兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

秋だ一番北原みのり祭!!

2011-11-05 20:06:37 | レビュー

 はぁぁぁ~~みのりみのりのみのりタン音頭~~♪
 というわけで今年もやって参りました、
「ドラえもん祭」に代わってすっかりおなじみとなりました「北原みのり祭」!!
 今回は『フェミの嫌われ方』『ブスの開き直り』の豪華二本立てでお送りします!
 この二作は出版時期も比較的隣接していて、また出版社も同じという、言わば姉妹編。いえ、ご本人がそのように銘打っているわけではなく、あくまでぼくがそのように感じたということなのですが。
 しかしこの二つのタイトルを並べて見てみると、いずれもみのり師匠ご自身の「愛されたい願望」が如実に出ていて、それってフェミニストにしてはかなりラディカルな視点と言えるのではないでしょうか。
 あとがきによると後者のタイトルは『負け犬の遠吠え』を意識したもののようで、言われてみればなるほどと思います。そもそも『負け犬』自体がフェミニズムによって女の幸福を奪われた女たちの恨み節という性質を持っていました。同様なテーマにフェミニストが取り組んだらどうなるか。そう考えるといよいよもって、これらの本はラディカルだと言えます。

 いえ、実際に読んでみれば「女性コラムニスト」の本にありがちな、ピントのぼけただらだらしゃべりが続くだけの、どうということのない本ではあるのですが……。

 

 当ブログを通してご覧になっている方は、ぼくがある意味で、みのり師匠を評価していたことに、お気づきになっているのではないでしょうか。
女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)」を見ていただきたいのですが、そこでぼくはみのり師匠が上野千鶴子師匠に「フェミニズムは女を幸せにしたか」という問いかけをしていたこと、また著作の中で「女性センターかどこかでぶつぶつと独り言を呟いている、ちょっとアブなげなフェミニスト然とした中年女性」について書いていたことを指摘しました。
 つまり、みのり師匠はフェミニズムにずっぽりとハマりつつ、どこか一方では「
しまった」と思っているのではないか、とぼくは感じているのです。
 いえ……むろんこれは、先走った想像です。
 まずは落ち着いて、著作をじっくりと見ていきましょう。
『フェミの嫌われ方』(以降、『嫌われ』と略します)をめくると第一章第一節からクボジュンとかいう女子アナの悪口が書き並べ立てられ、端っからこちらの読書意欲をどっと減退させます。ぼくはテレビを観ないのでその女子アナについて全く知らないのですが、彼女にとってのクボジュンは「オヤジに可愛がられる、絶対に許すことのできない可愛い女性」として描かれます。フェミニストの本を少しでも読んだことのある人ならおわかりでしょうが、彼女らの脳内は「男性受けする女性」へのどす黒い憎悪でいっぱいです。
 そしてついには、

 

 特別に意識していなくたって、「若いオンナ」でいることで「オトクでしょ」という社会である。

 

 と、「本当のこと」をあどけなく吐露してしまいますw
 第一章第一節で、師匠は早くも
「答」を出してしまっているわけです。
 つまり、女は差別などされていないのだ、という。
 ただ、ブスが美人より損なだけなのだ、という。
 自分自身が紙に叩きつけた情念を1ミリでも内省すれば、フェミニストたちも道を誤らなかったのにと、読んでいて溜め息が溢れます。
 フェミニストたちが憎悪しているのは決して社会の差別構造などではありません。
 彼女らが憎悪しているのは「ワタシを愛さない男たち/男たちに愛されるワタシ以外の女ども」です。
 フェミニズムに対する定番のからかいに「ブスのひがみ」というものがあります。
 しかし仮にもしフェミニストがそこを「開き直」って「ブスを差別するな!」という主張の仕方をしていたならば、ぼくはむしろ、彼女らを評価していたでしょう。「美人に比べてブスが損」なのは事実なのですから(ただし以下に述べるように
「ブスが差別されている」というのは間違いです)。
 しかし彼女らは誤ってしまった。
 誤りの一番目は「自分の不幸/美人の幸福」の全てを「男のせい」にして、その双方を否定するために「ジェンダーフリー」、即ち「男らしさ/女らしさ」のリセットという暴挙に出ようとしている点。
 二番目は「ブスがモテない」という個別性に還元されるべきことを「個人的であることは政治的である」といった詭弁で公共性に還元しようとしたこと。つまり「会社組織のような公がブスを差別すること」は許されないが、「個人がブスを嫌うこと」は仕方のないことだ、それは差別ではないのだという理屈が、どうしても飲み込めなかった点です。ミソジニーといったフレーズはそうした彼女らの甘ったれた感性から出て来た言葉です。
 三番目は「しかし、それでも、ブスでも、オンナである限り男に比べれば遙かに優遇されている」という事実をどうしても認めまいとしている点です。「男がワルモノ」であることが彼女らにとって譲れない「真理」である以上、男が得をしていないことには、どうしてもできないというのが、彼女らの事情なのですね。だから師匠は『ブスの開き直り』(以降、『ブス』)においても、男性の自殺率の高さに対して「全く、同情できません」と本音を吐露してしまうのです。「美人と比べて損をしている自分」を可哀想がるのに必死で、師匠には男性に目を向ける余裕など、とてもとてもないのですね。

 

 事実、本書を読んでいて感じるのは「女としての生き難さ」などでは決してありません。
「フェミとして男からも女からも嫌われることの辛さ」です。

 

 フェミ。
 どうして、そんなに、嫌われている?

 

 70年代の輝かしかったフェミニズムを知る師匠は、

 

 八〇年代に何が起こったのだろう……。

 

 と自問します(まあ、左派はみんな言ってそうですが……)。
 考えれば彼女よりも上の世代のフェミニストは楽でした。
「結婚はするもの」というコンセンサスに則って結婚した上で、ダンナに文句の百万ダラを並べていればそれで済みました。
 しかしいまや、婚活に忙しい若い女性には、彼女らの生き方は目も向けてはもらえません。その意味でフェミニズムの敗因を「結婚もせず、家庭も持たない独身男が増えてしまったことにある。」とした山下悦子さんの分析は、やはり鋭いと言わざるを得ません。

 

 オンナたちが「オンナ」という共通項をもって集まることを、なぜ、そんなに警戒するのだろうか。どうして、フェミニズムであることを恐れるのか?

  

  オンナたちを分断するなよぉ、と思わずアジりたくなるものである。

  

  なぜ、フェミを嫌ったり、オンナでつながることをしないんだろう

  

 女たちがつながっていない、分断されている、と繰り返すみのり師匠(最後のは荻原みどりさんという方の言葉ですが)。
「フェミの嫌われ方」。
 これはタイトルのみならず章タイトル、節タイトルと合計三回も使われていて、何だか読んでいて痛々しくなってくるほど。
 今、これを読んでいるあなただけでも、みのり師匠を愛してあげてはくれませんか?
 いえ、
ワタシは遠慮しときますが
 見ると師匠は「フェミは嫌われている」と繰り返しつつも、それを巧みに「オンナが分断されている」ということなのだ、とすり替えていきます。まるで、何者かが、「陰謀」を巡らせて、オンナたちが分断されてしまったのだと、言わんばかりに。
 何のことはない、師匠は「ワタシと同じ価値観を、ワタシ以外の女も受け容れよ」と言っているだけなのです。そんなの「女はおとなしゅう股開いとりゃええんじゃ!!」と言っているオヤジ(そんなオヤジはフェミの脳内にしかいないのですが)とどこも違いません。
「オンナのセックス」と題された節が象徴的です。
 ここでは師匠がテレビの女性ディレクターから「女性向けのエッチな番組を作りたい、ついてはそこでラブピースクラブ(師匠の経営する女性向けアダルトショップ)を紹介したい」と相談を受けるも、相手の提出してくるネタが男性の作り出した物語に則ったものであると感じ、揉めた挙げ句に誘いを断ってしまう様が書かれています。単なるバカ女同士のケンカの責任を、その場に居もしない男が取らされてしまうおなじみの図式です。
『ブス』の「時代遅れのたわ言」では師匠が某学会(当然、フェミニズム関連の学会でしょう)に出席した時、ポルノの話をして「マン○マ○コ」と連呼したことを他の出席者から「セクハラ」だと文句を言われたというエピソードか書かれています。これについてはまあ、相手に対しても「その種の学会なのだからポルノの話くらいされることは覚悟しておけ」とも思わないではないですが、続いて引きあいに出される話は更に呆れます。

 

 大学で教えている友人(女)が、授業で下半身のことに触れると(必然性がある場合だ)、後から男子生徒が胸を張って「あれはセクハラです。傷ついている女性がいるはずだ」と代理戦争を挑んでくるのだと言う。その奇妙な「正義感」にトホホ、と二人で笑っていたのだが、まさか自分にも同じことが起こるとはね。

 

 むろん、この男子生徒が過剰反応しているということも、可能性としては充分にあり得ます。が、みのり師匠は小学校に呼ばれて性教育と称し、平然と「チン○マン○」とわめいている人物です(婆星第八回)。そんな人物の感覚が一般的なものであるとは、非常に考えにくいことです。しかし彼女は結局、

 

 それでも、敢えて断言すればそれは「セクハラ」とは呼ばない。

 

 でコラムを締めてしまうのです。
 一体、どういう傲慢さでしょうか。
「その女性が嫌だと感じたら、それはセクハラ」だったのではなかったでしょうか。
 結局、フェミニストの言う「女性」とは「ワタシ自身」という意味に他ならないわけです。
「友だちを怒らせた原因」では、ところ構わずフェミトークを始めるせいで友だちに嫌がられていると嘆きます。普通であれば(考え方までは無理でも)せめて話の切り出し方くらいは省みてもよさそうなものですが、師匠は「フェミの実態とかけ離れた、フェミに対する偏見が罷り通っているのが悪い」という結論に落ち着きます。自分と曲がりなりにも向きあってくれた友人たちがフェミを嫌ったのだとしたら、普通なら自分に責があると考えそうなものですが、師匠に「反省」の二文字は無縁のようです(フェミニストは「フェミニズムが誤解されている」と称するのが大好きですが、毎年十兆もの予算を得、アカデミズムの一角に地位を築き、マスコミにだって充分露出しておきながら、彼女らは何故こんな責任転嫁ができるのでしょうか)。
 お断りしておきますが、ぼくは「
女同士ケンカしてやんの、やーい」と言っているわけではありません。
「男性差別」論者同士だって同じ志を持っているはずが内輪もめばかりしているわけですし、そこだけすくい取れば、それは「お互い様」以上のものではありません*1。
 ぼくが批判しているのは、フェミニズムが「個人的なことは政治的である」などと言った詭弁を弄して、自らの個人的な感覚(いえ、単なる個人的なエゴ)を正義として押し通し続けた点についてです。そんなやり方では同士討ちが始まるのは当たり前ではないか、だからフェミニズムは結局、同じ女性によって裁かれているのだ、と言っているのです。
 フェミニズムは結局、エゴイズムでありフェミニズムなどではなかったのです。
 フェミニズムは結局、男性の敵などでもなかったのです。
 女性の敵でも、ありませんでした。
 全人類の敵、だったのです*2。

 

*1ぼくが批判的な「男性差別」論者が「ジェンダーフリー」支持派であることに留意していただきたいと思います。彼らもまたフェミニズムに倣い、「ジェンダーフリーは正しい、だから男性助産師を女性と同数にするという考えに女性も賛成するはずなのだ、しなければならないのだ」と個人的なエゴを「正義」に変換し、他人に押しつけようとしている人たちでした。
*2言っておきますが、「フェミニズム」が「それ以外の世界」の敵だと申し上げているのではありません。フェミニストがフェミニスト同士で揉めてばかりいることが象徴するように、「フェミニストのA子さん」は、「それ以外の、フェミニストも含めた全人類の敵」なのです。彼女らの「ワタシ至上主義」が行き着く先がこれ以外にあり得ないのは、当たり前のことなのです。
 この「ワタシ至上主義」に「我も」とのっかったのがぼくの批判的な一部の「男性差別」論者であり、そうした「ズル込み」に対して「政治的に正しいヒエラルキー」を示して見せたのが昨今の「身分制社会」、「負のレイシズム」である、ということは拙著でもこのブログでも、幾度も指摘しているところです。

 

 結果、『嫌われ』は「フェミのこれからの身の振り方」の自問集としての様相を呈するに至っています。
 最終章は「
フェミでキレイになる?」と題された遙洋子さんとの対談。お二人のツーショット写真は帯にも掲載され、本書の目玉企画であるとわかります。
 ちなみに本書、ぼくは図書館で借りたのですが、通常なら取り去られ捨てられてしまうこの帯が、表3(表紙をめくったところ)に貼りつけられていました。司書さんの愛情を感じます。


20111105_19





■司書さんが職権で買い込んだのでしょう。フェミにはこういうシンパが大勢いて羨ましいことです。


 が、ここでも二人、フェミニストとしての身の振り方をうだうだと語っているだけの、何だか職安の窓口状態。「フェミでキレイになる?」方法は、当たり前の話ですがどこにも出て来ません。
 この「キレイになる」というフレーズは師匠がご執心の『an・an』の「セックスでキレイになる」特集にインスパイアされているのでしょうが、果たしてこんなタイトル詐欺をやってまでフェミニズムを押し売りしようとする師匠たちと、彼女の言う「女に男の価値観を押しつけているマスコミの連中」と、果たして女をバカにしてるのはどちらでしょうか。

 

 ――さて、随分とまた、師匠の悪口を書き並べましたw
 しかし、です。
 それでも、ぼくは思うのです。
 とは言え、師匠が「フェミニズムは女性たちの支持を失っている」という認識に至っている点は、他のフェミニストたちに比べ、優れているところではないだろうか、と。
(或いは、他のフェミニストたちも内心気づいてはいるけれども、口に出していないだけなのでしょうか。彼女らの天衣無縫さを見ていると、どうもそうした自覚はなさそうに感じるのですが)
 恐らくこの『嫌われ』の手応えが芳しくなかったのでしょう(想像)。「フェミでキレイになる?」と大見得を切った師匠は四年後、手のひらを返すように、『ブス』を出すことになります。
 ただ、前にも書いたように、その『ブス』がタイトル通り「ブスの開き直り」を書いたものであったならば、ぼくは更に師匠への評価を上げることにやぶさかではないのです。
 果たして『ブス』の主張がいかなるものか、改めてページをめくってみましょう。
 まえがきで師匠はおっしゃいます。

 

 そもそもブスとは、美人になる道をはなから放棄し、「男に愛される」ことなど視野に入れない、孤高の女を指していたはずだ。

  

 れれっ?
「そもそも」とか「はずだ」とか師匠は周知のことのように言っていますが、恐らく人類史上、初めての「ブス」定義です。
 その後、話は「近い将来、女向け風俗ができるぞ」とか何とか、相変わらずのものになり、端っからこちらの読書意欲をどっと減退させます。
 が、とは言え、本書にはいくつか、見るべき点もあるように思われるのです。
 例えば「サセコのあたし」において師匠は、「街頭で男どもに『ブス』と言われ、涙がにじんでしまった。『ブス』を自称しておきながら、そんなことくらいで心揺さぶられる私の覚悟のなさはどうだ」みたいな内省をなさっているのです(ただ……格好が悪いなあと思うのですが、師匠は最後までリクツを弄して「
ブスと言われて傷ついたワタシ」を直に認めようとはなさいません)。
 彼女の不可思議な「ブス」定義はこうして見ると、「自らの意志で、女という記号を脱ぎ捨て、男に媚びることを止めた、ジェンダーフリーな存在」というもののようです。そう考えると彼女の中では「キレイ」と「ブス」は何ら矛盾しないものであり、別に本書も、師匠にとっては「フェミでキレイになる」と相反するものではないのかも知れません*3。

 

*3てか、「勉強ができないのではない! 勉強を敢えてしていないのだ!」と言っているのと同じ、無意味な論理のすり替えなのですが。本当に勉強に価値を見出していないのなら、テストの点数が悪いからと言って泣いたりしてはいけません。しかしこうしたロジック自体、(まさに『負け犬の遠吠え』がある種の余裕で「負け犬」を名乗っていたように)フェミニストにしてみればそこそこ美人の師匠だからこそ、口走れることでしょう。本当に、正真正銘の「ブス」にこんな呑気なことが、果たして言えるものでしょうか?

 

 本書は以降、また愚痴と悪口のだらだらしゃべりが延々と続き、採り上げるべきところはあまりないのですが、しかし終盤でまたも、驚くべき展開を見せるのです。
 終盤辺りでは師匠の「男買いずっこけ珍道中」が描かれます。
 要は「男がすなる買春というモノをオンナのワタシも」というフェミニストにありがちなみっともない悪足掻きです。
 しかし。
 ここで師匠は知人の「男を買ったものの相手に汚い身体を見せたくないと事前にむだ毛処理して、旦那とのセックスよりも気を遣っている自分に愕然とした」といったエピソードを挟み、師匠自身も自らのシミだらけの裸を見られたくないと照明を消してしまい、美少年男娼の美しい身体を見損ねたと愕然とします。
「ジェンダーに縛られている自分」を内省する師匠。
 ヴァーチャルな「ジェンダーフリー幻想」が現実とぶつかりあった瞬間です。
 果たして、師匠はこれを「男社会がワタシに打ち込んだ悪しき楔」といった妄想に逃げ込むのか。
 それとも自らの中にある業を受け止めようと模索していくのか。
 まあ、前者でしょうなあ。
 しかしこの一瞬だけでも、師匠は確かに「ジェンダーから解放されたワタシ」という格好の悪い妄想から解放されていました。
 男は、「男である自分の業」(まあ、ここではぶっちゃけ性欲のことです)とずっと向きあってきました。想像ですが、恐らくそれには、石器時代からの歴史があるのではないでしょうか。
 一方女は「男が悪い」ことにして、自らの業からずっと逃避し続けてきました。フェミニズムは近代的自我を手に入れながらも自らの業と向きあわないために彼女らが苦心惨憺ひねり出した、最後の悪足掻きでした。
 しかしここで師匠はようやく、その内省の第一歩を踏み出したように、ぼくには見えました。
 男性よりも二百万年遅れの、遅まきながらの女性たちの始めた歩み。
 
これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩です。
 ぼくたちは師匠を祝福してあげるべきなのではないでしょうか。
 まるでそれは、『エヴァンゲリオン』の最終回のように。

 

 オトコノコに、ありがとう
 ブスに、さようなら
 そして、全てのフェミニストに「おめでとう」。


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