カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

「不幸」その2

2014年11月20日 09時58分59秒 | 生き方

先の記事「不幸といえど・・・・」では、

いろいろな不幸について語る賢者の話をご紹介しました。 

今回は、その第2弾(笑)。←「弾」とは言ってもたいしたことはない?

うちの古代遺跡を発掘していると、思わぬものが出てきてしまい、発掘調査を忘れて見入ってしまいます(笑)。 大掃除の時に出てきた古い新聞に、大掃除を忘れて見入るようなものでしょうか(笑)。

 

プラトンは、無知をあらゆる悪と不幸の原因であると考えたソクラテスの思想を、政治上にも徹底させようとしたものと解されよう。:P.12 田中美知太郎の解説 世界の名著6プラトン 中央公論社

どんな文脈での引用だったか忘れましたが、少なくともプラトンは「知」があれば最悪の不幸には至らない、と考えていたようです。

現代風の解釈ではなく、2000年以上前の人の説であると理解するならば、たしかに今でもこんな人がいる、と思ってしまいますね。

必ずしも

「知」が幸せをもたらすとは言えず、「無知」が不幸をもたらすとも言えません。

一方では

「知」が不幸をもたらすことがあり、「無知」が幸せをもたらすこともあるのです。

こんなことから

ソクラテス・プラトン・アリストテレスに対して、いいと思うことも悪い思うことも、ほかの人の意見を聞く余裕をもちながらも、堂々と今の時代に生きる私たちらしく意見を述べたいものです。

かつての風潮を見ると、時代によって

    • ある流派を一方的に否定
    • ある流派を全面的に肯定

して時代を勝手に作りあげ、その時代での反対意見を封殺していたものです。歌曲や政治や経済のどの分野でもこれが言えます。

もちろん暴力流派はだめで、暴力を否定するのは当然とはいえ、これからの私たちは、堂々と、しかし謙虚に、自分の意見を述べられる時代を作りあげていきたいものです。


こんな理不尽で生殺しの状態におかれても、たとえそれが一生続こうと、耐え忍ぶことができる。ところが、それがいったん自分の民族の誇りが傷つけられ損なわれると、もはや我慢は出来ないのだ。・・・・

いくら飢餓、貧困、若死、子供たちの発育不全といった不幸が、民族の誇りよりもずっと重大であるといわれても、誰もそれを信じようとはしない。:P.9 ソルジェニーツィン「甦えれわがロシアよ」日本放送協会

私は、ソ連時代のソルジェニーツィン〔1918-2008〕が反骨心溢れる人だと思っていたものの、その後キリスト教風の凡俗な民族主義者に変節したと思っています。もちろん正しいかどうかはわかりませんが(笑)。

亡命先の国よりも、生まれ育った故郷のロシアのほうが心地よかったのでしょうが、民族を大切に考えることは重要とはいえ、あまり自信過剰に陥り、過激に走ってはいけません。今ソルジェニーツィンが生きていたらなら、世界平和に寄与するどころか、むしろ世界の混迷を一層激化させそうな気がしますが、皆様はいかがですか。


臨終のとき、敗北のあと、また災難のさなかに、アラブ人は神を称える。「神は偉大なり」(アッラーホ・アクバカ)と。

神の意思に不満を述べるようなことは避ける。信仰深い人ならば不幸に遭った人に「かわいそうに」とは言わないだろう。なぜなら、そういう表現は神の意思への服従に欠けるからである。その代わり、相手に我慢とあきらめをすすめ、「いかなるものであれ、神の与えてくれたものを受け入れよ」「神は与え、神は奪う。どのようなときにも神を称えよ」といって慰める。:P.178 サニア・ハマディ「アラブ人とは何か」明石書店

 「神に対する理解の違いが、同一宗教内に修復不可能なほど大きい亀裂を生んだ」こと、「そもそもの宗教のあり方が原因で、現代社会が深刻な宗教対立という大問題をかかえている」がために私は、どの宗教をも好きになれません。

ただし宗教を尊重しており、信仰している人さえ十分に尊重するどころか、ここ石垣島ではマリヤ牛乳さえ尊重しております(笑)。

しかし冷静に見ていると、その信仰が深い人ほど他教への姿勢が過激になる傾向がみられ、「信仰侵攻につながる」という歴史が、私にとっては不信感の元になっていて、どの宗教にも違和感があるのでした(笑)。

大航海時代のヨーロッパ諸国が、宗教を巧みに利用して植民地政策を推し進めたことはよく知られています。まずは宣教師が入って美しい言葉で信者を増やし、その国の為政者よりも崇拝先への心酔が深まって、やがて信者への弾圧が始まると見るや、信者保護と称して母国から軍隊を導入して他国の領土を占領する・・・・・・。

また

「いかなるものであれ、神の与えてくれたものを受け入れよ」

を悪くとらえるなら、

「どんなに邪悪で深刻な問題があろうと、現状に甘んじよ、不幸を甘受せよ、今の身分を維持しなさい、政府を変えようと考えてはいけない」

と教えているようにみえ、まるで儒教と同じではないか、とも思われるのです。

中国共産党が

イスラム教も含めた全ての宗教を否定しているのは、やはり共産主義の源泉にも似たような宗教観があるから、邪教を危険視するがゆえに、日本の江戸時代のように宗教を禁止しているのでしょう。

経済開放をしながら政治解放はしない、つまり政治弾圧は続ける、そんなことなど、できるはずがないのですね。中国はFTAを進めながらも必ず逃げ道を用意していて、まちがいなく統制経済に戻ることでしょう。TPPを中国封じ込めととらえ、この対抗上やむを得ない道と判断したのでしょうか。

異なる考え方を許さない共産主義は、人類の発展にとって大きな障害となるだけでなく、むしろ邪悪で強硬な反対勢力を生む源にもなります。中国共産党が崩壊しなければならないというゆえんです。崩壊しなければ中国でもっとひどい集団が登場する可能性があるからです。

決して対立をあおるつもりはありませんが、人の世は少しずつでもいいから常によりよい方向へ改善していくべきで、

    • 現状を変えてはならない
    • 劇的な特効薬を服用すべきだ

などは危険だ、と信じています。

ただし

あまりにもひどい弾圧を続けている中国と北朝鮮をのぞいて

という条件つきですが・・・・・・。

まちがった中国や韓国などの教育はもちろん論外ですが、「まとも」な教育によって、宗教に依存しない世界共通の倫理観を構築するしかないのではないか、そんな気がするのです。


もういい加減に人類は進歩などと言う迷妄を捨てた方がよい。たしかに、科学技術によって人類は多くの恩恵を与えられ、生活も飛躍的によくなった。今後も科学技術は人類に恩恵を与えるであろうが、それがはたしてすぐに人類の進歩と言いうるのであろうか。何が幸福か、何が不幸か、長い目で見るしか人類の運命は分からない。:P.27 梅原猛「ブナ帯文化」新思索社

梅原が言おうとしていることはわかりますが、少し言葉足らずですね。まぁ一部だけを引用したので、そう思われるのかも知れませんが。

200年前にも十分文明はあったと思われますが、はたしてそこで科学技術の発展を禁止できたでしょうか。

梅原が「人類の進歩という迷妄」を捨てることで、細菌やウイルスによる人類への攻撃をだまって見ていろ、と言っているのではないと思うからこそ、今から200年後に200年前の今、科学技術を禁止したほうがよかったと考える人もいないだろう、と思うのです。

長寿が手放しで立派なことだとも言いきれませんが、細菌やウイルスに負けてしまって人類が亡んでしまったのでは、だめでしょう。

「今後も科学技術は人類に恩恵を与えるだろう」と考えるのなら、なぜ「科学技術が発展しても人類が進歩したとは言えなくなる」原因を解明し、それを軽減する努力をしないまま、「人類の進歩という迷妄」を捨てたほうがいい、と結論づけるのでしょう

また賢明な人が科学の研究をやめてしまうと、

あきらかに悪意をもった人が科学技術の研究を通じて世界中を破壊へ導くかもしれません。

邪悪な人の邪悪な研究を阻止するためにも、「まとも」な科学技術者がいると信じて研究を続けさせなければならないのでしょう。「邪悪な研究成果」を上まわる研究によってのみ邪悪をなくせると思うのです。弾圧が邪悪をなくせるわけではないのですね。

残念ながら、梅原という哲学者には、いささか「哲学」が不足しているようです。

 

現代の演奏会が多分にショー化されたからとはいえ、鑑賞者にとって決定的に重要なこの瞬間(演奏の終わった時のこと)が、演奏の終了をまたない拍手や歓声などでさえぎられることが多いのは、まことに不幸な習慣と言わざるを得ない。:P.3 芥川也寸志「音楽の基礎」岩波新書

私にも経験があります。

終わってすぐの拍手も気になりますが、終わりかけギリギリで大声を上げたり拍手するのが「妙な通人(つうじん)・粋人(すいじん)」と信じている人が多く、迷惑この上ないのでほとんどいかなくなりました。今ではどうなんでしょうね。やはりそんな人がいますか?

中には暗闇で一生懸命に楽譜を眺めながら聞いている人もいました。悪気はないのでしょうが、演奏間違いを見つけたいのでしょうか(笑)。

その点、自宅で、昔はLP、今ではCD・DVD・BDなどを聞くほうが、邪魔な大声などがなくて安心できますね。

その一方では不思議なことに、昔からですが、カラオケの最後には、ついでに拍手も入れて欲しかったものです。隣近所に座っている人が拍手をしなくてもいいように(大笑)。


パスカルが「パンセ」の中で、

 「人間のあらゆる不幸は、ひとつの部屋にじっと休息していることができないというただひとつのことから生ずる」

 と言っている。 :P.57-60 青井志津「石垣島、死者の正月」株式会社四谷ラウンド 2000年6月14日第1刷発行

人類は、高等動物へと進化したおかげで、この地球上を支配しかけていて、多くの幸せを手にしたのでしょうが、「じっとしていられない」という不幸も得てしまった、ということですね。