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薬師寺⑥

2017-09-17 15:39:58 | お話
🏯薬師寺🏯⑥


🔸小川、きょうは管主にぜひお聞きしたいと思ったのですが、

若いお弟子さんたちをどのように育てていらっしゃるのですか。

🔹村上、私たち薬師寺の修行は理屈を超えた世界ですから、

知識ではなく体で身につくように覚えなくてはいけません。

作法も生活態度もすべてそうです。

それをしたからといって急に世界が変わるわけではありませんが、

後になってそれが自分の肥やしになっていることに気づかされます。

例えば、お経あげたらお布施をいただけるというのが世の中の話ですけれども、

檀家を持たない薬師寺の僧には、損得を考えずにお布施をいただけないお経を、何十年と黙々と上げ続けられるだけの心の鍛錬が求められるんです。

それは小川さんがおっしゃる黙々と刃物を研ぎ続ける世界と同じですね。

そういう心構えさえできていれば、

僧としての基本の姿勢は、いつも変わることなく保てるのではないでしょうか。

弟子を育てる場合にも、そのような姿勢を体得させることが、まず最優先事項です。

理屈を言わず、まずは一所懸命コツコツと修行に励む子は、それだけ吸収も早いですね。

🔸小川、私たちの工場でも教えないで感じ取る、ということが大前提になっています。

もちろん、教えなかったらどこに行ってしまうか分からないわけですが、

そこには何となく学ぼうという雰囲気があればいいんです。

雰囲気さえつくっておけば、放っておいても弟子たちは仕事を覚えます。

🔹村上、雰囲気づくりですか?

🔸小川、はい。私は弟子たちと今も共同生活をしていますが、

最初は私は雰囲気をつくってあげたから弟子が育ったと思っていました。

でも、それは間違いでした。

学ぼうとする雰囲気は、私ではなく弟子たちがつくったんです。

そのことを弟子たちに仕事を任せるようになった10年ほど前に、ようやく気づくことができました。

私たちの工場では、新しく入ってきた子に最初にやらせるのは飯炊きと掃除です。

飯炊きをさせると仕事の段取りのよさが分かります。

掃除をさせるとその子の性格、仕事に向き合う姿勢が分かります。

しかも、うちの飯炊きの時間はわずか30分なんですね。

ということは、前日に買い物を済ませて夜に下ごしらえをしておかなくてはいけない。

それも訓練ですから、できるかどうかをじっと見るわけです。

幸い弟子たちがこれまでそういう雰囲気をつくり上げてくれましたので、

私が改めて何かを教えなくても、

皆で食事した後の雑談だけでも十分に伝えることができるんですね。

大勢で一緒に生活することが私にとっても弟子たちにとっても大変な面がありますけれども、

そういう我慢比べもいいんじゃないかと最近はよく感じています(笑)。

🔹村上、私も同感です。

🔸小川、ただ、今の子はみんな個室で育っていますでしょう。

中には

「アパートから通っていいですか」

と言ってくる子もいます。

そんな子には

「すぐに帰ってください」

と伝えるんですが、本当に驚いてしまいますね。

🔹村上、お寺の生活でも

「俺はこうしたい」

と自分というものを持ち出すのはいい時もありますが、

修行の世界に飛び込ませる上では、やはり妨げとなることが多いですね。

薬師寺が復興し観光客が増えてくると、

薬師寺という名前だけに惹かれて弟子入りを志願する人も増えてきました。

ある種のサラリーマン化というのでしょうか、

何もしない時代に、おいしいご飯さえいただけたら、それが1番の幸せと思って修行に打ち込んできた私にはちょっと理解できません。

🔸小川、先ほど村上管主は、理屈を言わずに修行に励む子は吸収が早いとおっしゃいましたが、

私がいろいろ弟子を見ていても、素直な子はやはり伸びるような気がします。

なぜ素直がいいかというと、話が直線的に入るんです。

素直でない子は屈折して入るから、伸びるのにも時間がかかる。

それに素直だと、教えるほうも教えられるほうも、ともに疲れることがありません。

やはり素直というものはいいものですよ。

何かの問題に直面しても、素直に物を見ていくことで解決できることがあります。

これ以上力が出せないという時も、素直に物に触れていくことによって、いいものがつくれる。

🔹村上、物をつくる上でも素直さが大事だということですね。

🔸小川、その通りです。常識的に考えたら、設計図もない時代に薬師寺の三十塔のような建物を建てられるなど考えられません。

屋根の相輪に取り付けられた4枚の水煙(すいえん)にしても、1枚が100キロあるんですから。

おそらく奈良時代の工人たちは何にも心がとらわれることなく、

素直に物事を捉えることで、あれだけの知恵を生み出したのでしょう。

それを再現しようと思えば、やはり自分を無にして昔の工人に心を合わすことが大事です。

そうすると

「つくってやろう」

というのではなく

「自然につくり上げていく」

という感覚が分かってくる。

私はこれまでの人生の中で、この素直さということをとても大事にしてきました。

🔹村上、私が自分で大事だと思うことを申し上げれば、

やはり世の人々のこと、お寺のこと、弟子のことを優先する生活態度が薬師寺の僧侶の生き方だと思って生きてまいりました。

その他に何もありませんし、

この年になってくると、そのことをより優先させなくてはいけないという思いを強くしております。

いまの世相を見ますと、三世代が一緒に暮らさない、

両親を大切にしない、先生を敬わない、

お墓にも参らない、お葬式もしないというように、

仏法からどんどん遠のいていくばかりです。

孝行や思いやりなど人生に必要な重石が失われていく中で、

仏法を知らせる僧侶の役割が大きくなってきていることを痛感しているんです。

🔸小川、重石が失われていくというご指摘、確かにそのとおりですね。

🔹村上、例えば、若い人に尊敬する人を持てと言ったところで、おそらく持てないでしょう。

実際にそういう出会いをして心から納得するという経験をしていないからです。

スマホをいくら見てもそのことは分かりません。

ですから、ただ頭で分かったつもりになるのではなく、

何事も自分の体で経験を1つずつ進んでいくことは、

特にこれからの人たちが人生で大成していく上で、

とても大切になってくるように思います。

仏教には「冷暖自知(れいだんじち)」という言葉がございます。

一杯の水でも、見ているだけでは、それが暖かいのか冷たいのか分かりません。

頭で考えて得られるのは知識だけです。

自分で体験し、心で理解すること仏様の知恵というのです。


🔸小川、管主の話を聞きながら感じたことですが、

最近の弟子は一昔前に比べて恩を感じるということが少なくなりましたね。

何年も一緒に生活していながら、独立した途端

「今どこで何をやっています」

というような連絡を寄こさないし、

そのまま離れてしまう子が多いのは実に残念です。

西岡棟梁は法隆寺で技を磨いて最後に薬師寺で花を咲かせられました。

もし棟梁が器用に振る舞うようなタイプの人だったらきっと西岡常一という名はなかったと思います。

だけど、弟子たちを見ていると修業をして一通りの技術が身につくようになると、それで終わりなんです。

本来なら、技術を身につけた上で、

与えられた予算の中でどうつくり上げるのか、

どのように弟子を育てるのか、

施主さんの信頼を得ていかに仕事をいただけるようになるか、

というところまで進まなくては、一人前の宮大工とは言えない。

そこまで考えることができるのは、

感謝の気持ちや視野の広さなど、人としての美的感覚を育てることができた子だけですね。

うちの弟子を見てもそういう子はまだまだ少ないのですが、

人間的なベースがないと宮大工としての大成は難しいと思います。

🔹村上、私たちのお寺でも真面目な子はいます。

だけど自分の修行のことしか考えていないから、

次の段階に進まないんですね。

人があって、社会があって、初めて仏教というものが存在するわけですから、

大きく言えば衆生救済、人々のために法を説くというところにまで思いは至らなくてはいけません。

その意味でも視野を広くする訓練というのは、とても大事ですね。

しかし、これは別に若い僧侶のことだけではないと思います。

今回のテーマは「自反尽己(じはんじんこ)」ということですが、

自分たち僧侶は、いつまでたっても修行、修行ですよ。

人に何かをして差し上げたとしても、なかなか思うようにいかないこともあります。

毎日が「ここは足らなかったな」

「こうすればよかったな」

と反省することの連続です。

しかし、自分を見つめ反省を繰り返しながらも人々の幸せのために力を尽くしていく。

薬師寺流の言い方をすれば、仏法の種まきをしていく。

そこに自分の心もまた磨かれていくように思います。

🔸小川、「自反尽己」という言葉について私の立場で申し上げれば、

棟梁は仕事の全責任を負うわけですから、決して言い訳できないんです。

職人の世界は厳しいもので、いくら口先で上手に話せるジェントルマンであっても、

技術が下手であれば、施主を感動させるものをつくることはできません。

言い訳ができないのは職人の世界であり、

それだけに自分を厳しく見つめて技を磨き続けなくてはいけないんです。

私のは鵤(いかるが)工舎を立ち上げて独立した時、

西岡棟梁が工場に来て、こんな言葉を書いてくれました。

「鵤工舎光の若者に告ぐ。

親方に授けられるべからず。

一意専心、親方を乗り越す工風を切磋琢磨すべし。

これ匠道(しょうどう)文化の心髄なり。

心して悟るべし」。

独立した以上、今度は親方を乗り越える努力をしろ、という教えです。

この言葉を指針に技を磨き、

弟子を育てて一途に匠道を歩んでいく覚悟でいます。


(おわり)

(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)

薬師寺⑤

2017-09-16 10:55:07 | お話
🏯薬師寺🏯⑤


🔹村上、小川さんは都会育ちの人にはない素直な感性をお持ちですから、

厳しい理屈抜きの世界に耐え抜いてこられたのでしょう。

お話には大変共感いたしました。

少し宗派の話になりますが、

私たち法相宗の世界で一人前の僧侶になろうとすれば、

「竪義(りゅうぎ)」と呼ばれる口頭試問形式の試験に合格しなくてはいけません。

そして、この竪義の試験を受ける前には、21日間の前加行(ぜんけぎょう)というものを勤めなくてはいけません。

前加行というのは、21日間、無言、不眠、不臥のまま、ひたすら座り詰めでお経を上げ続けるという想像を絶するような過酷な行です。

はじめの1週間は、座り続けることへの肉体的苦痛を感じるのですが、

2週目、3週目に入ると、

肉体的辛さよりも耐え難いほどの精神的な苦痛が襲ってくるんです。

ここで挫折をすれば寺から追い出されて長年の修行が無に帰しきしていしまいますしまうわけですから、

皆命がけで耐え抜きます。

🔸小川、想像しただけでも大変な修行ですね。

🔹村上、まさに理屈抜きです。私はこの厳しい行を成就した後、

つくづく感じたことがございましてね。

それは

「師匠が私たちに厳しく接したのも、この厳しい行を乗り越えさせるためではなかったか」

ということです。

🔸小川、親心だったと。

🔹村上、厳しい一方で、師匠は自分を顧みずに、他人様のお世話することに労力を惜しまない人でもありました。

私も師匠には20年ほどお仕えし、10年以上は侍者を務める中で、

その慈悲心の深さを感じることも度々ありました。

晩年は体調崩されましたけれども、

「病院へはいかへん。薬も飲まへん」

と頑固に拒み続けられましたね。

今思うと、無理にでも病院にお連れしておけばよかったと悔やまれます。

🔸小川、本当に気丈な方でしたね。

🔹村上、それに付随してもしなのは、師匠とは20年間いつも一緒にいていろいろなことを教えられたのに、

こうやって具体的な思い出を探そうとすると、

怒られたこと以外は、なかなか浮かんでこない(笑)。

🔸小川、私もそうなんですよ。西岡棟梁が亡くなった後、新聞社に思い出を聞かれても、

満足に答えられませんでした。

私は思うんですね。

「あの人はこういう人だったなあ」

と考えられるのは、その人から離れているためではないかと。

その人と本当に1つになっていたら、

その人のことが分らなくなるものなのではないかと。

🔹村上、ああ、確かにそうかもしれませんね。

🔸小川、考えてみれば、師匠から離れるからよそよそしくなったり苦しくなるのであって、

ピタッとくつけば怖くはなくなる。

私はそのことを長野の仏壇屋で修行中に学びました。

その仏壇屋の店主は何かを口で言う前に棒で私を叩くんです。

私は叩かれると分かった瞬間、パッと店主にくっついちゃう。

そうやって距離を縮めると、店主は叩きたくとも叩くことができない(笑)。

西岡棟梁も「法隆寺に鬼がいる」と言われたくらい怖い人でしたが、

そのことを思い出して棟梁にピタッとくっつくようにしました。

棟梁が「今日のカラスは白いな」と言ったら自分も白だと思う。

そういう習慣がついてくると修業が楽しくなるんですよ。

棟梁がいま何を考えているかが分かってくる。

いつまでも親方を批判の目で見たり、

自分というものを持ったままでは宮大工の修業は苦しいばかりでしょうね。

🔹村上、仏道修行も同じです。

うちの師匠も寺のこと、弟子を育てることが生活の全てでございましたから、

怒りながらでも弟子たちの傍に24時間ずっといらっしゃいました。

時には「そこまで怒らなくても」と思うこともありましたが、

それだけ一所懸命に育ててくださっているんだなと必死について行きました。

私にとっても師匠という存在は自分の命そのものだったという気がいたします。


🔸小川、村上管主は後に、高田好胤管主にも仕えられますね。

🔹村上、好胤師は1番上の兄弟子であり師匠という間柄でしたから、

常に傍にいてお供をしていたわけではございません。

しかし、やはり多くの薫陶を受けましたね。

好胤師は厳格な凝胤師とは対照的に、仏法は人に分かりやすく説かなくてはいけない、

仏心の種まきをしなくてはいけないというスタンスを貫き、

公演や執筆、テレビ出演なども精力的にこなしておいででした。

それだけに大変お忙しかったのですが、しんどいからといって休むこともされず、

また几帳面な方でもありましたので、時間があれば法話の内容をノートにびっしり書いておられました。

お話も心を込めて一所懸命になさるので、

話術ではなく話力だと言う人もおりましたが、

仏教というものに、それだけの信念を持ちだったのだと思います。

🔸小川、私は新幹線で東京に行こうとしていた時、偶然、好胤管主と一緒になることがあったんです。

その頃、高田好胤さんといえば国民的な人気もので、

当然グリーン車に乗られると思ったら自由車両に向かわれたのには驚きました。

お昼に同伴の方から

「食堂車にいきましょう」

と言われても

「いや、サンドイッチでいい」と。

私も若い時でしたから、車中で何となく仕事の不満を漏らしたのでしょうね。

聞いていた好胤管主はこうおっしゃいました。

「私は、世間からタレント坊主などと言われているが、

そんなことは構わない。

薬師寺のことだけを考えて私はやっている。

お前も西岡棟梁のことだけを考えて仕事しなさい」と。

私にとっては迷いが払われるようなひと言でした。

🔹村上、好胤師は実際、伽藍の復興が人々の心の復興になるんだという信念を持ち、

私利私欲を捨てて、薬師寺のことだけを考えておられましたね。

薬師寺の貧しい時代、土地を少しずつ買い戻しながら一つひとつ復興していく苦労をされ、

凝胤師の思いを誰よりも理解しておられました。

師の思いに応えたい一心でお写経勧進を発願し、

そのために講演をし、執筆をし、テレビにも出られました。

好胤師以下の歴代住職たちも、方法こそ違え、復興にかける思いは皆同じだったはずです。

🔸小川、村上管主は今、その思いを継いでおられるのですね。

🔹村上、私も薬師寺が貧しい時代をよく知っておりますし、

兄弟子たちが復興に命を懸ける後ろ姿を見てきましたので、思いは同じです。

おかげさまで復興も進んでまいりました。

それにどのように魂を入れていくか。

それが私に与えられた役割だと考えているところです。


(つづく)

(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)

🌸ビューティ可理子プロデュース🌸⑤

2017-09-15 23:02:19 | ダイエット
🌸ビューティ可理子プロデュース🌸⑤


🌸好き嫌いの教え🌸


食べ物の "好き😍嫌い😵" が多い人は、
人の 好き😍嫌い😵 が多い。

辛いものが好😍きな人は、厳しい⚡️人が好き。

酸っぱいも😄のが好きな人は、サッパリ🌟した人が好き。

食に関心が薄い人は、人や生きることに関心が薄い。😵

食事(食材)のことをやたら心配😰する人は、人のこともやたら心配😰する。


例えば、

あなたは、柿、どんなの好きですか?

・かたいサッパリしたの。

・熟し具合が、ちょうどいいもの。

・熟しきって、トロトロのもの。

柿の好みは、


異性の好み。

・かたいサッパリしたのが好きな人は、若いこが好き。

・熟し具合が、ちょうどいいものが好きな人は、同世代の人が好き。

・熟しきって、トロトロのものが好きな人は、年上が好き。


バナナ🍌や、車🚙(大きさ、軽、普通、大型)の好みも、同じ。


やる気✊のある人は、何でもモリモリ✊食べる。

スーッ⚡️とした人は、野菜🍆🍅が好き。

ギラギラ😆✨した人は、肉🍖が好き。


普段は、余裕💕を持って生活🍀し、腹八分目👀。

やるときはやり、精一杯✊、全力🎵でやる。
そのときは、食べるのも、精一杯✊。

すると、心地いい💕。

人生🍀にはメリハリ😍が大事🌸。

すると、メリハリ😍のあるボディ💃にもなる。


何でも食べる🎵人は、人の 好き😍嫌い 😵がない。


だから、

人間関係🍀をよくしたかったら、

食べ物の 好き😍嫌い😵 を減らす。

まずは、

食べず嫌い😵を減らす⤵️こと。

子どもの頃👦👧、嫌いだったものは、
大人👨👩になったら変わる🔄もの。

必要🍀な栄養素🌸が違う⚡️ので、
身体の要求✊が変わる💕のは当然☀️。

だから、

子どもの頃に嫌い😵だった食べ物に、挑戦✊してみてください。

以外と、大丈夫🍀ですから。

いけますから。

それで、

たまに、
食をリセット🆑する。

やるといいことは、

20時間(ぐらい)断食。

休み💤の日なんかにやる。

前日の夕食から数えて20時間、
水💧以外は摂らない。

すると、腸🌸が休まって、身体が楽になる。

内蔵も元気になるよ。

体調の🌁リフレッシュ🌈には最高。


世界的に観ても、キリスト教(ユダヤ教)でも、
イスラム教でも、仏教でも、ヒンドゥー教でも、断食⚡️はやってます。

イスラムでは、ラマダンといって断食は、年中☀️行事🍀の一つです。

(ラマダン:イスラム暦(一年が三百五十四日の太陰暦による)の九月。
断食月。健康な人は、日の出から日没まで飲食を絶つ決まりがある)

時期を決めて、毎年☀️やっている。

日本人🇯🇵も、たまに断食⚡️やるといいと思う。

特に病気🏥の人。

「3日食べなきゃ、7割治る」
(船瀬俊介著)って本もあるくらい。

食べないのも、健康🍀のためです。

今の現代人🌇は、食べ過ぎ。😁😁😁

江戸時代🏯の『養生訓』の著書、
貝原益軒は、「腹八分目を健康の基本」としてます。

だから、少ない、ちょっと足りない、ぐらいが、

ほんとは、健康🍀に丁度いいんです。😊🌸

人類の歴史📚は、饑餓😩の時期の方が長かったんです。

でも、ちゃんと生き残って✊きたんです。

また、
ちょっと足りないぐらいが、

若返り🍀↩️の遺伝子🌸を目覚め🌟させるという研究📝もあります。


私は、2、3ヶ月に一回ぐらい、何にも食べない日☀️があります。

食べたくない日は、食べないようにしてます。😊🎵

すると身体が楽💕になる。

また、活力✨が湧いてくるんです。

人は、1、2日食べないでも、死にましぇ〜ん。

全然、大丈夫🍀!


ですから、
一度、お試しあれ〜!😊🎵


以上、

好き嫌いと、食べないで健康のお話でした。😊🎵

薬師寺④

2017-09-14 11:08:42 | お話
🏯薬師寺🏯④


🔸小川、私が仕えた西岡棟梁も、自分が働く姿を見せることによって弟子たちを育てようとする人でしたね。

そもそものご縁は高校時代の修学旅行でした。

まぁ、私もいい加減な生徒でしたからね。

みんなで酒を飲んでべろんべろんになって、法隆寺を訪れたんです。

そこに五重塔があって、ガイドの人が

「この塔は1300年前に建ったものです」

と説明されました。

塔の前に立って見上げた瞬間、

1300年前にどうやって材料を運んだのか、

相輪をどうやって塔の上に上げたのかという疑問が湧いて、

気がつくと、

「この仕事が、できたらいいな」

と思うようになっていたんです。

🔹村上、塔を見上げた瞬間に、そう感じられた。

🔸小川、何も知らないのがよかったのでしょう。

もし、本を読んでいろいろ法隆寺についての知識を身に付けていたら、

そういう感情は湧かなかったと思います。

栃木の家に帰って父親に

「宮大工になりたい」

と伝えると、銀行員の父親は

「気持ちはよく分かるけれども、それは、川の流れを遡(さかのぼ)るようなものだ。

それよりも船に乗って下れる仕事はないのか」

と言うんです。

だけど、私は生活態度は不真面目だし成績もビリのほうで、先生からは怒られてばかりだったから、

「ようやく自分に合う仕事が見つかった」

という気持ちが強くて、簡単には引き下がりませんでした。

法隆寺に大工がいるかどうかも知らないまま、

とりあえず奈良県庁に足を運んで

「こういう仕事をしたいので、お願いします」

と相談すると、

「法隆寺には西岡楢光という棟梁がいるから訪ねてみなさい」

と教えてもらいました。

🔹村上、常一棟梁のお父上ですね。

🔸小川、法隆寺にいた大工さんに

「西岡さんは、どなたでしょう」

と尋ねたところ

「西岡誰だ?」と。

ところが私は迂闊にも下の名前を失念してしまったんですね。

そのことを正直に話しますと、出てきたのは西岡常一棟梁でした。

そこに私の運があったと思うのですが、

西岡楢光という名前を覚えていたら、師匠に弟子入りすることはありませんでした。

だから、運というのは、賢いとか頭がいいということとは関係ないと今も思っているんです。

🔹村上、やぱり、ご縁だったのでしょうね。

🔸小川、その場で弟子入りを申し込みましたが、

「こんな仕事をやっても嫁さんはもらえないぞ、飯も食えないぞ。やめておきなさい。

それに18歳だと年齢的にもう遅いし、仕事もない」

と歯牙にもかけてもらえませんでした。

それでも諦められずに、ちょっとでも宮大工に近い仕事をしようと

長野県で仏壇づくりをしたり、

島根県や兵庫県で神社の改修をしたりしながら、弟子入りの機会をうかがっていました。

ちょうど棟梁を訪ねてて4年目でしたけど、

棟梁から手紙が来たんです。

「これから法輪寺で三重塔の建築があるので、お前1人ぐらいは来てよろしい」

という内容でした。

これは嬉しかったですね。

すぐに持っていた刃物をきれいに研いで行きました。

ところが、道具箱を見せると、棟梁はノミを手に取ってポイと投げるんです。

こんなノミでは全く使い物にならん、という棟梁なりの駄目出しでした。

🔸小川、西岡棟梁から最初に言いつけられた仕事は納屋の掃除です。

納屋に上がってみると、これから建てる三重塔の描きかけの図面、大工道具がありました。

つくりかけのお厨子もあって、

「掃除をしろ」というのは、それをみてもいいということですね。

「これで弟子入りが認められたんだ」

と思いました。

西岡棟梁は、自分が弟子を育てているということはひと言も言わない人なんですね。

「納屋を掃除しろ」

という言葉から、弟子がそれを感じ取らなくてはいけない。

その次に言われたのは、

「これから1年間はテレビ、ラジオ、新聞、仕事の本。

そういうものに一切目をくれてはいけない。

刃物研ぎだけをしなさい」

ということでした。

だから、仕事から帰ってくると、納屋に上がって毎日毎日刃物研ぎの練習です。

3ヶ月ぐらいした時に、棟梁がの納屋に上がってきて1枚の鉋屑(かんなくず)を引いてくれました。

私はそれを窓ガラスに貼って、棟梁が削った、向こうが透けて見えるほどの鉋屑が出るまで、

毎日鉋を研いでは削り、研いでは削りを繰り返しました。

1年の中で

「さすがに仕事の本くらいなら読んでもいいのではないか」

と迷った時期もありましたが、

「刃物研ぎだけはしなさい」

と言われた意味が最近、この年になってやっと分かってきた気がするんです。

🔹村上、それはどういう意味だったとお考えですか。

🔸小川、施主さんはいつも私たちに

「いい建物をつくってください」

とおっしゃるわけですが、いい建物をつくる前に、

自分に合った切れる刃物を持つことが大事なんですね。

いい刃物を持てば、刃物に恥じるような仕事はしたくなくなります。

見方を変えると、いい道具を持たないと、仕事にも手を抜くようになるんです。

毎日仕事から帰って刃物を研いておけば仕事が面白くなって、

いつの間にか丈夫で立派な建物をつくってくれます。

だから、教えるのは

「刃物の手入れをしなさい」

と、それだけでいいと言ってもいいくらいです。

🔹村上、小川さんの話をうかがいながら、師匠の行動や後ろ姿から何かを感じ取っていくのは、

宮大工の世界も僧侶の世界も同じだと思いました。

私の師匠も高齢になっても朝早く起きてお経を上げ、

トイレの掃除は率先して実践する、そういう生活を続けておられました。

その裏表のないお姿を毎日見ているうちに、いつの間にか弟子たちも感化されて一所懸命になっている。

師匠の役割とは、そういうものかもしれませんね。

🔸小川、そういえば、こんなことがありました。

まだ刃物磨きばかりやっていた時、棟梁の息子さんが

「京都の名刹・浄瑠璃寺に遊びに行こう」

と連れ出してくださったんです。

嬉しかったですね。

初めての事でしたから。

そこで帰ってきたら、棟梁が鎌で畑の草刈りをしていました。

しかも、草刈りの様子は尋常ではない。

ガッガッガッと明らかに腸(はらわた)が煮えくり返っていることがわかるんです。

だからといって

「何で浄瑠璃寺に行ったのか」

「見る目もないのに見てもしょうがないだろう」

など小言はひと言も言わない。

ああ、これは棟梁に申し訳ないことをしたと思いました。

それから約20年、棟梁のところにいて、どこかに遊びに行くのはどうということは、1度もありませんでしたね。


(つづく)

(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)

薬師寺③

2017-09-13 11:01:15 | お話
🏯薬師寺🏯③


🔹村上、右も左もわからないまま、修行生活を続けていた私にとって1つの人生の転機になったのが、

18歳の時に師匠のお供でインドに行った時でしょうね。

この時は、聖地ブッダガヤに日本仏教の記念碑として仏塔を建立することになり、

奈良からも大勢の僧侶が参加することになったんです。

何しろ私には生まれて初めての海外旅行でしょう。

しかも、お釈迦様が悟りを開かれた地を訪れるというので不安と緊張でいっぱいでした。

落慶法要の当日、一緒に参加していた老夫婦からこのように言われたんです。

「あなたは本当に幸せですね。その若さでお釈迦様の聖地に参拝ができて、

本当によかったですね」。

この言葉には思わずハッといたしました。

考えてみれば、奈良時代や平安時代、大勢の僧がお釈迦様ゆかりの地を訪れたいと熱願しながら、

断念せざるを得ませんでした。

一念発起してインドや中国に向かったとしても、

旅の途中で遭難したり、病気で亡くなったりした僧が数多くおります。

そのことに思いを馳せた時、願いを果たせなかった僧たちへの申し訳なさが込み上げ、

自分が出家したこと、インドに来たことの意味を初めて感じ取ることができたんです。

🔸小川、そうでした。

🔹村上、10年間の修行の苦労が一瞬で消え去り、

師匠やお釈迦様は、すべての方々に心からの感謝の思いが湧いてまいりました。

お釈迦様が亡くなったクシナガラの地では、

お釈迦様の墓塔に五体投地をしながら涙を流したことを、いまでもよく覚えておりますね。

これが宗教家になろうという決心のスタートだったと思います。

🔸小川、私はインドには行ったことがありませんが、

やはり日本とは大きく違う現地の神聖な雰囲気と、村上管主の決心を後押ししたのではありませんか。

🔹村上、それはありますね。まず大らかさが違います。

それにお釈迦様がここで生まれられたんやな、

ここで修行されたんやな、という空気を肌で感じることができました。

仏教の難しい講義を聴いているだけではわからなかった生きたお釈迦様の姿に触れて、

大きな力をいただいた思いでしたね。

そしてその頃から、師匠の大きさというのか、なぜご自身や私たち弟子にそこまで厳しくされているかが少しずつ分かってきたように思います。

師匠は自分が厳しく生きる姿を通して、

私たちを本当の仏教者に育てようと知らず知らずのうちに心がけておられたのですね。

私もいま弟子を育てる立場になって、その気持ちがより分かるようになりました。


(つづく)

(「致知」10月号 小川三夫さん村上太胤さん対談より)