細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

甲斐善光寺  

2014-07-04 11:48:48 | 散歩・旅  山梨県

甲斐善光寺

当山は、開基武田信玄公が、川中島合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ永禄元年(1558年)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長3年(1598年)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。(パンフレットより)

 

東日本最大級の木造建築の本堂 重要文化財

武田信玄公建立の七堂伽藍は、宝暦4年(1754年)門前の失火により焼失してしまいました。現在の金堂・山門は、寛政8年(1796年)に再建されました。金堂は、善光寺建築に特有の撞木造りとよばれる形式で建てられています。総高27メートル、総奥行49メートル。文化財指定木造建築物として、日本でも十指に入る巨大なもので、重層建築の山門とともに重要文化財に指定されております。金堂下には、「心」の字をかたどる、珍しいお戒壇廻りもあり、鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結んでいただけます。

御縁を結んでいただきました

《日本一の鳴き龍》

金堂中陣天井には、巨大な龍が二頭描かれています。廊下の部分のみ、吊り天井となっており、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こります。


根津記念館から昇仙峡  

2014-07-03 13:06:33 | 散歩・旅  山梨県

 

「鉄道王」の異名を持つ根津嘉一郎と根津記念館

万延元年(1860年)6月15日甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)の農家に生まれる。東山梨郡役所の書記、後に村会議員、村長を歴任。明治30年代には東京へ進出。東京では若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建を行う。資本関係を持った鉄道会社は24社に及び、多くの会社において社長などに就任した。「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、大正11年(1922年)には旧制武蔵高等学校を創立する。特に山梨県下の全小学校へ200台にものぼるピアノ(後に根津ピアノと呼ばれる)やミシンを寄贈するなど、山梨県の教育文化振興に寄与した。山梨県名誉市民。根津記念館は根津家一族の【迎賓館】【地主経営の場】【居住】3つの空間として利用された大邸宅で、旧主屋や、三階建土蔵、長屋門は国の登録有形文化財指定。   (パンフレットより)

【長屋門】

青梅街道に面し、正面16間・側面3間あり、根津記念館の屋敷構えを構成する最大の付属屋で、昭和初期の社会情勢を反映した壮大な長屋門。

【旧主屋】

昭和8年に竣工。大地主根津家の地主経営の場を持つ近代和風建築。コンクリート布基礎、ボイラー設備、屋内消火栓の導入、電気配線の埋込など、当時の先端的な技術が盛り込まれている。

【土蔵】

木造三階建で高さ10.365m。三階建の土蔵は本地域でも珍しい。土蔵内では根津家に関する資料を展示する。

【大磯の松】

昭和8年に大磯(現神奈川県大磯町)にあった嘉一郎の別荘から移植された黒松。

【青山荘】

当時の図面をもとに復元された建物。根津翁の郷土山梨での迎賓館の機能を有していた。茶室『燕子花』や和室は利用ができる。

【展示棟『八蔵』】

『旧第八倉庫』の外観と内装を再現した展示棟。常設展示・企画展示室があり、「根津嘉一郎を想い、学び、そして次代に継承する」をテーマに根津嘉一郎の生涯をパネルで紹介している。

   

  

 鏑矢・・・上棟式の際に邪を祓う縁起物として使用された。絵は棟梁が描いたもので、裏には「昭和8年2月11日」「建築主 根津啓吉」と記されている。

  

 昇仙峡   

昭和28年に国の特別名勝に指定されている。天気があやしくなってきたので・・急いで移動

   

羅漢寺縁起

 当時は、開基八百余年を経ており、かつて羅漢寺山の中腹にあり花崗岩による雄大な渓谷美の中、北山筋の高野山と称され、往時の数多くの末寺を持つ真言宗の名刹でした。
 羅漢峰と呼ばれる峰々は頂上に天狗与三郎権現を祀り原始的山岳信仰と仏教の密教的要素がまじりあった修験道の世界として有名になっていったと思われる。
 羅漢寺山を三岳と号し、一の丘に阿弥陀、二の丘に釈迦、三の丘に薬師を祀る小堂を建て、山全体が修業の場であったと伝えられている。
 昇仙峡という神秘的な立地にある羅漢寺は、その拠点となる修験道場であり、いくつかの銅の後は現在も残っていたが慶安四年(1651)の火災で焼失し、現在の地に移ったと言われている。旧寺院跡は現在の地より北西1キロほど山間に進んだ急峻な谷間に位置し、本堂も庫裏も立派な建物であったことが跡からも推測できます。
 人里隔てた深山幽僻は、中国の仙嶺天台山に似ていることから天台山羅漢寺を三号として現在に至った。
 開創はつまびらかではないが、古い位牌(1200年頃)に「権大納言征夷大将軍清和源頼朝入道神儀」とあり、開基としています。
 「甲斐国社記・寺記」によれば、創建年代は不明ですが、開祖は天台座主(てんだいざす)・有金僧都(そうず)、大永年中(1520年頃)に俊屋桂彦和尚が中興開山として曹洞宗に改めたとしています。
 当時は山中で田園が無い事から、武田信玄より托鉢することを許されて印鑑の頭陀枡(ずだます)を与えられ、人々も羅漢頭陀と称して施すものが多くあり、特別の檀徒を持たず多くの人の信仰と土地の住民に支えられてきた。
 現在は、羅漢寺檀家による手厚い信仰により、羅漢寺及び五百羅漢像の保存がなされている。
 当寺に安置されている五百羅漢は日本最古の木造の羅漢像で全て一本造りで、当初は彩色が施されており、弘法大師(775~835)の作と伝えられています。
 羅漢寺の隆盛時には、三ケ所に安置されていましたが、火災や台風の出水、老朽により、現在は百五十四体が羅漢堂に奉安されている。


恵林寺  

2014-07-02 16:26:53 | 散歩・旅  山梨県

◆乾徳山 恵林寺

 恵林寺は1330年、夢窓国師によって開かれ、戦国武将・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派の古刹である。 

 夢窓国師は伊勢の生まれで、甲斐へ移り住み九歳で出家。当時のの領主、二階堂道蘊(どううん)に請われ邸宅を禅院に改めたのが恵林寺の始まり、国師五十五歳の頃であった。           (パンフレットより)

◆四脚門<国重要文化財>

 黒門を入り参道を上がると四脚門(赤門)が現れる。この赤門は織田信長により全山焼かれた後、徳川家康によって再建された当時のもので、1606年の棟札が掲げられ国の重要文化財に指定されている。

 丹塗りの門であるところから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、檜皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽(ちまき)形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行(けたゆき)に通した頭貫(あたまぬき)で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。
 このように極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現している。

◆恵林寺庭園<国指定名勝>

 本堂の裏側には夢窓国師築庭の池泉回遊式庭園が広がっている。上段に枯山水、下段には心字池を配した雄大な規模を誇る名園であり、昭和十七年に国指定の名勝となる。国師はこの恵林寺庭園作庭の後に、西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭も手掛けることになる。寂寞な中にも流れを許すその姿は、この現代においても、安らかなる禅の風向そのままとして現れている。

  

◆三門<県文化財>

「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしも さんすいを もちいず しんとうめっきゃくすれば ひも おのずからすずし)」という快川(かいせん)和尚の遺偈(ゆいげ)がかけられている門が、県の文化財に指定される三門である。

 武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺に押し寄せ、潜伏保護されていた者達を引き渡すよう快川和尚に命じたが拒否され、怒った信長が三門に快川和尚はじめ約百人の僧侶らを封じ込め火を放った。天正十年(1582年)快川和尚、壮絶な火定(かじょう)を遂げた際の一句である。

 構造は、一間一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たり三解脱すなわち空門・無相門・無願門の意による三解脱門の略。
 四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的にあふれる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。

◆武田信玄の墓

 明王殿の裏に信玄の墓がある。1521年生まれ。16歳の時、晴信と名乗り39歳で出家し信玄(僧名)と号す。1573年4月12日、53歳にて病死、後に快川和尚の導師により恵林寺で葬儀が行われており、現在でも、恵林寺では4月12日に信玄忌として毎年供養が行われている。信玄の墓の後ろには武田家臣の供養塔が約七十基並んでいる。

柳沢吉保夫妻の墓

江戸時代中期、徳川五代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府十五万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(1724)三月、吉保嫡男甲斐守吉里の時、奈良の大和郡山十五万石に転出が決まり、このため同年四月十二日恵林寺へ改葬されたものである。
 柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献資料の中にもそれをうかがい知れる資料が現存している。このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。(案内板より)

   

   

   

 

 

うぐいす廊下

侵入者を察知するために作られた廊下。二条城にもありました。恵林寺の廊下はきれいですねぇ。 

 

 


昔の地図を貰ったよ。

2014-07-01 12:54:36 | Weblog

商協の〇〇さんに いただいた ふるーい 大売出しの地図

12月10日が土曜日なのは 1955年、1960年、1966年、1970年、1983年・・・・

農協の隣が朝日新聞・・と、いうことは1983年ではないな・・。

 

懐かしい地図です。