を空襲中の米軍正規空母が12隻であること、その艦名が全て判明したことが報じられた。

大本営海軍部(陸軍部にあらず)の発表した台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで、堀が大本営陸軍部第二部長に打電し、山下大将に説明した通りであったことが明らかになった[11]。

次に述べる第14方面軍時代もそうだったが、結果として堀の予想は正確であることが多かった。

しかし、世の中には堀がどうしてそのような正確な予想が出来たのか、著述物だけでは納得しない研究者がいる。

戦史叢書の編纂経験がある近藤新治[注釈 1]は奈良県の堀宅を訪ね、この点について突っ込んだ質問を行い[注釈 2]、次のような答えを得た。

堀さんがなぜ当てたんだろうという疑問を持ちまして、ところが 『回想録』 なんかには全然そういうものは載ってないんですね。

(中略)それでインタビューでずばりいったんです。どうしてあれだけの的確性というか、正確性が出たんですかといったら、堀さんは、そんなことはわけないことなんだというんです。

十四方面軍の情報部に下士官だけで十名ぐらいいて、将校が三名かな、毎日毎日、ともかく基礎的な情報をざーっと書かして、積み上げていった。

例えば台湾沖航空戦の戦果判定についても、すぐに堀さんは疑問を出すんです。

山下奉文と武藤章に対して、危ないですよという。

そんなことをおっしゃったのは、何を根拠にといったら、こういうことをいっていました。

直後の空襲で捕まえた各米軍のパイロットの尋問をして、発艦した母艦名を尋問をして並べてみたら、全部そろったというわけですね[注釈 3]。

これはおかしいじゃないか。ピンピンしているじゃないかということで(中略)果たして、マッカーサーの回し者ではなかったんで、まさに正攻法でやった方でございましたね。

— 近藤新治「太平洋戦史研究部会第二回セッション コースト・ウォッチャーズ」『太平洋学会誌』1987年(昭和62年)1月、20頁

第14方面軍情報部への配置転換[編集]

10月27日から第14方面軍作戦参謀、1945年(昭和20年)2月1日からは再び大本営陸軍部第2部第6課(米国班)参謀を歴任し、終戦後の9月に陸軍省軍務局課員、10月に予備役編入(最終階級は陸軍中佐)。郷里の奈良県吉野郡西吉野村に帰り、健在であった父の堀丈夫中将と共に農耕に従事。

戦後[編集]

戦後、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊に入隊。吉田茂首相の軍事ブレーンとして、自衛隊の創設に大きな力を有した辰巳栄一陸軍中将の「情報の分野で働くように」という勧めに応じたものだった。

[12]陸上幕僚監部第二部国外班長に就任、1959年(昭和34年)10月24日から初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官(駐在武官に相当)に就任し、キューバ危機をヨーロッパで体験した。

ラインの軍需物資輸送の情勢判断から米ソ開戦せずとの判断を東京に逸早く打電した。1963年(昭和38年)10月末には統合幕僚会議第二室(防衛省情報本部の前身)室長に就任する。

防衛庁内の雰囲気に納得できず、1967年(昭和42年)3月、陸将補で退官。

1974年(昭和49年)から大阪学院大学ドイツ語講師となる。

1991年(平成3年)4月から郷里の西吉野村の村長を務め、名産吉野柿の普及に力を入れた。二期目在職中の1995年(平成7年)6月5日、ガンのために死去、享年82。

人柄[編集]

戦後の堀は、陸上自衛隊を陸将補で退官した後、郷里の奈良県吉野郡西吉野村に戻り、大阪の大学でドイツ語を講じ、戦争中のことについては一切口にしなかった。

堀が回想録 『大本営参謀の情報戦記』 を公刊する直接的な動機となったのは、1986年(昭和61年)に、ある雑誌の座談会(堀は出席せず)で「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営陸軍部作戦課が握り潰したからだ」と発言したのがきっかけに堀が戦時中に携わった情報の仕事への各方面の注目が高まり、日本の敗因を情報の見地から解明しては、と勧めを受けたためである[13]。

1984年(昭和59年)春から、戦史研究家の保阪正康が堀への取材活動を始めたことも影響した[14]。従って太平洋戦争(大東亜戦争)の回想録としては遅い1989年(平成元年)に上梓されている。

なお、保阪が堀に最初に取材を申し込んだ所、堀から面会を断る手紙を受け取ったが、保阪は逆に取材意欲を燃やしてアポなしで堀宅を訪問した。

その後、保阪が何度も訪問を重ねてから堀はようやく口を開き、信頼関係が出来てからは奈良や東京でしばしば会うようになった[14]。

ただし、堀は、同じ陸軍出身者の近藤が取材した際には快く会っている。

エピソード[編集]

情報分析では評価の高い堀であるが、陸軍大学校卒業後は大本営陸軍部第1部作戦課への配属を希望していた。

しかし、当時作戦課へは陸大の成績で5番以内の『恩賜組』でないと配属されない不文律があり、卒業時の成績が6番であった堀は第2部(情報)への配属となった[15]。

1960年(昭和35年)冬に、西ドイツのカールスルーエにある戦車工場を、駐在武官団(共産圏以外)の一員として視察することになった。

それと符合するように「日本で戦車を作っている会社」の技師たちが西ドイツに来て堀の私宅を訪れ「日本の防衛庁(当時)から、ドイツの戦車を参考にして、日本の新戦車を作る課題を出されているが、ドイツの戦車を見る機会がない。

(堀が)ドイツの戦車の特定部分の寸法を正確に測ってくれれば、あとは自然に全部分るのでよろしく頼む」と依頼された。

堀は、自分の指、携行する消しゴムつき鉛筆の各部分の寸法を精密に測定して寸法を測る準備をした。

工場見学の日、堀は、用意していた鉛筆を使って「特定部分」の寸法を一瞬で測り、大使館で待機していた技師たちにその情報を伝え、たいへん感謝された[16]。

奈良県吉野郡西吉野村和田(現:五條市)の堀家は、松本清張・樋口清行『奈良の旅』 光文社カッパ・ビブリア、1966年(昭和41年)、154頁で「吉野郡西吉野村和田にある、後村上天皇の賀名生行在所といわれる堀栄三氏宅も、足利時代初期に近い構造を一部残している」と紹介されている。

「堀家住宅(奈良県吉野郡西吉野村)」として、堀の生前の1979年(昭和54年)5月21日に重要文化財に指定されている[17]。2012年(平成24年)現在も保存されている。賀名生#歴史参照。



堀家住宅(賀名生行宮跡)
著述物[編集]
『悲劇の山下兵団』 1946年(昭和21年)にある出版社向けに執筆した[18]。原稿用紙に換算して400枚程度[注釈 4]。

父の堀丈夫中将に「負けた戦を得意になって書いて銭をもらうな」と叱責され、未発表のまま堀の手元で保存されていた[18]。

この原稿が手直しされて、1989年(平成元年)に 『大本営参謀の情報戦記』 として上梓された[21]。

『堀回想録』 近藤新治が1987年(昭和62年)に言及している。防衛研究所戦史部でも保有している。

『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』 (文藝春秋、1989年(平成元年) ISBN 4-16-343630-8
(文春文庫、1996年(平成8年) ISBN 4-16-727402-7


日本軍1万 vs アメリカ軍5万——ペリリューの戦いを指揮した中川州男に学ぶ将のあり方

2020-05-26 23:17:02 | 日記
日本軍1万 vs アメリカ軍5万——ペリリューの戦いを指揮した中川

2019年02月19日


日本の危機を救った21人の偉人たちの生き方を、知の巨人が紐解いた人物伝『忘れてはならない日本の偉人たち』(渡部昇一著/弊社刊)。

本日は本書からペリリュ―島の激戦を戦い抜いた名将・中川州男のエピソードをご紹介いたします。


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日本軍1万vsアメリカ軍5万


2015(平成27)年4月、天皇皇后両陛下が大東亜戦争の激戦地の一つ、パラオ共和国のペリリュー島を訪れ、英霊たちを慰められたことは記憶に新しいと思います。


ペリリューの戦いは日本兵1万人が米兵5万人を迎え打ち、その戦況は熾烈(しれつ)を極めました。

島の規模は小さく、米国の海兵連隊は圧倒的な兵力で、当初2~3日間で決着をつけるつもりでいました。

しかし、日本軍は実にここで72日もの間、必死に戦い抜いたのです。

日本軍守備隊長を務めたのは、中川州男(くにお)という陸軍大佐でした。結果的に見れば日本軍は玉砕、中川も自刃したとはいえ、2か月以上に及ぶ戦闘に耐え抜き、敵軍を著しく消耗させたのは、この中川の卓越したリーダーシップによるものでした。

今回は日本人にはほとんど知られていない、この中川州男という名将にスポットを当ててみたいと思います。

中川州男は1898(明治31)年に熊本で生まれました。

陸軍士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉に任官の後は、歩兵第48連隊中隊長などを歴任。

1937(昭和12)年盧溝橋事件が勃発、シナ軍との全面戦争に突入すると、中川は野戦指揮官として手腕を発揮し、その功績によって陸軍大学校に学び、陸軍大佐へと昇進します。

歩兵第2連隊長となった中川は、連隊に所属する第14連隊が満洲から日本の統治下にあったパラオ諸島に配属されたのに伴い、ペリリュー島守備隊長に就任することになります。

想定外の現実に対し中川はどう立ち向かったか

米軍がペリリュー島へと上陸作戦を開始したのは、その翌年の1944(同19)年9月のことでした。

中川は陸軍大佐です。

島での戦いに的を絞って訓練を重ねた米国の海兵連隊とまともに交戦すれば勝ち目がないことを知っていました。

驚くべきことですが、それまでの日本軍には島での交戦を想定した戦略や戦術の蓄積は全くありませんでした。

同年、日本の生命線であるサイパン島が陥落し、日本本土が米軍の攻撃の照準に入るまで、日本軍には島嶼(とうしょ)戦という発想がなかったのです。



大東亜戦争まで、日本陸軍の一貫した敵国はソ連であり、太平洋でアメリカと一戦を交えるといった発想自体がそもそもありませんでした。

中川は熟考を重ねて戦略を練り上げていきました。

実は、中川は満洲からパラオに配置換えになった時、大連の港を出発する直前、参謀本部で島嶼戦について一人で研究していた堀栄三の話を聞き、それを詳細にメモしていました。

そこで中川が初めて耳にしたのが艦砲射撃という概念でした。

米軍の軍艦の大砲は、陸軍のそれとは全く比較にならないほど強烈な破壊力がありました。

軍艦一隻の大砲は、陸軍の兵力の5個師団にも相当し、その威力は厚さ2メートル以下のコンクリートはたちまち吹き飛ばされてしまうというのです。

パラオに移る直前に知らされたこの現実は、中川にとっては衝撃だったに違いありません。

事実、米軍はペリリュー島に軍艦を寄せ、中川隊の5倍の先鋭部隊を投入してきました。力の差は歴然でした。

では、中川はどのようにしてこれに対峙したのでしょうか。

中川がまずやったのは、音を立てずに米軍の上陸をじっと待ち構えることでした。

米兵の多くが上陸してしまえば、米軍は下手に艦砲射撃はできないと読んだのです。

この読みは当たりました。

戦闘に当たって中川は500以上ともいわれる島内の洞窟に坑道を掘って島全体を要塞化していました。

そして米軍の上陸とともに徹底したゲリラ戦法を展開したのです。


硫黄島の戦いに引き継がれたペリリューのゲリラ戦法


この戦いによって日本軍は僅か1連隊にして、米軍の海兵連隊や陸軍歩兵師団に大打撃を与え、交替を余儀なくさせました。

これは特筆に値することです。兵隊の決死の努力は言うに及ばず、しっかりした指揮官がいなければ、ここまでの戦いはできなかったでしょう。

中川が主導したゲリラ戦法は硫黄島の戦いにも応用されることになります。

ペリリューの戦いの時、私は中学2年でしたが、新聞やラジオで毎日のように、その激戦ぶりを報道していたことを思い出します。

天皇陛下も島の兵士たちをいたく気遣われ、軍事面での特別の功労があった兵士たちに贈られる嘉賞(かしょう)を中川隊に11回も出されています。

実際に兵士たちに届いたのは2回まででしたが、生還者の話では、この嘉賞は兵士たちを大いに奮い立たせたようです。

陛下が見守ってくださっていると思えば、千人力、万人力を得た思いだったことでしょう。

大東亜戦争が終結した後も、34名の兵士たちが2年間洞窟内で生き延びました。

アメリカ軍が残した食糧で食い繋ぎ、米軍兵士の鉄砲を手にしてゲリラ戦を続けていたことも日本軍の精神力を物語るものです。


与えられた条件をすべて生かして戦い抜いた陸軍の名将


このペリリューの戦いをとおして、私たちは当時日本軍が抱えていた様々な問題点を知ることができます。

島嶼戦を続けるための海兵隊を組織しなかったこともそうでしょう。

サイパン島が陥落するまで島の守りに無頓着だったことが、日本を敗戦に追い込む引き金となりました。

大正時代から準備していたアメリカとの差が大きかったのです。

だが、一方でそういう負の一面に立ち向かった将がいた事実を忘れてはいけません。

中川はまさにそういう人でした。中川は人一倍の胆力の持ち主だっただけではありません。

戦いに臨むに当たっては徹底して戦略や戦術を練り上げ、僅かの期間に準備をしたのです。

そして現に兵数、物量ともに劣る絶対的に不利な条件にも関わらず、敵が予想しなかった驚くべき互角の戦いを展開したのです。

そこに、将として本来あるべき姿を見るのは私だけではないでしょう。


(本記事は弊社刊『忘れてはならない日本の偉人たち』〈渡部昇一・著〉から一部抜粋・編集したものです。

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『忘れてはならない日本の偉人たち』渡部昇一・著

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◇渡部昇一(わたなべ・しょういち)
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昭和5年山形県生まれ。30年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。平成13年から上智大学名誉教授。著書は専門書の他に『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』『日本の活力を取り戻す発想』『歴史の遺訓に学ぶ』など多数。最新刊に『渡部昇一一日一言』(いずれも致知出版社)。

発信者特定へ制度改正検討 総務相、ネット中傷問題

2020-05-26 21:24:00 | 日記
発信者特定へ制度改正検討 総務相、ネット中傷問題

社会・くらし

2020/5/26 12:49 (2020/5/26 15:08更新)



高市早苗総務相は26日の閣議後記者会見で、SNS(交流サイト)で誹謗(ひぼう)中傷を受けていた女子プロレスラーの木村花さん(22)が23日に死去したことに関し、インターネット上の発信者の特定を容易にし、悪意のある投稿を抑止するため制度改正を検討する意向を示した。

年内に改正案を取りまとめる方針で「スピード感を持って対応したい」と強調した。

木村さんはフジテレビで放送の人気リアリティー番組「テラスハウス」に出演していた。SNSで番組内での言動に対する非難を受け、自殺を図ったとみられる。

プロバイダー責任制限法は、ネット上に匿名で権利侵害情報が投稿された場合、接続事業者(プロバイダー)が削除などの措置を取れると規定。

被害者が発信者に損害賠償を求める上で、発信者関連の情報開示をプロバイダーに直接請求できることも定めている。

ただ、実際には「権利の侵害が明白でない」との理由から開示されないケースが大半で、訴訟手続きを経ると被害者負担が大きい点が課題となっている。

高市氏は「ネット上の誹謗中傷を抑止し、被害救済を図るには発信者の情報開示の手続きが適切に運用されることが必要だ」と指摘した。

4月に発足した総務省の有識者会議は現行制度の見直しに向けて議論。発信者関連の情報を拡充する案などが示されているが、「表現の自由」が損なわれると警戒する声もある。

一方、武田良太国家公安委員長は26日の閣議後記者会見で「インターネット上の誹謗中傷については、社会全体で多角的に議論すべき重要な課題だ。警察においてもさまざまな分野の方々と連携し、適切に対応していきたい」と述べた。

〔共同〕