『人生100年時代に 成熟した少年少女よ、大志を抱こう!』
「人生100年時代」である。
30年前、100歳以上の日本の人口は2668人だった。
それが今や約7万人。
国立社会保障・人口問題研究所によると、2025年には13万人を上回るという。
政府も昨年9月に「人生100年時代構想会議」を発足させた。
今年定年を迎える人はあと40年、80歳を過ぎて「そろそろ終活を…」などと言っている人でもまだ20年残っている。
さて、どうする?
ヒューマンスキル研究所代表の田中真澄さんは40年前から「人生100年時代、余生という発想をやめ終身現役を目指そう」と訴えてきた。
当時は60歳まで必死に働いて、定年後は趣味や孫の世話をして過ごすのが一般的だった。
そんな時代に田中さんは、大手企業の管理職を43歳で辞めて独立。
以来、「人生100年時代は終身現役で」をテーマに講演活動をしてきた。
昨年、81歳になった。
かつての同僚たちがのんびり老後を過ごしている中、ただ1人、精力的に全国を飛び回っている。
江戸時代に「隠居」という文化があった。
「隠居」といえば、現役を退いて社会から遠のくイメージがあるが、当時の「隠居」はそんなものではなかった。
世のため、家族のために一生懸命働いた後は本当にやりたかったこと、大好きなことのために身を捧げる、それが隠居生活だった。
江戸時代に詳しい法政大学総長の田中優子さんは
「隠居は江戸庶民の憧れのステータスでした。見事な隠居生活をした人の代表は伊能忠敬(いのう・ただたか)です」
と、あるラジオ番組で語っていた。
17歳で豪商の家に婿入りした忠敬は、ひたすら仕事に精を出しその家の資産を10倍にした。
その後、50歳で隠居し、大好きだった天文学を学ぶため江戸に出て、天文学者・高橋至時(たかはし・よしとき)に弟子入りする。
そして74歳で亡くなるまで日本地図の制作に生涯を捧げた。
井原西鶴や松尾芭蕉も、現代の俳壇に多大な影響を与えるほどの作品を残したのは30代で隠居した後なのだそうだ。
コラムニストの天野祐吉さん(故人)は対談本『隠居大学』の中でいろんな隠居の達人を紹介している。
70歳で「隠居宣言」をしたデザイナーの横尾忠則さん。
「隠居後はやりたいことだけをする」と決めた。
仕事を請けないので時間が余った。
小説を書いたら「泉鏡花文学賞」を受賞した。
しかし、「作家」という肩書きは付けない。付けると文壇に入ったり、作品が売れるかどうか気になるから。
「歌川広重も隠居後に画家として本格的に活動を始めた。
絵が売れるかなんて考えていない。思いの世界で遊んでいたんです。
それはもう命懸けです。絵を描きながら死んでもいいと思っている。これは最高の境地です」と言う。
お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古(とやま・しげひこ)さんは
「定年退職したら隠居できると思っている人がいるが、隠居はそう簡単なものじゃない。自分も一度失敗した」と語っている。
退職後、収入がなくなることへの不安から別の大学に勤めに出た。
仕事が何となく面白くない。途中でお金のために仕事をしていることに気付き6年で辞めた。
定年後、また同じような仕事をすることを外山さんは「人生の二期作」と呼んでいる。
二期作とは同じ耕地で同じ作物を二度作ること。
そして「人生は二毛作がいい」と言う。すなわち同じ耕地で季節ごとに種類の違う作物を作ることだ。
「人生の二毛作は余程の志がなければできない」と。
詩人の谷川俊太郎さんの言葉にもハッとした。
「隠居して好きなことだけをするという生き方が周りの人に受け入れられるのは、現役の時にそれだけの働きをしてきたからこそです」
「遊んで暮らせるに十分なお金があるから隠居するんじゃない。
歌を詠んだり、落語を始めてもいい。お金がないと遊べないというのは遊び貧乏です」と天野さん。
人は赤子から少年少女となり青年を経て大人になる。
晩年にはまた赤子のようにおむつをしたり食べさせてもらったりする。
ならばその一つ手前で再び少年少女に戻ればいい。
「子どもの頃は楽しくなかった、つらかった」という人もいるだろう。
貧しかったり、いじめられたり、虐待があったりして…。
大人を経た後はまた少年少女に戻って、今度は思いっきり楽しもう。
それが隠居生活のダイナミズム、底力だ。
成熟した少年少女たちの豊かな想像力、恐れを知らない好奇心、積極的な行動力は、この国に新たな文化をもたらすに違いない。
(「みやざき中央新聞」H30.1.1 魂の編集長 水谷謹人さんより)
「人生100年時代」である。
30年前、100歳以上の日本の人口は2668人だった。
それが今や約7万人。
国立社会保障・人口問題研究所によると、2025年には13万人を上回るという。
政府も昨年9月に「人生100年時代構想会議」を発足させた。
今年定年を迎える人はあと40年、80歳を過ぎて「そろそろ終活を…」などと言っている人でもまだ20年残っている。
さて、どうする?
ヒューマンスキル研究所代表の田中真澄さんは40年前から「人生100年時代、余生という発想をやめ終身現役を目指そう」と訴えてきた。
当時は60歳まで必死に働いて、定年後は趣味や孫の世話をして過ごすのが一般的だった。
そんな時代に田中さんは、大手企業の管理職を43歳で辞めて独立。
以来、「人生100年時代は終身現役で」をテーマに講演活動をしてきた。
昨年、81歳になった。
かつての同僚たちがのんびり老後を過ごしている中、ただ1人、精力的に全国を飛び回っている。
江戸時代に「隠居」という文化があった。
「隠居」といえば、現役を退いて社会から遠のくイメージがあるが、当時の「隠居」はそんなものではなかった。
世のため、家族のために一生懸命働いた後は本当にやりたかったこと、大好きなことのために身を捧げる、それが隠居生活だった。
江戸時代に詳しい法政大学総長の田中優子さんは
「隠居は江戸庶民の憧れのステータスでした。見事な隠居生活をした人の代表は伊能忠敬(いのう・ただたか)です」
と、あるラジオ番組で語っていた。
17歳で豪商の家に婿入りした忠敬は、ひたすら仕事に精を出しその家の資産を10倍にした。
その後、50歳で隠居し、大好きだった天文学を学ぶため江戸に出て、天文学者・高橋至時(たかはし・よしとき)に弟子入りする。
そして74歳で亡くなるまで日本地図の制作に生涯を捧げた。
井原西鶴や松尾芭蕉も、現代の俳壇に多大な影響を与えるほどの作品を残したのは30代で隠居した後なのだそうだ。
コラムニストの天野祐吉さん(故人)は対談本『隠居大学』の中でいろんな隠居の達人を紹介している。
70歳で「隠居宣言」をしたデザイナーの横尾忠則さん。
「隠居後はやりたいことだけをする」と決めた。
仕事を請けないので時間が余った。
小説を書いたら「泉鏡花文学賞」を受賞した。
しかし、「作家」という肩書きは付けない。付けると文壇に入ったり、作品が売れるかどうか気になるから。
「歌川広重も隠居後に画家として本格的に活動を始めた。
絵が売れるかなんて考えていない。思いの世界で遊んでいたんです。
それはもう命懸けです。絵を描きながら死んでもいいと思っている。これは最高の境地です」と言う。
お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古(とやま・しげひこ)さんは
「定年退職したら隠居できると思っている人がいるが、隠居はそう簡単なものじゃない。自分も一度失敗した」と語っている。
退職後、収入がなくなることへの不安から別の大学に勤めに出た。
仕事が何となく面白くない。途中でお金のために仕事をしていることに気付き6年で辞めた。
定年後、また同じような仕事をすることを外山さんは「人生の二期作」と呼んでいる。
二期作とは同じ耕地で同じ作物を二度作ること。
そして「人生は二毛作がいい」と言う。すなわち同じ耕地で季節ごとに種類の違う作物を作ることだ。
「人生の二毛作は余程の志がなければできない」と。
詩人の谷川俊太郎さんの言葉にもハッとした。
「隠居して好きなことだけをするという生き方が周りの人に受け入れられるのは、現役の時にそれだけの働きをしてきたからこそです」
「遊んで暮らせるに十分なお金があるから隠居するんじゃない。
歌を詠んだり、落語を始めてもいい。お金がないと遊べないというのは遊び貧乏です」と天野さん。
人は赤子から少年少女となり青年を経て大人になる。
晩年にはまた赤子のようにおむつをしたり食べさせてもらったりする。
ならばその一つ手前で再び少年少女に戻ればいい。
「子どもの頃は楽しくなかった、つらかった」という人もいるだろう。
貧しかったり、いじめられたり、虐待があったりして…。
大人を経た後はまた少年少女に戻って、今度は思いっきり楽しもう。
それが隠居生活のダイナミズム、底力だ。
成熟した少年少女たちの豊かな想像力、恐れを知らない好奇心、積極的な行動力は、この国に新たな文化をもたらすに違いない。
(「みやざき中央新聞」H30.1.1 魂の編集長 水谷謹人さんより)