10月15日は、母校東京慈恵会医科大学の創設者、高木兼寛先生の記念日でした。夏の旅行のときのガイドさんが、吉村昭氏の”ニコライ遭難”を勧めてくれたのをきっかけに、同氏の”三陸海岸大津波”を読み、そして最近高木兼寛先生を描いた“白い航跡”を再読したばかりだったのですが、忘れていました。
“白い航跡”は、母校の出身者ならずとも、幕末から明治にかけて、日本の医者が新しい西洋の医学に接して、どう思いどう行動したか、動乱の時代の中で医者とは医療とは、何であったか、とても興味深い作品です。
吉村昭氏は、多くの歴史小説を書いていますが、主役として取り上げられるのがけして歴史の中心にいた人物ではなく、また外連味なく淡々と事実を積み重ねていくような書き方なので、地味なのですが、良い作品がたくさんあります。
高木兼寛先生、薩摩藩領内(現在の宮崎県)に生まれ、医学を学んで戊辰戦争に医師として従軍し、後に海軍に入って、海軍軍医総監になりました。先生を最も有名にしたのは、海軍に多かった脚気が食事の問題によって起こることを証明し、食事に麦を加えることで海軍から脚気をほぼ根絶したことです。これをきっかけとして、それまで知られていなかった、ビタミンが発見されたのです。
日露戦争の戦死者47,000人に対し、脚気による死亡者は27,800人。この膨大な脚気による死亡者のほとんどが、麦を混ぜることを拒んで白米を主食としていた陸軍で発生し、麦を混ぜた米を主食にしていた海軍では、ほとんど見られませんでした。
また、困窮者に無料で医療を行う東京慈恵医院、医療と医師の教育も行う東京病院、日本初の看護学校を開設。母校の慈恵会医科大学はこれらの施設を母胎としています。
”病気を診ずして病人を診よ”という言葉は、高木先生の言葉として伝えられ、現在も母校の建学の精神とされています。