おはようございます。
大変長らくご無沙汰いたしております。
両親の残した我が家で静かな朝を迎えています。
一人で過ごした京都4泊観光、70歳のババ―9人で過ごした3泊観光、いずれも楽しい旅行でしたが、50年来の級友と過ごした旅行は何事にも比べようもないものでした。
願うはこの旧友との楽しい時間が不変に続いてほしいだけです。
と言っても無理なことでしょうからあと5年、いや10年ぐらいはこうやって毎年2回(道外と1泊道内旅行)旅行をしたいものです。
だからみんな元気でぼけないように頑張ろう!
しかしながら帰ってくるたびに、私が覚えている故郷との著しい変わり方がショックです。
1900年代初期に移住してきた曾祖父と祖父。
祖父からはクマと戦って荒れ地を開墾していった話を時々聞いていました。
私が記憶にあるのはカエルやらアメンボウがたくさんいた田んぼ、畑でとれたスイカやハタンキョを近くの小川で冷やして食べたこと、絶対に昼寝をさせられたこと、近所の子供たちとかくれんぼうをやったり、今思えばまるでトトロの世界でした。
70歳となった私、60年余りでこんなにも時代が変わろうとは。
子汚い貧しい中で育った私が60年後には、こうやって50年近くアメリカでまともな生活を送り、アメリカ-日本を自由に行き来できるようになるとは思ってもいませんでした。
❝今が一番良い生活❞を毎日送っている私としては、子供時代に戻りたいとは指の先ほども思っていませんが懐かしさ、そして寂しさは募っているばかり。
人間の一生って何なんでしょうか?
東本願寺でお坊さんのお話を聞きました。
故郷についてでしたが、その方曰く❝ふるさととは周りの環境(土地とか)もあるが一番は母の存在である❞とのこと。
今は誰も住まなくなったこの家に戻ってきて、時々おっか―(母のこと)がいる感覚に見舞われることがある。
若い時は内職とボランティアーに心身をつぎ込み、きつい性格の持ち主だった母は年を取るにつれ穏やかになり、私がしてあげることに感謝の言葉を常に発していた。
そんな母が心配していたことは❝誰が自分の葬儀をあげてくれるのだろうか❞、と言うことだった。
最後の1か月ほどはホスピスで過ごした母、私は最後の3週間ほど一緒に過ごすことができたけど、私が帰ってきたときは寿司折り一つを食べるぐらい元気だった。
お見舞いに来た友達の前でどういうわけか❝オーソレミオ❞を大きな声で歌って、医者も驚いていた。
でも最後はやってきた。
私とレイちゃんは最後の時間、病院にはいたけど私は別室でちょっと横になっていた。
看護婦さんが❝お亡くなりになりました❞と声をかけてきた。
と言うことで母の最期はレイちゃん(母の一番のお友達)が見届けてくれた。
ごめん、おっか―、ちょっと横になってた。
母は❝いいよ❞と言ってくれた、と思う。
そして母の心配事だった葬儀を母の家、そして母が生まれ育った土地であげることができた。
家族葬ながら3,40人の方が来てくれました。
真っ赤な口紅をし、私の真っ赤なサンゴのネックレスをした母、よさこいの半纏を羽織って棺に横たわりました。
最悪の亭主でしたが子供はぐれもせず育ったことが何よりの宝だったでしょう。
❝あんたの人生、良かったんでない❞。
これからは私が子供たちの故郷にならなきゃいけないでしょう。
ハブグレジュンタのマミー
息子がヴィデオ電話で孫の様子を見せてくれますが、今日は孫から率先して❝I Love You❞と言ってくれました。
でもそのあとは❝テリブル2(手の付けられない2歳児)に早変わり。