花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

「 文豪 夏目漱石 」 特別展へ

2007-11-06 | 美術館
      【 夏目漱石肖像 1912年(大正元) 神奈川近代文学館蔵 】

東北大学創立100周年記念 朝日新聞入社100年 江戸東京博物館開館15周年記念 と非常に区切り良く『特別展』は今年を於いて他に無いと言う年の巡り合わせでもありました。
なぜ東北大学(?)・・漱石のコレクションは、太平洋戦争の最中漱石の弟子であり、当時旧東北帝国大学付属図書館 館長であった小宮豊隆の尽力で、新宿にあった漱石最期の住居「漱石山房」から移動させて奇跡的に残った蔵書3000冊を中心に、その後も拡充されていったものです。

漱石展の膨大な資料をを拝見していて「語学」「文学」「英文学」「美術」「哲学」「書画」「漢詩」「俳句」「謡い」「宗教論」・・・興味を持ちさえすれば全て我が物にされた多才振りは驚嘆です。

生い立ちとしては不幸であったかもしれません。 1867年 江戸・牛込馬場下に名主の子として生を受け、多くの兄・姉の末弟故に里子に出されました。
学校も幾つも転校したようですし、私が痛々しく思う事は病を経験して進級試験を受けられず、此処で発奮して以後主席を通したとありますが、生涯幾つもの病に冒され大吐血にも見舞われて50歳の若さで一生を終えねばならなかったことは、如何ばかり無念だったことでしょう。しかしこの一生で日本語の基礎を作り、日本語のあり方に大きく影響を与えました。

1900年英語研究のため文部省から英国への留学を命じられました。 9月8日横浜港を出て10月8日にはロンドンに着いています。其の前にマルセーユからは陸路でパリに一週間滞在し3回もパリ博に行っています。エッフェル塔のエレベーターでの驚き、日本と西洋の違い、日本の将来、孤独の悩み等を滞英日記に書き記しています。
ロンドンでは転々と下宿先を変えていました。居心地の問題でしょうか。
シェイクスピア作品の講読。 展覧会のカタログ(バーンジョーンズ・ワッツ・ホルマンハント・レイトン・Eミレー)五人の世紀末画家を取り上げています。 演劇のパンフレット。 美術月刊誌。 ナショナルギャラリーの展示カタログ(バーンジョーンズ・ロセッテイ・ワッツ・コンスタブル)の風景画集など。
夥しい本を購入。

1903年(35年)発狂の噂で急遽帰国命令が降りました。

帰国後は東京帝国大学で教鞭をとることになりました。ここで神経衰弱を病みます。
高浜虚子の進言で気分転換のため「創作」を始めました。落語の手法でユーモアを取り入れ『我輩は猫である』を執筆。高く評価され『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』『野分』と続々発表 作家として歩みはじめました。
『文学評論』を日本文と英文と交互に書きました。

          

明治40年朝日新聞社より専属作家として招聘の話が舞い込みます。
ほぼ漱石の望む条件が整えられ40歳にして新聞社と言う新しい分野に踏み込みました。小説を書く他にも同時代の文学や美術に批評を加える評論家として、紙上で大いに活躍し 明治という時代を精確に捉えた「文芸批評」を展開しました。

【漱石八態 岡本一平画 朝日新聞社初期時代】
          

早稲田南町 「漱石山房」に転居。
木曜の午後3時 面会日とした「木曜会」は、人間性と学識に惹かれた門下生が集まりました。芥川龍之介もいました。
一人一人と対話し的確な助言をして門下生の才能を開花させると共に、心の交流を深めました。
その日以外は大部分を執筆に費やし、他の時間は子供たちと散歩に出かけ大好物のアイスクリームを食べて、趣味の謡の稽古をし、漢詩や書画の制作に没頭し 様々なことに興味を持ち充実した日を過ごしました。

明治44年博士号授与→博士号辞退
『只の夏目なにがしかで暮らしたい したがって私は学位を頂きたくないのであります』