《内容》
フィルム需要が激減し、日本写真フイルムに未曾有の危機が訪れようとしていた。窓際族の中高年が創ろうとしたのはなんと化粧品! 社内外の白眼視をよそに、彼らは必死の挑戦を繰り返すが…。『日刊ゲンダイ』連載を加筆訂正。 (紹介文より)
《内容》
永田町の地下鉄駅の階段を上がると、そこは三十年前の風景。ワンマンな父に反発し自殺した兄が現れた。さらに満州に出征する父を目撃し、また戦後闇市で精力的に商いに励む父に出会う。だが封印された“過去”に行ったため…。思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド。吉川英治文学新人賞に輝く名作。 (紹介文より)
藤村記念館
甲府市藤村記念館は、明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧陸沢村)に陸沢学校として建てられた学校の校舎です。
昭和32年(1957)まで学校の校舎、昭和36年まで陸沢公民館として利用され、老朽化により取り壊し寸前のところ、藤村様式旧陸沢学校校舎保存委員会の手で昭和41年武田氏館跡の武田神社境内に移築復元し、同委員会から「藤村記念館」と命名され甲府市に寄贈されました。
移築の翌年には国の重要文化財の指定を受け、昭和44年から郷土の民族・歴史・教育・考古資料を展示する資料館として開館し、平成2年(1990)からは教育資料を中心に展示替えを行って、市民・県民に親しまれてきました。
平成20年、甲府駅周辺区画整理の拠点形成事業に伴って、建物の解体に着手し、平成22年7月末に甲府駅北口広場で進められていた移築復元修理工事が完了し、市民や観光客の交流ガイダンス施設として新たに開館しました。 (パンフレットより)
【藤村 紫朗】 弘化2年(1845)~明治41(1908)
肥後熊本藩士黒瀬家の二男で、同藩士・萱野(かやの)家の養子となる。尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動に加わり勤皇志士とともに国事に奔走、脱藩して徴収に走り、王政復古の運動に参画した。
明治維新に際して藤村姓を称し、大阪府参事を経て、明治6年(1873)山梨県権令から翌7年山梨県令となった。明治19年地方官制により山梨県知事、翌20年の愛媛県知事に転ずるまで14年間の長期にわたり山梨県政を担当した。
藤村県令は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業として養蚕技術の普及や県営勧業製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実地したほか、甲府市街の整備に着手し「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を特に推奨した功績は大きい。 (パンフレットより)
県産木材アート(間伐材)を使用した巨大アート《緑の龍神》
《内容》
永禄3年、京で3人の男が出会った。食い詰めた兵法者・新九郎、謎の坊主・愚息、浪人中の明智光秀。この小さな出逢いが、その後の歴史の大きな流れを作ってゆく。光秀の実像に迫る歴史小説。 (紹介文より)
【旧塩原御用邸】
塩原温泉は雄大な自然と湯量豊富な良質の温泉とに恵まれた温泉郷で、古来より多くの人々に愛されてまいりました。その塩原にはかつて皇族の別荘として「塩原御用邸」がおかれていました。皇族と塩原のかかわりは古く、その始まりは明治三十五年にさかのぼることができます。時の皇太子殿下のちの大正天皇には、塩原温泉に避暑のため行啓(ぎょうけい)になられ、翌三十六年にも前年に引き続き行啓になられました。皇太子殿下には、塩原滞在中その自然、気候、温泉等を大変お好みになられ、そのため福渡の地に別荘を所有していた那須野が原開拓の祖・栃木県令三島通庸(みちつね)の嫡男・三島弥太郎が、その別荘地献上を宮内省に願い出、明治三十七年に「塩原御用邸」が構えられました。
皇太子殿下には天皇となられてからも塩原の地を愛され、また貞明皇后をはじめ御幼少の昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、ご結婚前の香淳皇后をはじめ、多くの皇族方に塩原御用邸はご利用されてまいりました。
特に澄宮としょうされた三笠宮崇仁親王殿下には、六歳の夏より十年間にわたり毎年夏の御利用があり、そのため塩原御用邸は「澄宮御殿」とも称されていました。戦前から戦時中には御幼少の今上陛下、常陸宮殿下がご利用になられ、戦局が悪化すると昭和天皇の皇女であられた孝宮、順宮、清宮の三内親王殿下が終戦の後までの一年余りを疎開先として御利用なられました。
戦後、御用邸は香淳皇后より「視力障害者の保護のため使用するよう」との思し召しをたまわり厚生省へ移管され、昭和二十二年には全国御巡幸中の昭和天皇、香淳皇后の行幸啓をたまわりました。昭和二十三年には国立塩原光明寮が開設され、同三十九年には、国立塩原視力障害センターと改名し、視力障害者の方たちの社会復帰施設となりました。
旧塩原御用邸の御座所は塩原の人たちから敬愛を込めて「天皇の間」と呼ばれ、昭和五十六年この地に移築公開され、「天皇の間記念公園」としてかつての皇室の別荘地としての往時を今に偲ばせています。
【建物の概要】
塩原御用邸の中心部に位置した「御座所」は、木造平屋建て間口八間奥行七間、面積は二百五十一・六平方メートル、屋根は銅版平葺きです。建物の構造は田の字型の平面で、周囲を入側で囲みその外側に板縁を東南西の三方にめぐらせています。内部は長畳敷き、壁は皇室独自の美濃和紙を使った袋張、照明器具は洋風のものが使われ、御寝所の四方の柱には蚊帳を掛けるための釣り金具がつけられています。御厠は漆塗りの畳敷きで、健康状態のチェックのため外部に向かって引き出し式の車がついています。敷居には樫木が埋め込まれ、窓の木製レールには水抜きがされて、大変精密な施工がなされています。昭和五十六年には、栃木県有形文化財の指定を受けています。 (パンフレットより)
建物を見学するより、こちらが気になって・・・・。
前山八方ヶ原散歩道
《内容》
江戸の大名屋敷に暮らす田鶴藩の後嗣に、闇から男が襲いかかった。同じころ、伊月は、藩邸の不穏な動きを探らせていた石崎文吾の無残な死体を前にしていた…。少年たちが躍動するシリーズ第3弾。 (紹介文より)
《内容》
通り魔によって幼い娘を植物状態にされた夏目は、刑事の道を選んだ。彼は、社会のひずみで苦しむ人間たちを温かく、時に厳しく見つめながら真実を探り出す。表題作ほか全7編を収録したミステリ。 (紹介文より)