Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

トントとバク

2012-02-16 21:42:26 | ネコ

卒業時に、一階の住人に世話をしてもらい連れ帰った猫のトコちゃんが1歳の誕生日を迎えぬまま、癌で死んでしまいもう飼わないと決めていた。

しかし、寂しく隣家との背戸をノラがよく走っていたので、父と二人餌を撒きこっそり様子を覗いていたりして紛らわしていた。

それから半年たった頃、父が港近くの駐車場にいる捨て猫に餌をやった事から、その近所の知り合いの子供が親に言われて、家に小さなバスケットに子猫を入れて連れてきた。

トント

父はこの数日その子ネコが鳴きながらさ迷っているのを数回見てしまい、たまらなくなったそうである。そう言う事からその子は家の飼い猫になった。

名前を付けるのに迷ったが赤トラネコだったので映画の「ハリーとトント」からトントと付けた。しかし、トントとは呼び辛くいつしか「トン」になってしまった。

トントくんは兄弟4匹で捨てられていたそうであるが、1匹はまもなく亡くなり、後の2匹も子供達が連れ帰り、一番声のでかいこの子が残っていたそうである。

とても人懐っこく、賑やかで面白く分かり易いネコだった。1週間位たった頃、トントくんにそっくりなネコを見かけた。兄弟ネコである。小学1年生と幼稚園の姉妹が連れていたが、家では飼えないので家でそれも飼うようになった。

バク

お姉ちゃんは家では飼えないので「飼って欲しい」と言ったが、妹は「家の猫だ、返せ。」と言う。

そんな事もあり、毎日姉妹は家へ来て猫達と小一時間ぐらい遊んでいた。

後から来た猫はじゃれあってもどうしても体のでかいトントの下になってしまうので、腕白になれと思い「パク」とつけたが、これも言い辛く「バク」となってしまった。

バク君はおとなしく、利口で控えめで母のお気に入りだった。その頃、魚屋さんがマグロのそぼろにする背の所をトロ箱に1杯ずつ持ってくるようになり、それが我が家のネコの餌になり、一食分ずつ袋に入れて冷凍するようになり、たちまち冷凍庫はこの餌で占拠されてしまった。

「ネコは嫌い」と言いながら、母が食事の世話をしていた。

鍋にマグロを煮てからネコ椀に入れるのだが、トントは待ちきれずいつも湯気のでているマグロを爪で引っ掛け周囲に出して熱いものだから「あう、あう」と声を出しながら猫舌のはずなのに食べていた。バクはおとなしく下手をするとトントに食べられてしまうので分けていた。

1ヶ月位後、夜市でおばあさんと生気のない暗い顔をしたお母さんに連れられた姉妹とすれ違った。それが彼女達を見た最後であった。

その夜中、彼女達は無理心中を図った母親に殺されていた。母親は助かったが…

数ヶ月前に父親が病死していて家庭内の不和もあったとかで、お母さんはノイローゼになっていて先を儚んでそういう事になったらしい事を聞いた。同情もあり近所の人達が減刑の嘆願書を出したと後日聞いた。

猫達がいなければ、知らない間柄である。毎日のように来ていたので、私たち家族は絶句した。生きていれば、もう40歳近くになっていたであろう。

トントは外で出会うと、帰りたくない時はわざと目を外して知らんぷりをし、帰宅途中であれば大声で「にゃ~」と擦り寄って付いて付いてきた。

バクにはそういう所はなかったが、どこかのネコが尻尾を麦の穂のように膨らませて喧嘩をしていると思えば、バクちゃんだった。

一度うれしそうに白い物を食べていると思えば、よく見るとそれはするめいかの自家製の一夜干しで誰かが干していたのだろうと思うが、猫の体には良くないので取り上げてこっそり捨てたが、バクはとても不満そうだった。

そして家の前に食料品店ができた時も、店番が2人もいるのに目を盗んでガラスケースの戸を開け、ちくわやじゃこ天などを数回持ち帰り慌てて支払いに行ったこともあった。

2匹とも病気もせず元気だったが、よく野良と喧嘩して頭は私鉄駅の沿線のようにバリバリにかさぶたが出来たりしてたくましくなった。楽しく過ごしていたが、2年経った4月の29日の夜友人と電話で話していると急にトントが居なくなり、翌日になっても帰ってこなかった。

父と探し回ったが、見つからなかった。猫が帰ってくるというまじないもしたが、効果はなかった。

 


舞踏会の手帳

2012-02-16 00:05:30 | 日々のつぶやき

先日、NHKのラジオ放送で懐かしい「至福の時」と言う話題で対談しているのをで聞いた。67歳になられたそうである。。相変わらずの心地よいしっとりとした声である。高校生の頃、勉強はせず一生懸命起きて聞いた。

「今は自分を生きているという実感がする。」と言われていた。若いときは辛かったとも言われたが、私も同じであった。昨年末から学生の頃に戻り、それからの過ごし方を見直しする様になってしまった。

で、先月の半ば結局でた結論は私の生き方は間違っていなかったと確信した。

20代の頃、家の為を思い意に添わない結婚をされた2軒の人の話を夕食後毎晩のようにされた事があった。

しかしお気の毒だが、その2軒共今は跡形もなくなってしまっている。

周りの意見に流されず、頑として自分の思うままに生きてきたのであるから、逃げ道も無いが間違いではなかったと思うようになった。反省する事はあっても、後悔はしていない。否定してしまえば今の私を否定する事になってしまう。

ノワタリさんのお陰で先祖事も数年前に片付き、土地の因縁も大分浄化されたみたいでラップ音はしなくなっていた。今回、散財をしたがそれも30年間の自分に対してのプレゼントと考えるようにした。若い頃は、田舎で一人でいると周りの目があり、何をするにも面倒で生き生き伸びやかにと言うわけにはいかなかった。

落合恵子さんの話しに同感であると思いながら、昔学生時代に彼女の書いた「スプーン一杯の幸せ」と言う本のシリーズを確か3冊持っている部活で一緒だった男の子がいて私は借りて読んだ事がある事を思い出した。

男の子なのにこんな本を持っているのかと驚いたが、本の内容と同じように細やかな神経の持ち主で優しかったので、外見に係わらずいつも複数の付き合っている女性がいた。(外見ではもてる要素は全く無い)

ふらっと前触れも無く突然、遊びに下宿にやってくる事もあったが「何処にいるの?」と聞くと、「何処何処の病院の看護婦の所。」とかと言う返事で、一体何処に住んでいるのか分からない不思議な人だった。

落ち込んでいる時もよく話し相手にしっかりなってくれ、助けられた。

卒業してから、ずいぶん昔一度を貰ったが、私を見かけたという事で、従兄弟と居る所を見たため、勘違いして声を掛けられなかったそうである。家庭を持ち二人の娘さんがいるそうであった。

落合恵子さんの声を聞いてから、その人の消息が気になり逢いたいと思うようになった。

しかし、彼の勤め先はなくなってしまい連絡の取り様が無い。部活も途中で止め1,2年の頃仲の良かった男の子に聞いても消息は分からなかった。ふと思い出した彼の実家にしたがむなしく呼び出し音が響くだけで誰も出てこない。

数年前、NHKのお昼の番組にそっくりな顔をされたおばあさんが出て来られたが、生きておられてもどこか老人施設にでも入られたのかもしれない。

なぜ、こんな気になるのだろう???

ノワタリさんに話すと、「整理をしているのよ」と言われる。

駅伝のランナーで言えば、今世はアンカーであるそうですべて片付けて行くそうである。

1月に会った友人たちといい、今まですっかり忘れていたのにと思う。まるで古いフランス映画の「舞踏会の手帳」の未亡人になったマリー・ベルのように昔踊った相手に逢いに行っているみたいである。(其処まで優雅では無いが)

年のせいか?それとももう危ないのだろうか?それでこういう気になるのではと思ってしまう。