8月6日の「シューイチ」、中丸くんは
ゲストの池上彰さんと広島からの中継で参加。
番組冒頭、平和記念式典を30分後に控えた会場周辺は
暑いけれどもぴりついた重い空気が流れていると伝えていた。
この日の広島は、朝の8時前から気温が30度を越えて、
因縁のような暑さだった。
喪服で参列している人たちの体調が案じられた。
7時40分からは池上さんも交えてスタジオとやりとり。
中丸くんは緊張のせいか、汗が目に入るのか、おそらく両者だろうが、
頭上からの容赦ない太陽に何度もまばたきをしていた。
そのとなりで池上さんは、アメリカ人の核に対する考え等を
よどみない口調で解説していた。さすがニュースの伝道師。
この中継に先立ち、1か月前の7月6日にも広島を訪れていた中丸くんは
平和を伝える活動について取材、
特別に許可をもらって、原爆ドームの敷地内に入っていた。
失礼しますと一礼し、ボランティアガイドの方のともに柵の内側へ。
公園の芝生の中のそこだけが72年前から時間が止まっているような、違う空気が
流れているような感じがする。
建物の中は、被爆したときの瓦礫が床一面に散乱した凄惨な有り様。
積み重なった煉瓦の間から雑草の伸びた上を踏みしめて歩く思いは
どんなものだろう。
いよいよドーム部分に入ると、屋根が高いせいか、室内がさらに暗くなる。
天井を見上げた中丸くんが、ああと声を上げ、こんなふうになってるのかと呟いた、
丸屋根の天井はドームの内側に鉄筋の補強がされていた。
崩れ落ちそうな壁には、煉瓦の隙間に樹脂が注入れていた。
外からは見えないが、こうやって長年の風雨や地震に耐えているのだ。
原爆ドームを永久保存するために並みならぬ努力が続けられているのだと、
当たり前のことに改めて気付いた。
中丸くんがドームの次に向かったのは被爆建造物「旧陸軍被服支廠」。
戦中はこの中に病院や託児所もあり、恵まれた環境だったらしい。
当時の施設のことを知っている女性の被爆体験もまた凄惨だった。
建物の陰にいた人は難を逃れたが、
火傷を負った人たちは、腕の皮膚がずるりと剥がれ、爪で止まって
指の先に垂れ下がっていたと言う。
中学校の修学旅行で原爆資料館に行ったとき、被ばくの様子を再現した人形の
手の先に赤いものが垂れ下がっていて、何なんだろうと思っていた。
それがやっとわかった。
自分の無知と原爆の無残さに寒気がした。
15歳の時、校庭で友人を荼毘に付した女性は、
体が焼けていくあいだは涙も出なかった、火が落ちて全身の骨が現れたのを見た時、
初めて涙が出たと、その時の体験を語った。
中丸くんは、頭で理解できてしまったんですね、と、
目の前で起きたことと現実が結びついたときの悲しさを思い遣っていた。
学びの場所である学校で、友人を火葬しなければならなかった
15歳の少女の気持ちによりそっているようだった。
戦争のことは思い出すのは辛いし悲しい。けれども若い人達に伝えておかなければ
ならない、という思いで語られるひとつひとつに、中丸くんは丁寧に向きあっていた。
過度に感じ入ることもなく、悲惨な出来事を憐れむこともせず
真摯に事実を学ぼうとしていた。
女性は中丸くんに、あなたのような人に聞いてもらえて嬉しいと言った。
そして、広島の悲劇を伝えてくださいとも言った。
中丸くんは平和への願いを託されたわけだが、テレビを見ていた我々もまた
その一端を担ったことになるのだろう。
広島のこと、長崎のこと、なぜ日本に原爆が投下されたのか、
そもそもこの戦争のはじまりはなんだったのかを学んで考えねばならないのだろう。
池上さんは、今のアメリカの20~30代の半分以上は
原爆投下は間違いだったと考えている、との意識調査を引用していた。
それは教育の変化でもあるだろうが、太平洋戦争で家族をなくした人が減ってきた、
日本でもアメリカでも当時を知る人が減ってきたということだろう。
若い世代は戦争を知らない。記憶が薄れていく危機感はあるが、
それはまた、客観で大戦当時を見ることができる世代、ともいえる。
この先、戦争や核兵器に対する意識はどんどんかわっていくの
ではないか。
戦後70年を経て、新たに発見された映像や、はじめて公開される資料などもある。
知るべきこと、残すべきことはいくらでもある。
ゲストの池上彰さんと広島からの中継で参加。
番組冒頭、平和記念式典を30分後に控えた会場周辺は
暑いけれどもぴりついた重い空気が流れていると伝えていた。
この日の広島は、朝の8時前から気温が30度を越えて、
因縁のような暑さだった。
喪服で参列している人たちの体調が案じられた。
7時40分からは池上さんも交えてスタジオとやりとり。
中丸くんは緊張のせいか、汗が目に入るのか、おそらく両者だろうが、
頭上からの容赦ない太陽に何度もまばたきをしていた。
そのとなりで池上さんは、アメリカ人の核に対する考え等を
よどみない口調で解説していた。さすがニュースの伝道師。
この中継に先立ち、1か月前の7月6日にも広島を訪れていた中丸くんは
平和を伝える活動について取材、
特別に許可をもらって、原爆ドームの敷地内に入っていた。
失礼しますと一礼し、ボランティアガイドの方のともに柵の内側へ。
公園の芝生の中のそこだけが72年前から時間が止まっているような、違う空気が
流れているような感じがする。
建物の中は、被爆したときの瓦礫が床一面に散乱した凄惨な有り様。
積み重なった煉瓦の間から雑草の伸びた上を踏みしめて歩く思いは
どんなものだろう。
いよいよドーム部分に入ると、屋根が高いせいか、室内がさらに暗くなる。
天井を見上げた中丸くんが、ああと声を上げ、こんなふうになってるのかと呟いた、
丸屋根の天井はドームの内側に鉄筋の補強がされていた。
崩れ落ちそうな壁には、煉瓦の隙間に樹脂が注入れていた。
外からは見えないが、こうやって長年の風雨や地震に耐えているのだ。
原爆ドームを永久保存するために並みならぬ努力が続けられているのだと、
当たり前のことに改めて気付いた。
中丸くんがドームの次に向かったのは被爆建造物「旧陸軍被服支廠」。
戦中はこの中に病院や託児所もあり、恵まれた環境だったらしい。
当時の施設のことを知っている女性の被爆体験もまた凄惨だった。
建物の陰にいた人は難を逃れたが、
火傷を負った人たちは、腕の皮膚がずるりと剥がれ、爪で止まって
指の先に垂れ下がっていたと言う。
中学校の修学旅行で原爆資料館に行ったとき、被ばくの様子を再現した人形の
手の先に赤いものが垂れ下がっていて、何なんだろうと思っていた。
それがやっとわかった。
自分の無知と原爆の無残さに寒気がした。
15歳の時、校庭で友人を荼毘に付した女性は、
体が焼けていくあいだは涙も出なかった、火が落ちて全身の骨が現れたのを見た時、
初めて涙が出たと、その時の体験を語った。
中丸くんは、頭で理解できてしまったんですね、と、
目の前で起きたことと現実が結びついたときの悲しさを思い遣っていた。
学びの場所である学校で、友人を火葬しなければならなかった
15歳の少女の気持ちによりそっているようだった。
戦争のことは思い出すのは辛いし悲しい。けれども若い人達に伝えておかなければ
ならない、という思いで語られるひとつひとつに、中丸くんは丁寧に向きあっていた。
過度に感じ入ることもなく、悲惨な出来事を憐れむこともせず
真摯に事実を学ぼうとしていた。
女性は中丸くんに、あなたのような人に聞いてもらえて嬉しいと言った。
そして、広島の悲劇を伝えてくださいとも言った。
中丸くんは平和への願いを託されたわけだが、テレビを見ていた我々もまた
その一端を担ったことになるのだろう。
広島のこと、長崎のこと、なぜ日本に原爆が投下されたのか、
そもそもこの戦争のはじまりはなんだったのかを学んで考えねばならないのだろう。
池上さんは、今のアメリカの20~30代の半分以上は
原爆投下は間違いだったと考えている、との意識調査を引用していた。
それは教育の変化でもあるだろうが、太平洋戦争で家族をなくした人が減ってきた、
日本でもアメリカでも当時を知る人が減ってきたということだろう。
若い世代は戦争を知らない。記憶が薄れていく危機感はあるが、
それはまた、客観で大戦当時を見ることができる世代、ともいえる。
この先、戦争や核兵器に対する意識はどんどんかわっていくの
ではないか。
戦後70年を経て、新たに発見された映像や、はじめて公開される資料などもある。
知るべきこと、残すべきことはいくらでもある。