温風茶館(おんぷうちゃかん)

好きなことを温かく語ろう。おひとりさま茶話会気分のとうとう還暦ブログ。

神護寺

2011-05-02 17:09:51 | Weblog
昨日、高雄山神護寺に行った。

このお寺は紅葉の名所なので、この時期に行くと全くといっていいほど
人がいなく、新緑をひとり占めできる。
さらに、5月の初旬には、虫干しを兼ねて年に一度(5日間だけ)
展示される宝物を間近に見られるという、至福の場所だ。

宝物の中でもいちばんの目玉は、歴史の教科書に必ず載っている、
藤原隆信筆の源頼朝像と、平重盛像だろうか。
何を隠そう、私は「すけどの」こと右兵衛佐(うひょうえのすけ)
頼朝殿の肖像画が見たくて、幾度となく神護寺に足を運んでいる。
今回は5年ぶりだったが、佐どのの聡明なまなじりは健在であった。
うっとり。
ところで、最近読んだ白洲正子さんのエッセイによると、
藤原隆信筆の肖像画は頼朝、重盛以外にあと2点あり、
後白河法皇像を囲むように安置されていたらしい。
法皇の追善供養のため、特に関係の深かった人物、つまり
男色関係にあった人物が描かれたのだと書いてあり、ショックで
倒れそうになった。
うそやろ、あのカタブツの重盛が!?(会ったことないけど)

五味文彦著「院政期社会の研究」(1984年:山川出版社)では、
頼朝もここに含めるのは疑問ありとしながらも、後白河院と
頼朝が接する機会に恵まれなかったわけではない、と、
男色関係の可能性を示唆しておられる。

保元4年(1159年)当時13歳の頼朝は上西門院の蔵人(くろうど)
になり、右兵衛佐にも任ぜられていて、後白河院が
蔵人の頼朝に目を付けたとしても不思議ではない。のだそうだ。
油断も隙もないとはこのことだ
私の個人的な考えでは、もし14歳で伊豆に流された頼朝に
何かあったとするなら、相手は男盛りの43歳、平清盛ではないのか。
そのほうが平家滅亡のドラマも盛り上がる、と思うのだが、
根拠のないことなので、妄想の範囲でとどめておくことにしよう。
コメント
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