「あぁ!! ぼくたちが軽はずみに『たまにはこういうのに一度任せてみるか』と思ったばかりに!! まさかこの連中がトップでいる時に、いくら何でもこんな未曾有の大災害が起ころうとは!!」
「こいつ一度握った力を手放すのが惜しくて、人の言葉には耳も傾けようとしないぞ!!」
「ダメだこいつら、災害に対応する気なんかゼロだ!! 仲間内で力を巡って同士討ちばっかりやってるぞ!!」
「ひょっとしてあのならず者たちに、俺らの側のトップがすっげー貢いでんじゃね!?」
――以上、『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の感想をお届けしました。
本作はシリーズ三十五周年を記念して制作されたスーパー戦隊大集合映画。タイトルにあるように第一作『ゴレンジャー』を筆頭にヒーローが199人も集まってバトルを繰り広げるのだから、たまりません。そのボリュームたるやウルトラ、ライダー、プリキュアなど足下にも及ばないすさまじさです。
ただ……現在放映中の『ゴーカイジャー』は、三十五周年作品としてはいささか問題を含んだ作品であるように思います。
ご存じない方のために最低限の説明をしますと、『ゴーカイジャー』は「レンジャーキー」というアイテムを持っていて、歴代戦隊に自由に変身し、その武器や技を使って戦うことができる、というチート能力の主です。しかしそんな戦隊の時に限って、よりにもよって、どうしたことか、『ゴーカイジャー』は正義の味方とは言いにくい連中なのです。
そもそも彼らは宇宙海賊としてお宝を探していて、その途中でたまたま地球に立ち寄っただけの豪快な奴等。しかしそんな戦隊の時に限って、よりにもよって、どうしたことか、敵は全宇宙規模の未曾有の勢力を持つ悪の帝国ザンギャック。第一話では今までの全戦隊が力をあわせて立ち向かうものの、力尽きて変身能力を失ってしまいます。
その後を託されたのがゴーカイジャーなのですが、彼らがザンギャックと戦うのはあくまで成り行き、地球を守ろうという動機は一切持っていません。
そもそも「レンジャーキー」とは歴代戦隊の変身能力をアイテム化したもので、劇場版では旧戦隊が変身能力を取り戻そうと、キーを返せと迫ってきます。当たり前の話です。が、海賊である彼らはレンジャーキーを元の持ち主に返そうなどとは、夢にも思いません!*
*一応、ゴーカイジャーにレンジャーキーを渡したのは第三者である、というエクスキューズはあるのですが。冒頭に書いた「ならず者たちに、俺らの側のトップが貢いだ」というのは、全ての戦隊の頂点に立つ戦士・アカレッドがゴーカイジャーにレンジャーキーを託したことを指します(このエピソード自体は劇場版ではなく、テレビ版のものですが……)
もちろん通常の作劇であれば、ゴーカイジャーも歴代戦隊とかかわるうち正義の心を知り、地球を守ろうとするようになる……というのがパターンだと思うのですが、本作においてそうした王道の展開は一切ありません。即ち、正義のために戦っていた歴代戦隊が退場し、チンピラ集団が新戦隊として出現した瞬間、未曾有の強大な悪の軍団、ザンギャックが現れた……というのが今の地球の状況なのです。
確かに、劇場版では旧戦隊とゴーカイジャーの対立、和解も描写はされます。ゴーカイジャーが旧戦隊に「お前たちの持つ使命感に興味を覚えた」と言うシーン、ゴーカイジャーが罪のない人々を身を盾にかばうのを見て、旧戦隊が彼らを認めるシーンも一応、描かれてはいます。
しかし、だったらゴーカイジャーは最初から「口が悪いだけで本当は正義の心を持った豪快な奴等」なのかと言えば、それは疑問です。地球人が困っていても本編一話では平然と見捨てていたのだから、こんなのは「場当たり的に、ストーリーの流れとして必要だから、何か唐突に正義感を示して見せた」だけの行為です。それを見ている側が一生懸命、「ゴーカイジャーはツンデレなんだ」と各自、自主的に脳内補完して自分を納得させている、という図式です。
そして現れた黒十字王(ゴレンジャーに倒された黒十字軍の怨念の具象化したラスボス怪人)はレンジャーキーを奪い、召喚した歴代戦隊を手先として操ります。
いつの間にやら「与党」となったチンピラたちに、「野党」として立ち向かう歴代戦隊たち!
そしてロクに抵抗も示せないうちに、ゴーカイジャーに次々と倒されていく歴代戦隊!!
一体、何のいじめだ!?
そして奇跡が起きて(?)ようやっと真の歴代戦隊が復活!!
いよいよ歴代戦隊が正義を示す時が来たか!!
……が、歴代戦隊は崖に並んでゴーカイジャーに必殺武器を与えただけで、その役目を終える!!
後のロボ戦では歴代ロボが活躍したが、声はなし。また、操られていた戦隊たちも声を発していなかったように思います。つまり、あれだけの豪華歴代キャストを呼びつけておいて、戦闘シーンにアフレコ参加したのはほとんど物語の冒頭で描かれたレジェンド大戦の時だけと言うことになります!!*
何がしたかったんだ、一体!?
*ただし誠直也、宮内洋、大葉健二、春田純一、和田圭市……と歴代戦隊メンバー諸氏の素顔の出演はあります。
本作のテーマは「戦わないこと」です。
ゴーカイジャーが地球を守ることを使命としない宇宙のアウトローだと言うならそれはそれで、歴代戦隊の正義と真っ向からぶつかればよいのです。
しかし彼らはそれをしません。歴代戦隊と和解するためであれば、場当たり的に人助けすらもしてみせるのです。
アオレンジャー、そして『ジャッカー電撃隊』の行動隊長ビッグワンを演じた日本一のヒーロー役者、宮内洋さんは「ヒーロー作品は教育番組である」とおっしゃっています。
では、一体『ゴーカイジャー』の「教え」とは何なのでしょうか?
それは俺様大事で仲間内のノリだけを重んじつつも、他者と、他の世代とぶつかっては決してならない、というものなのです。
それこそが、ぼくたちの住むこの日本における、絶対の正義なのです。
考えない。
逆らわない。
空気を読んで成り行きに任せて行動する。
自宅に引き籠もって「俺以外はみんなバカ」と言いつつも、実際に他者と出会った時は、決して対決しない。
そう、今ここに戦隊は真の、そして究極の教育番組、究極の正義を描いた文芸作品となったのであります。
――戦隊が正義の戦いを続けている最中、冷戦は終わりを迎え、現実の世界ではわかりやすい悪者が姿を消しました。
バラエティ番組では「マジに正義の怒りを燃やす」スーパーヒーローたちの姿はこの世で一番滑稽なものとして紹介され、「会場にお集まりのフレッシュギャル」の皆さんたちの嘲笑を一身に受けました。二十年ほど前に出されたマニア向けの書籍でインタビューを受けた戦隊の監督さんが、そうした風潮に憤っていたことが思い起こされます。
九十年代、ゼロ年代を経て、特撮やアニメはちょっと前には考えられないほどの市民権を得ました。それ自体は、大変に素晴らしいことです。
しかしその頃には特撮もアニメも「正義」を描くメディアではなくなっていました。
シンジ君は最後まで、「ぼくは何もしたくない」とエヴァに乗ることを拒否し続けました。
そしてついに、正義を完全否定するという使命を持った、豪快な奴等が姿を現したのです。
……すみません、勢いに任せて書き飛ばしてしまいました。
実は今回は、前回に引き続き、『Rewrite』について書くつもりで、『ゴーカイジャー』はその前振りくらいのつもりでした。
『Rewrite』はひょっとしたら『ゴーカイジャー』を超えるのではないか。
ギャルゲーはヒーロー物を超えて「正義」になるのではないか。
そして「正義」を語るギャルゲーだけが、「女災」に対抗しうる最終兵器になり得るのではないか。
そんなことを書くつもりでいたのです。
しかし考えると、それ以前の前提として、こうしたここ三十年ばかりの「世界の、正義の状況」について語っておくことは必須でした。
というわけで続きは次回、今回はこんなところで……。