8月の月刊住職に載っていた、齋藤孝明治大学文学部教授のお言葉はとても良かったです。一部ですが、ご紹介します。誰でもいつかは死ぬという事は、はっきりしているわけで、死を意識しながら生きる事は避けられません。忘れたふりをして生きるというのも1つの生き方ではあります。死を忘れた生き方と、死を忘れるなという生き方。死を忘れた生き方もできない事はないと思いますが、最後、死ぬときになって「あぁ、もっと死を意識して、1日1日を大事に生きていけばよかった亅と、ちょっと後悔するかもしれません。死を意識していることが、生を味わい、深くするというか、ただ怖いというだけでなく、終わりがあるから、集中力が湧くのではないかと思うのです。
今更ですが、以前と比べて、生前中に、葬儀やお墓のことを決めておきたいと言う方は多くなりました。いわゆる終活です。以前にも紹介しましたが、同じ月刊住職で、作家 五木先生がおっしゃってたのは、終活と言う言葉が流行ったけれども、今の時代、死ぬことよりも、いかに生きるかのことがみんな重要だと思っているとの指摘もありました。それも大正解だと思いました。お寺には、医者から死を宣告され、死を覚悟してご相談にいらっしゃる方もいらっしゃいます。皆さんおっしゃるのは、自分の後始末は、自分でつけたい。残された者には、迷惑かけたくない、そのように思われるようでございます。その方にとって、1日1日はかけがえのない無駄には出来ない1日だと思うのであります。ですから、相談と言うよりも、その日に決めてお帰りになる方が多いのです。明日、生きてるかどうかも、わからないからであります。逆に、何度も相談に見える方もいらっしゃいます。それはそれで、悪いことでは無いのですが、しかし、またゆっくり考えてと言って、お帰りになりますが、ゆっくり考えている時間があるかどうかは、わからないのであります。