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直感力11🌟反省は後でするもの🌟

2018-02-05 09:52:14 | お話
11🌟反省は後でするもの🌟


ミスをした後にミスを重ねてしまうもう一つの要因は、、、

ミスをする前よりもずっと、状況が複雑になっていることがあると思う。


ミスをする前というのは、どういう方針でやってきたのか、いまどういう選択肢があって、

これから先どういう方針で臨んでいくのかが非常に明瞭で、選択肢も分かりやすい状態になっていると思う。

そこで正しい選択をしながら、その状況が継続していくことになる。

ところがある時点でミスをしてしまうと、

それまで築いてきた作戦や構想、方針といったものがすべて崩れてしまい、

もう一度最初からやり直さなくてはいけない。

そこへ至った道筋が全部崩れてしまうのだから、

気持ちとしても動揺するのは当たり前。

さらに、ただでさえ情報が溢れ、複雑で混沌とした状況の中、

過去へ遡って一から何をすればいいのか、

どういう方針で臨めばいいのかは、にわかには見極められない。

そういう状況であるから、いったん綻びが生じると、そこからミスを重ねてしまうのも必然ではないかと思えてくる。

さてそこで、そのミスを重ねないためにどうするかということだが、

まずは、ともかくも一呼吸おく、一休みすることが1番だと思う。

たとえば5分だけお茶を飲んで休憩するのでもいいし、

外の景色をぼんやり眺めるのでもいい。

本当に短い時間でも、ちょっと一休みしさえすれば、ずいぶんと冷静になり、

客観性が取り戻せるのではないだろうか。

そして、ミスの後の行動を、まったく新しいものとして捉える努力をすることだ。

これからのことを考えるとき、人はどうしても、それまでやってきたものの連続として考えてしまいがちだ。

しかし、ミスをした後、これから始めるべき行動についても、

「もし仮にこれを初めて見たら、自分はどう判断するだろう」

とか

「どういう選択をするのだろう」

というようなことを想像してみたらどうだろう。

「初めて見たら」と想像することと、

過去からの連続で考えて判断することとは、大きく違う。

そのとき思いきって自分の位置を切り替えて、

「初めてこの場面を見たら…」

といった視点をもつようにするといい。

さらにもうひとつ。

反省をしないことだ。

反省は、基本的にはしなければいけない。

反省だとか検証は、もちろんしなければいけないものではあるが、

それは、後ですればいいことだ。


将棋であれば、対局が終わった後の感想戦。

そこですればいいと考えている。

実戦の最中であれば、その場で反省をしているよりも、

ミスをしてしまったその局面をいま、なんとかしなくてはいけない。

なんとか打開して状況を好転させなければならない。

したがって、反省や次につなげるための検証はとりあえず後回しにして、

いまその瞬間に集中することが大事になってくるのだ。

なお、ミスは失敗を犯したときの結果については必要以上にこだわることはないと考えている。

誰でもミスや失敗をする、適度にミスをするほうが健全であると思っている。

さまざまなシステムや仕組みをつくるときにおいても、

ミスがあることを前提とした柔軟性のあるもののほうが、

現実的に使いやすいのではないかと思えてならない。


(「直感力」羽生善治さんより)

自然食🍚🍙 (コンビニ弁当を健康的にするには)

2018-02-04 08:57:48 | 新しい考え方
🍙🍚自然食🍚🍙
(コンビニ弁当を健康的にするには)


100年前、「自然食」という考え方はありませんでした。

すべてが自然なので当たり前です。

ではなぜ今「自然食」が注目されるようになったのか?

「見た目がキレイで、大きさも同じで調理しやすいほうがいい」

と皆さんが言うので、

お百姓さんは農薬や化学肥料を使うようになりました。

食品添加物も、多く使われるようになり、

私たちも見た目のきれいな野菜を喜んで買うようになりました。


私は以前コンビニの商品開発を手伝ったことがあります。

コンビニの商品は、2週間の売れ筋を見て、売れない商品はすぐに全国の店舗から消えていきます。

コンビニで売られている弁当を見ると多くの添加物が使われています。

でもこれは皆さんの「リクエスト」に応えた結果なのです。

「お弁当は腐りにくいほうがいい」

「色合いのキレイなほうがいい」

と言うので、皆さんに買ってもらえるように作っているわけです。

それが店頭に並び続けているということは、

皆さんが、その弁当を支持していることになります。

もし皆さんが

「防腐剤が入っていない弁当がいい」

「色合いが多少し悪くても、安全でおいしい弁当がいい」

と、今売られている弁当を誰も買わなければ、

2週間後にはきっとオーガニックな弁当が全国のコンビニに並びます。

商品が売れなければ生き残れないのはコンビニだって同じなのです。


私は自分自身と子どもの「命の質」を上げたかった。

それには食べ物を変えるしかありませんが、当時はそれがありませんでした。

だから私は1986年に民宿「百姓屋敷わら」を作り、

米、麦、大豆、そば、を自分で作ることにしました。

無施肥・無農薬の完全な自然栽培で、作物の乾燥もすべて天日干しです。

小麦アレルギーはなぜ起こるのでしょう。

一般的に小麦は、高い温度で製粉されると「異形たんぱく」が形成されます。

それがアレルギーを引き起こすといわれています。

私たちは小麦を天日で干し、石臼で挽いています。

そうやって作ったうどんやパンは、アレルギーやアトピーの子どもたちがいくら食べても反応は出ません。


私たち日本人は、60年経ってようやく気づき始めました。

「今の体の調子の悪さは、ずっと食べ続けてきた、この多量の食品添加物や農薬のせいなんじゃないか?」

と。

そして

「やっぱり農薬や化学肥料を使わないほうがいい。

添加物や着色料もないほうがいい」

と考える人たちが増え、

それが科学的にも証明されるようになってきたのです。


では、食事だけ自然に戻せばいいのでしょうか。

そうではありません。

今の社会の構図は、私たちが便利さや快適さを優先的に求めてきた結果です。

ですから私たちがこれからやるべきことは、

「可能な限り環境に負荷をかけない生き方をする」

というところまで考えて行動することなのです。


(「みやざき中央新聞」H30.1.29 自然食料理人 船越康弘さんより)

直感力10🌟勝敗の分岐点を知る🌟

2018-02-03 10:58:40 | お話
10🌟勝敗の分岐点を知る🌟


将棋は一手一手が因果応報。

原因と結果がはっきりとしている。

しかし、今日の努力は、少なくとも3ヶ月後、1年後といったタイムラグがあった後に、

初めて結果としてあらわれることが多い。

新しい戦法を試そうと思えば、たいてい最初は失敗を重ねるだろう。

だからといって、あきらめてはいけない…

というのは簡単だが、

必ずしも永遠にあきらめないことがいいわけではない。

たとえばあらかじめ期間を決めておいて、その期間を過ぎても身につかないようであれば、

その戦法は潔くあからめることも必要だ。

実戦では、自分のほうが不利な場面を想定している時間が9割くらいある。

たいていは展開の悪い場面、不利な状況についてシミュレーションしているのだ。

常に、「この状況をなんとかしなければ」と考えている。

ただしそれは、「不安がる」こととは違う。

漠然とした状況を心配し、不安になって考え込むことではない。

それは実際の厳しい勝負の場では当然のことなのだ。

盤面上では自分が有利に、うまくいってる状況のことを考えても仕方がない。

こうすればうまくいく、というその手に辿り着いたところで満足しては、

そこでも思考停止となってしまう。

そうではなく、不利な場面をたくさん想定し、実際には回避する。

その積み重ねが「あきらめない」精神を築くことにつながっていく。


また同時に、それは「ターニングポイント」を知る訓練にもなる。

つまり、ここが勝負どころだとか、分岐点だというポイントが、

感覚として分かるようになるということだ。

だとえば、指すべき手筋が分かっていながらミスをして負けてしまったのであれば、納得がいく。

それは実力で負けたのではないし、修正点も明らかだ。

しかし、敗因がわからないまま、終わってしまうこともある。

ターニングポイントに気づかない、その瞬間が見えなかったということだ。

どこがターニングポイントだったのか。

それはもうそこからどんなに頑張っても粘ってもダメという局面だったのか、

細い道ながらも可能性があったのか…

といったことを、終わってからでもきちんと検証しておくことが必要だろう。

勝った、負けたといった結果で終えるのではなく、その分岐点を見極めておくことだ。

筋を読めたか読めなかったのか。

事実上の決着はいつ、ついていたのか、、、。

勝敗の分かれるターニングポイントを認識することができるようになれば、

その先まだあきらめないで頑張るべきか、

いやもうここはあきらめたほうがいいといった判断が明確にできるようになり、

無駄な粘りをせず、必要な頑張りができるようになるだろう。


(「直感力」羽生善治さんより)

直感力9🌟独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる🌟

2018-02-02 07:54:37 | お話
9🌟独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる🌟


型や戦法をデータとして蓄積することは、いってしまえば暗記だ。

基本的な知識を押さえておく、この形になったら、こうしてはいけないといったことを、極端な話、全部覚えておけばいい。

そうすれば、少なくとも最悪の局面にはしないように心がけることができる。

その局面にしてはいけないという形を何百通りか記憶しておけば、

その前段階から回避するために、作戦を立てていくことができる。

覚え形を回避しさえすればいいのなら、それは単純に暗記とか記憶の問題だ。

こうした情報がどれだけ増えても変わらない大切さは個性だと思っている。

さまざまな経験や知識、その集積からなる価値観に基づいて表出される独自性だ。

時には、今まで築いてきた経験則をゼロにして考えてみることによって生まれるものもある。

ものすごく遠回りしながら熟考し導いたもののほうが、長期的視点に立てば、後々まで役立つことが多いといえる。

深く考えて得られた自信、確信こそが、疑念や迷いが生じたときの支えになるのだ。

独自性、個性は、一朝一夕にはつくれない。

さらに、それを常に発揮するのはもっと難しいことだ。

一手ずつの指し手に個性を出すのは難しい。

ひとつの局面でどの選択肢を選んだところで、たいていそんなに違わない。

そのとき可能性のある三つの選択肢の中からどの一手を選ぼうが、たいてい大きな差が感じられるわけでもない。

ただし、それを一局としてまとめ上げたときに、個性は自ずと生じてくる。

それはたとえば何人かが思い思いに絵を描くときに、

たまたま同じ一カ所に同じ色を付けたとしてもその違いは分からないが、

その作業を続けて何十カ所と色を付けていったら、

仕上がりはみんな違う絵になるのと同じだ。

ミクロの一点だけを見れば違いが分からなくても、

ある程度まとまったかたちになったときには違いが出てくる。

何十手と重ね、やがてそれが何十局何百局となっていたときに、ひとつの個性、その人のカラーが自然と明らかになってくるのだ。

それと同時に忘れてはならないのは、将棋そのものの変化に対する認識だ。

非常に速いスピードで変わり続ける現代の将棋に乗り遅れずついていくことも、大切なのだ。

常に戦型を研究し、覚えるといった基本は押さえた上で、プラスアルファのものを付け加えるということをしたい。

基本的な知識を踏まえた上でこそのオリジナル、個性だろう。

将棋の世界では、データの重み、定跡や研究の結果といったものは、やはり軽視できない。

個性が積み重ねであらわれてくるのとちょうど同じように、一局だけなら基本や流行への対応を知らなくても通用することがあるかもしれない。

ただ、一局ですぐにダメだということはないとしても、

半年、1年と指すうちにだんだんとやりようがなくなってくる。

基本的なところをきっちり押さえておくことは、欠かせない経路だ。

それを踏まえた上でいかに自分の個性を出していくか…

それは、今日意図したから出せるというものではない。

基本を踏まえ、一手ごとの選択をし、時にはリスクを冒して決断するといった経験を重ね、道のりを歩いてのちに、自然とあらわれてくるものである。

そして、自分の意識や意図とは離れたところであらわれるその個性こそが、総合的な自分の「力」なのではないだろうか。


(「直感力」羽生善治さんより)

直感力8🌟相手を研究するより自分の型🌟

2018-02-01 14:40:35 | お話
8🌟相手を研究するより自分の型🌟


プレッシャーは集中力や直感を導き出すことに一役買うが、一方では、過度に神経質に、ナーバスになってしまう。

それは好ましい状態ではないだろう。

中学3年でプロの四段になり、最初の1年目は本当に楽しかった。

対局に臨んで「考えられるようになった」といったらいいだろうか。

なんとなく、自分としても伸びていっている実感があった。

多少の不安や緊張といえば、遠征で大阪など知らない地方へ行ったりすること。

そういうときは、やはりまだ子どもだから、少し不安を感じるといったことはあったが、

将棋そのものや棋士としての生活は、それまでとの環境の変化も含め、ひたすら楽しんでいた。

そうやって1年が過ぎ、環境にも慣れてきた頃、

初めての順位戦で、対局が夜の12時半頃まで及んだことがあった。

私は夕方6時くらいの時点で、すでにもうクタクタになっており、

みんな、こんなにしんどいことをよくやっているものだと感心したのを覚えている。

このとき16歳。

勝負に対するプレッシャーで辛いというよりも、体力的、精神的にまいった、という感じだった。

それまでは短い時間の対局しか経験したことがない。

根気よく1日中考えるなんて経験はしてこなかった。

たとえていえば、初めてフルマラソンを走ったようなものだった。

慣れてくれば平気なのだが、やはり最初のうちはそのような疲れがずいぶんとあったように思う。


「羽生にらみ」といった対局中の所作を取り入れたされたこともあった。

勝負の世界にいるわけだから、基本的にあたたかく見守ってもらうだけということもないだろうが、

周囲の空気の変化に戸惑うこともあった。

思い返してみれば10代の頃は、ナーバスになっていた。

対局を前にして緊張することもやはり多かったが、

それ以上に神経質に考え込んでしまったことが多かった。

たとえば、この手でこられたらどうなるかとか、こんな状況になったらどうしようかとか。

どう展開するかも決められない段階で、
起きるかどうかも分からないことをいろいろ考えてしまう。

そして、もしこうこられたら対策が分らない、

この手で返されたら次はない…と、

不安でいっぱいのまま、延々と反芻してしまう。

ふっきろう、ふっきろうと頑張ってはみるものの、なかなかできなかった。

そういった不安を払拭して、完璧に万全の状態にもっていくことなど、なかなかできるものではない。

それはいまも同じだ。

しかし、完璧とか万全の状態をつくるなど至難の業だと言うことに、

当時の私は気がつかなかった。

それが分かってきてしまえば、別に必ずしもそういう状態でなくていいのだと安心して、

本来集中すべきところに帰っていけるのだが、

そこに辿り着くまでは、とにかくもがき続け、考え続けた。

その頃には、対戦する相手の棋譜を1年分ぐらいずっと調べていたこともあった。

しかし、すでに終わってしまった過去の対局の棋譜を調べたところで、必ずしも、次回同じものになるわけではない。

いたずらに心配の種を増やすだけだということに、途中で気がついてやめてしまった。

つまり、相手のことを研究してもあまり意味がないということだ。

相手のことを研究するよりも、自分の作戦や型を充実させておいたほうがいい。

自分のやり方を求めていく方が対応しやすいのではないか。

相手がこう出てくるからこうしよう、というのではなく、

自分がこうするのだということを、きっちり押さえておいたほうがいい。

そうすれば、相手に誰がやってこようとも対応できる。

だからそのほうがいいのではないかと、途中からは考えるようになったのだ。

そして、そのための方法は、自分で自分に合ったやり方を研究するしかないという結論に至ったのだ。

ただし、それは20代に入ってからのことだ。

そこに至るまでに数年はかかった。

結局、プロになってから5。6年の間は模索していたことになる。


(「直感力」羽生善治さんより)