【園覚寺山門 (龍陰庵より撮影)】
古都鎌倉史跡めぐりの特別企画『禅の心』を、雲頂庵の殿谷住職の法話から「禅の心」には、人生について深く省み その不安に目覚め究極の拠り所を求めて根本的な安心を得ようとする、一つのきっかけになるようなお話が聞けるのではないか・・主催者の趣旨が解説されています。
園覚寺は鎌倉五山第二位 臨済宗園覚寺派の大本山です。今から約725年前の弘安5年(1282)鎌倉幕府第八代執権・北条時宗が、宋の禅僧・無学祖元を開山に招いて建立したお寺です。
文永・弘安(1274・1281年)の二度に亘る元との戦いで死亡した兵士たちの菩提を弔うため、敵味方の区別無く 又北条一族の安穏と繁栄を祈願して建てられました。
【塔頭(たっちゅう)】とは、境内にある小寺を指しています。「禅宗」に於いて
祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指します。
時代が進むにつれ各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のための塔頭が乱立するようになって、室町時代に入り規制 禁止へと向かいました。
最盛期には七堂伽藍の整った塔頭が50ヶ所もあったそうですが、現在は17ヶ所になっています。
今回の塔頭めぐりは 雲頂庵→ 龍陰庵→ 松嶺院 の三ヶ寺でした。
【雲頂庵】
もと関東十刹の一つ長勝寺の塔頭でしたが、永享の乱で廃寺となりその後関東管領の上杉家の家臣 長尾忠景に依って再興され江戸時代になって園覚寺の塔頭になり、時経て現在は殿谷家が2代住職をされています(世襲は初めて)。
殿谷氏の法話を拝聴いたしました。
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『現在は何でも金銭に計ってしまう。市場経済が行き着くとこうなる。信仰性・誠心性が失われて「私は無宗教」だと平気で言うようになる。
「バレなければ 見えなければ良い」しかしこの事は「神仏が見ている」と思う心が誠心性であり、そこに留意出来なくなった時代と言うべきでしょう。
寺院とは先ず仏様を祀る 金属で鋳造したもの・木を彫ったもの・紙や布で作ったもの、それらに魂を注ぎ込んだものの心は容易には見えない・言葉では語りつくせないが、心の展開図として何かを求めて今日 皆さんは此処に来たのではないかと推測しました。
今は社会的に祈りが失われている。働くと祈りは同じ重みがあります。
私達は自分以外の命を自分の命に代えて生きている。不殺生は不可能なので、何も捨てず全てを生かして食べて感謝の言葉を忘れないでいたい。
神仏に何か願う時 その分だけ他人にして差し上げる事を忘れてはならない。希望を叶える近道は、その前に人にしてあげる事で巡り巡って自分に帰ってくる。
真摯に根気良く祈り続ける事で何処かで気付く事が有る。その気付きの積み重ねが自信になるのです。宿命でも運命でもなく逃れようの無い定めなのです。』
60分の法話を私なりに要約しました。
私は信仰心の厚い母に言われていた事を思い出していました。「悪の囁き」を耳にしたとき「誰が見ていなくても神仏はお見通し」は今も生きているかな・・と思って見ました。
【龍陰庵】
園覚寺境内を見渡せる高台にあり、奥にヤグラが数穴残っています。
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【松嶺院】
本堂は白木の香る広く新しい佇まいでした。
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現住職により手入れされた花園が、本堂に沿って作られています。
美しいクレマチスを撮りました。
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墓地には、有名人の墓所が多くあり代表的なところでは 開高健、中山義秀、田中絹代、佐田啓二、清水昆、坂本弁護士一家が葬られています。
又有島武郎が「或る女」の後編を書くために大正8年3~4月に掛けて当院2階に部屋を借りて執筆したと言われています。
古都鎌倉史跡めぐりの特別企画『禅の心』を、雲頂庵の殿谷住職の法話から「禅の心」には、人生について深く省み その不安に目覚め究極の拠り所を求めて根本的な安心を得ようとする、一つのきっかけになるようなお話が聞けるのではないか・・主催者の趣旨が解説されています。
園覚寺は鎌倉五山第二位 臨済宗園覚寺派の大本山です。今から約725年前の弘安5年(1282)鎌倉幕府第八代執権・北条時宗が、宋の禅僧・無学祖元を開山に招いて建立したお寺です。
文永・弘安(1274・1281年)の二度に亘る元との戦いで死亡した兵士たちの菩提を弔うため、敵味方の区別無く 又北条一族の安穏と繁栄を祈願して建てられました。
【塔頭(たっちゅう)】とは、境内にある小寺を指しています。「禅宗」に於いて
祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指します。
時代が進むにつれ各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のための塔頭が乱立するようになって、室町時代に入り規制 禁止へと向かいました。
最盛期には七堂伽藍の整った塔頭が50ヶ所もあったそうですが、現在は17ヶ所になっています。
今回の塔頭めぐりは 雲頂庵→ 龍陰庵→ 松嶺院 の三ヶ寺でした。
【雲頂庵】
もと関東十刹の一つ長勝寺の塔頭でしたが、永享の乱で廃寺となりその後関東管領の上杉家の家臣 長尾忠景に依って再興され江戸時代になって園覚寺の塔頭になり、時経て現在は殿谷家が2代住職をされています(世襲は初めて)。
殿谷氏の法話を拝聴いたしました。
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『現在は何でも金銭に計ってしまう。市場経済が行き着くとこうなる。信仰性・誠心性が失われて「私は無宗教」だと平気で言うようになる。
「バレなければ 見えなければ良い」しかしこの事は「神仏が見ている」と思う心が誠心性であり、そこに留意出来なくなった時代と言うべきでしょう。
寺院とは先ず仏様を祀る 金属で鋳造したもの・木を彫ったもの・紙や布で作ったもの、それらに魂を注ぎ込んだものの心は容易には見えない・言葉では語りつくせないが、心の展開図として何かを求めて今日 皆さんは此処に来たのではないかと推測しました。
今は社会的に祈りが失われている。働くと祈りは同じ重みがあります。
私達は自分以外の命を自分の命に代えて生きている。不殺生は不可能なので、何も捨てず全てを生かして食べて感謝の言葉を忘れないでいたい。
神仏に何か願う時 その分だけ他人にして差し上げる事を忘れてはならない。希望を叶える近道は、その前に人にしてあげる事で巡り巡って自分に帰ってくる。
真摯に根気良く祈り続ける事で何処かで気付く事が有る。その気付きの積み重ねが自信になるのです。宿命でも運命でもなく逃れようの無い定めなのです。』
60分の法話を私なりに要約しました。
私は信仰心の厚い母に言われていた事を思い出していました。「悪の囁き」を耳にしたとき「誰が見ていなくても神仏はお見通し」は今も生きているかな・・と思って見ました。
【龍陰庵】
園覚寺境内を見渡せる高台にあり、奥にヤグラが数穴残っています。
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【松嶺院】
本堂は白木の香る広く新しい佇まいでした。
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現住職により手入れされた花園が、本堂に沿って作られています。
美しいクレマチスを撮りました。
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墓地には、有名人の墓所が多くあり代表的なところでは 開高健、中山義秀、田中絹代、佐田啓二、清水昆、坂本弁護士一家が葬られています。
又有島武郎が「或る女」の後編を書くために大正8年3~4月に掛けて当院2階に部屋を借りて執筆したと言われています。