退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

862:やさしい風が吹いたら、昔を思い出した。Part 2

2017-05-30 23:16:03 | アメリカ便り
昨日は12時から4時半ごろまで、友達2人がやってきて1ヶ月ぶりの女子会、6時からはアリッサの家でメモリアルデイのパーティー。
今日は昔の仕事仲間、べヴ、ロビン、ジュディーと久しぶりのハッピーアワー。
4時からいつもの2ドリンクとアッペタイザー2皿を4人で分け合い、6時半に終了。
家に帰って残りもので晩御飯。
ハッピーアワーも私の日本行きが年に3回に増え、ジュディーのお母さんの肺がんが見つかり妹と交代で世話をしているため、頻度が劇的に減りました。
でも相変わらず、一緒になると淀みのない会話に花が咲きます。
今回も政治がメインコースでした。
みんなトランプは弾劾されて4年は続かないという意見では一緒でした。
誰が考えても当たり前でしょうね。

さて昨日の続き。

小さい孫たちが二人で来たのに、歓迎ムードには程遠い感じでいつも向かいいれられていました。
というのもきっとアル中の親父のせいだったと思います。
祖父母にもいろいろ親父が迷惑をかけていたから。

祖父母は曾祖父に時代から農家をやっていました。
主に米を作っていました。
水田には蛙、アメンボ、ゲンゴロウ、トンボ等々いろいろな生き物が住んでいたのを覚えています。
他に、ぶどう、イチゴ、とうきび、梅、スイカ、ハタンキョ、グズベリー、桑のみ、瓜などなどいろいろ作っていました。
特に近くの川で冷やしたスイカを祖母と一緒にカマで切って、畑で食べたのを良く覚えています。
まるっきり“トトロ”の世界でした。

そして、ここでは昼食後みんなそろって昼寝をするのでした。
当たり前でしょうね、農家だからみんな日の出とともにおきるのだから。
私はこの昼寝が大嫌いでしたが、寝ないと祖父母に怒られる。
“寝たくないのに、、、”と思って横になって風に当たっているうちにいつの間にか1時間ぐらいの昼寝の時間が終わってしまいました。
そうです、先日ジュンちゃんとゴロッとしていた時に吹いてきた風が、この昼寝をしていた時に感じた風と似ていたのです。
変な話ですが。
風は風なのですが。

電話の本体についたハンドルを5回ぐらい回して使っていた有線電話、入るときに浮いている木の板を踏みながら入っていた五右衛門風呂、ポンプ式水道、外にあった汲み取り便所とトイレットペーパー代わりの新聞、馬小屋、藁、いじの悪い馬、鶏小屋いっぱいの鶏。
思い出がいっぱい詰まった祖父母の家。
風とともによみがえってきました。

余談:アリッサが今日、“韓国人の先生が差別を受けるっていってたけど、あなたもうけたことある?”と私に聞いてきました。
 私は“ないな~。でもその人しょうがないよ、韓国人だもん”と言ってあげました:)。

ハブグレジュンタのマミー


#861:やさしい風が吹いたら、昔を思い出した。

2017-05-28 22:53:43 | アメリカ便り
今日はグーだらグーだらと仕事半分、ジュンちゃんとごろごろ半分をやっていました。
そして嫌がるジュンちゃんの横にごろっと横になったとき、“ふわー”ってな感じで窓から風が吹いてきたのです。
なんとも心地のよい風、寒すぎもなく暑すぎもなく。
本当に5月下旬の中西部セントルイスには珍しいさわやかな風でした。

どういうわけだか、この風とともに小さいとき夏休みが始まるたびに母から送り出されていた祖父母の家に行ったときのことを思い出しました。

小学校2年から私たちは父親の転勤とともに札幌から室蘭に移り住みました。
夏休みが始まると、アル中親父の影響を最小限にとどめるためかどうか知りませんが、母は私と兄を札幌の祖父母の元へ送り出すのが常でした。
室蘭から札幌行きのバスのなか、乗り物に酔いやすかった私は80%の確立で吐きました。
それを3歳上の兄は新聞紙できれいにしてくれたものです。

そしてバスを降りて、当時走っていた定鉄電車に乗り、祖父母の家に向かったのです。
途中、石切山という採石場を見ながら、大きく開いた空洞を見ながら、兄にしつこいぐらいに毎回毎回、“あれはでかい蛇のすむ穴じゃないの”と聞いていたのを覚えています。
何歳まで聞いていたか忘れましたが、そんな直径5メートルぐらいの石の洞窟に住むでかい蛇なんかいないということが常識的にわかるまで聞いていたと思います。
まあ、クリスマスのサンタさんみたいな感じです。

そして、電車を降り、川にかかった線路の上を歩きながら(危ないことをしていたもんだ)祖父母の家に着くのでした。
そしてそこでは、“また来たか”と、歓迎というよりはあきらめの目で見られたのです。

この祖父母は私から見れば曾おじいさんのときに、青森から開拓者で札幌に入った人たちです。
なんというか、性格がきつい、よく言えば開拓者精神丸出しの人たちでした。

この続きは次回にします。
グーダラし過ぎて、眠くなりました。
明日は我が家で、かえ子ちゃん妙子ちゃんを迎えて、4月以来の女子会(おばば会)。
夜はアリッサの家でメモリアルデイのパーティーです。

ハブグレジュンタのマミー

#860: ヒックタウンと差別

2017-05-27 21:08:21 | アメリカ便り
昨晩は我が家から車で30分ぐらいの小さな小さな町で、サムの属するバンドの演奏を聴きに行ってきました。
アメリカの小さな町につき物の白人優勢、トランプサポーター、黒人が住めない、デブが多いという条件をすべて満たしている町です。
このような町をアメリカ英語では“ヒックタウン”と言い、そこに住んでいる白人たちを“ヒックス”と言います。
ヒックスは“レッドネック”ともいうことができます。

こんな英語は学校では教えてくれないでしょうね。

サムの奥さん、かえ子ちゃんは一人では行きたくないというので私と主人が付き合いました。
この町でのバンド演奏にはもう何回か行ったことがありますが、いつも気づくことはデブの白人(子供までがデブが多い)ばかりということです。
とにかく私とかえ子ちゃん以外は全員白人。
わが町から30分ぐらい車を走らせただけで、すごい違いです。

かえ子ちゃんが言っていたけど、この町から10分ぐらい離れた少し大きい町のスーパーにいつも来るけど、キャシアーで差別にあうそうです。
世界で一番優れた日本人という人種を差別するなんて、なんと思っているんだ、と態度がでかいといわれる私なら思いますが
腹が立ちます、白人の分際で日本人を差別するなんて。
なんて思う日本人も白人もいないでしょうが、私は違うのです。
と言うのも白人の中身を良く知っているので。

私はとにかく人種的に日本人が一番優れていると思います。
おかしい日本人もたくさんいるし、優れた白人もたくさんいますが。
私はごく一般的に遭遇した40年の経験を基に言ってます。

私は40年住んでいますが、差別にあったためしがありません。
と言うか相手は差別しているのかもしれませんが、鈍感な私がそれを差別と思わず、ただ“頭が悪くてかわいそうな人だな~”と思うだけなのです。
40年前に初めてアメリカに来て買い物をしたとき、レジの姉ちゃんがおつりを渡してくれましたが、“え、この人たち頭で引き算できないの?”と思いました。
日本人だったら誰もが、たとえば1ドルで45セントの買い物をすると頭の中で、“55セント”と計算しておつりを渡してくれそうですが、こちらでは45セントに5セントコインとか、10セントコインとか25セントコインを一つ一つたしながら1ドルにしてお釣りをくれるのです。
よけい、わからなくなりますが。
その時ですよ、初めて、“アメリカ人ってなんて頭が悪いのだ”と思ったのは。
もうこんなことはなく、キャッシングマシーンがちゃんとおつりを計算してくれますが。

まあ、とにかくまだ差別が残っている小さな町へ行ってきました。

モナークバタフライの幼虫





山の様に見えるのは雲です



いつもの害リス



おなじみの鳥たち






ハブグレジュンタのマミー















#859: またテロがおきました。私なりに考えてみると。

2017-05-25 23:10:40 | アメリカ便り
難民をたくさん受け入れている国々でテロが起きています。
今回のマンチェスターアタックでは22人が亡くなりました。
2015年11月に130人がなくなったパリアタックを思い出しました。

楽しいはずのコンサートにいった筈なのに。

どうして難民(移民)として受け入れてくれた親切な国に対して、このような非人情なことができるのだと、一宿一飯の恩義をも大事に感じる日本人の私は思いますが。

難民(移民)の第一の問題点は、“郷に入っては郷に従え”をしないところにあります。

いつまでも、自国の人達同士で固まり、集落を作り自国での生活をそのまま新しい国でやっている。
アメリカで、日本人が固まって集落を作ってすんでいるところなんてないと思います。
せいぜいあっても小さな小さな日本人町があり、そこに日本食堂が4,5軒、日本スーパー、本屋さんがあるくらい。
しかしながら、そんなところにでさい、昨今は中国人やら韓国人にのっとられてきていますが。

セントルイスにはベトナム集落、ボズニア集落、黒人集落などがあります。
シリア、アフリカからの難民はそれほど多くはないでしょう。
弱者は固まるといいますが、とにかく固まるんですよ。

昔、娘が住んでいたミネアポリスはアフリカ、特にソマリアからの難民(移民)が多くいました。
町で、例の長ったらしい服と覆面をした女の人をよく見かけます。
この服装は本当に危ないです。
らくだ相手の生活(ちょっとばかにしすぎていますが)だったらいいけど、車生活の中であの格好をされたら、事故多発間違いなし。
だから、ミネアポリスに行くたびに必ず、ソマリア人が交通事故にあっているのを見かけます。
集落を作り、孤立化しいろいろ問題を起こしていますが、最近の問題は子供のワクチンを打たせないため、おたふくかぜやら、水疱瘡といったワクチンで防げる病気が、今年ミネアポリスで多く発生しているそうです。

ただでも仕事が見つけにくいイギリス、孤立化によりよけい仕事も見つからず、結局は華やかな西洋諸国に住んでいても貧しい生活を余儀なくされる。
闘争で生き延びてきた国民は、そんな生活を強いる国がにくくなり、イスラム国やら極端な思想に走っていく。
まるっきりの悪循環です。

難民達は難民同士でテロを防ぐことを考えてほしい。
なんてったって、仲間なんだから。

難民達は本腰で、受入国に順応し“国が何かしてくれる”ではなく、“何かしなくては”という考えを持ってほしい。
じゃあないといつまでも孤立したままです。
ケネディーが言いましたよね、”アメリカが何かをしてくれることを要求しないで、、君達が国のために何ができるかを考えなさい”と。

これは反日在日にもいえますね。

とにかく、固まるな!!!
すべてはそこから始まる、なんて簡単ではないかしら。



ハブグレジュンタのマミー






#858: サービス:いろいろのサービス(のない)業者

2017-05-23 22:31:57 | アメリカ便り
今日はいろいろなサービス業者のお話です。

私がこのぼろやに32年も住んでいるのはお金がないばかりではなく、いろいろな業者と接するのがめんどくさいからです。
それから家は雨風寒さを防いでくればよいという考えもあります。

もう何億回もアメリカにはサービスがないと言ってますが、誰が客だか業者だかわからない業者の態度、実に腹が立ちます。
その例を並べていきます。
1.家具やら、電気製品を買い家に届けてもらうように頼むと、“午前中(8時から12時)か午後(12時から5時)どっち?”となる。日本みたいに2時間単位で配達なんてことは絶対にない。さらにはこの“午前と午後”でもその時間内にくることは絶対といってよいほどない。
2.電話や電気製品等の修理を頼むと1日単位となる。“月曜日か火曜日”というように。そうなると一日中修理屋がやってくるまで家で待っていなければならない。そして5時ごろ電話が来て、“今日はいけません”と来る。退職した今はまだいいけど、仕事をしていたときは本当に腹が立ちましたね。
3.新しく家を建てようなんて思ったら、家の大きさにもよるけど、半年から1年くらいはかかる。“あっちが終わらないから、こっちがはじめられない”とか言って。ちゃんとコーディネーションしろ。商売だろうが。“何年やってんだ”です。本当に図体ばかりでかくて頭が悪いのが多い。日本の大工さんやら土建屋さん、すそ幅の広いパンツを足元できちっと締め、地下足袋はいて、身軽に子気味よく機敏に動き回る、見ていて気持ちがよいものです。これだもの日本では家が建つのは早い。
4.デパートに行くと、日本では売り子さんが客に対して気配りをしているのがわかります。“このお客さん、お手伝いが必要かしら”なんていう風に。だから、こちらのデパートのように売り子を探し回らなければならないなんてことはほとんどないです。

これはほんの一例です。
そしてすべてに共通しているのは、アメリカでのお客の定義というものが日本のそれとは違うということです。
お客がありがとうといい、時間に遅れてやってくる業者が誤ることはめったにない。
“しょうがないだろう、遅れたって。仕事しているんだから”。てな感じ。
遅れるのが当たり前となっている。

日本のサービス業、お客をお客として扱ってくれる。
当たり前の話だけど、アメリカでは当たり前ではないのです。

これ以上書いていると、夜寝れなくなるのでやめて起きます。

ハブグレジュンタのマミー