兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『紅一点論』――国語の教科書に「アニメのヒロイン像」

2012-03-26 23:54:57 | アニメ・コミック・ゲーム

 四、五日前、オタク系のニュースサイトで国語の教科書の内容が話題になりました。
 詳しいことは、「国語の教科書に「アニメのヒロイン像」 ”アニメに出てくる女性キャラは男性の理想像を描いただけで女性に勇気づけるものが存在しない。このままだとアニメ文化は滅びる” って書いてあるw(
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-8197.html)」を参照してみてください。
 要はフェミニストの電波文書が国語の教科書に載っていたという、(冷静に考えれば恐ろしいことではあるけれども)今時は珍しくもない話題です。内容はと言えば、要するに「アニメなどの大衆文化に描かれた女性像はステロタイプ(類型的)でケシカラン」という、フェミニストのお決まりの言いがかり。
 今回はこの教科書に引用された『紅一点論』についてご紹介いたしましょう。


 本書を読んでいて、ぼくは上野千鶴子師匠の出世作『セクシィ・ギャルの大研究』について、誰だったかが「女子大生の卒論レベル」と評していたことを思い出しました。うろ覚えで正確さには欠けますが、要するに「当時のフェミニズムで流行っていた“性の政治学”みたいなロジックを、当時の“ナウい”文化であった広告の世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」といったような批判であったかと思います。
 本書も全く同様のことが言えるでしょう。つまり、「今のフェミニズムで流行っている“ジェンダー論”みたいなロジックを、今の“ナウい”文化であるアニメの世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」ということです。
 何しろ本書が出たのは『エヴァ』ブームの熱も醒めやらぬ1998年。アニメをサブカル的文脈で語ることが大流行していた頃でした。
 ただ、著者の斎藤美奈子師匠はいわゆるオタクではないと思います。フェミニストの中でもオタクは大勢いるのですから、そういう人たちが書けば(思想書としてはいずれにしてもどうしようもないでしょうが)突っ込まれることも少なかったでしょうに、詳しくもない人が安易に手を出したのが運の尽き、オタクのツッコミにあってフェミニストの嘘がバレてしまった、とそういうわけです。その意味でオタク文化はまさに「バカ発見器」と言えるかも知れませんね。
 しかし考えると十年ほど前、ぼくは『仮面ライダーアギト』が教科書に載っているとの話をネットで見た記憶があります。アギトに変身する津上翔一は家事が得意であり、「男も家事をする時代」的なプロパガンダに利用されていたわけです(ただし、何かのガセである可能性もゼロではないので、話半分に聞いておいてください)。
 事実、戦隊などでもここ二十年くらい、モモレンジャー的女性隊員が家事をするシーンは描かれてないんじゃないでしょうか。いや、ぼくも全部見ているわけではないので、これも絶対ではありませんが。一方、男性ヒーローの家事シーンはものすごく目に着きます。男の子がそんな日常シーンを喜ぶはずもないのですが、まあ今の特撮のメインターゲットは主婦なので、彼女らが喜ぶシーンが第一に優先される傾向にあるわけです。
 そうした、既に「勝ち組」として世間に絶大な影響力を持ちながら(粗雑な著書が教科書に載るほど、です)しかしいまだ自分たちは「被害者」だとのアイデンティティを頑迷に持ち続けるフェミニストの図々しさというのは、一体何なのでしょうか。
 そもそも「紅一点」も何も、本書が出た十四年前から戦隊シリーズの男女比は3:2になっていますし、『セーラームーン』や『プリキュア』といったスーパーヒロイン物の男女比率は5:0、10:0といった圧倒的な女性優位。これは女性たちに「
レズソーシャル」という悪しき心理があるからなのですが、それを学会で発表すると追放されるので、仕方なく黙り込むしかありません。
 そしてまた、想起せずにおれないのが『男女論』です。本書の五年前に出たこの本で、既に山崎浩一さんは時代が女性多数、男性一人の「黒一点」になりつつあることを指摘していたのです(これは当時流行したトレンディドラマについての話なのですが)。
 本書は出版された当時から、圧倒的に古い、と言わねばどうしようもない代物だったわけです。
 ただし、上の戦隊やセーラー戦士たちの男女比率については本書にも言及があります。自分の仮説と現実とに致命的な齟齬が生じようと看板は下ろさない。その強い勇気がフェミニズムを今の地位に押し上げたことに、議論の余地はありません。
 以下、多少詳しく本書を見ていきましょう。


 本書では男児向けアニメに対して、大昔のPTAが書いた本のような硬直した批評が並んでいます。
 ヒーロー物の価値観を「地球ナショナリズム」「人類エゴイズム」と腐し、それに相反するオタク的な評価(例えば、「ノンマルトの使者」を見よ、といった)を採り上げつつも「そんなのは大人の言い訳だ」と一蹴。防衛軍が「親方日の丸」な組織だからケシカランだの、防衛軍の構成メンバーが日本人ばかりと言った指摘も、あまりに古すぎます。
 また彼女にかかっては防衛軍はセクハラ天国であり、女性隊員は被セクハラ要員である、となってしまいます。まあアニメのシャワーシーンやパンチラをセクハラだと感じる女性がいても不思議ではないけれども、90年代にそんなのはもう、ほとんどなくなってたよなあ……。
 ヒロインが美人であることにも涙目の筆致で、「採用差別が堂々とまかり通っている」「履歴書にはスリーサイズなども書かせているにちがいない。」などと大暴れ。『ウルトラマンティガ』の防衛組織GUTSの隊長が女であると言及している辺りは、彼女にしてみれば結構頑張った方でしょうが、「クラブのママみたい」と毒づくのは忘れません。
 笑ってしまったのは悪の組織の解説。「××団、ダーク××、ブラック××、デス××などと名乗る悪の秘密結社」っていつのセンスだよ!?
 悪の組織では比較的女の地位が高いことを指摘するのはまあ、面白いといえば面白いのですが、へドリアン女王はトップと見せかけて実はナンバーツーだってアンタ、何を見ての勘違いだ?(『サンバルカン』を見てそう思ったんでしょうか?)
 とにもかくにも、筆者の見識はあまりにも時代遅れです。おそらく子供の頃の記憶に多くを頼っているのでしょう、本書で漠然と「アニメ」と称される時、そこでは70年代のアニメのステロタイプなイメージが垂れ流されます。
『ヤマト』の森雪など当然、「母性」を強要された許されざる女性像です。


しかしまあ、この程度の単純な女性観が、当時の単細胞なアニメファンのレベルにはぴったりだったのであろう。


 いや……『ヤマト』って女性ファンがいっぱいいたんですけどね……。
『ガンダム』でセイラがガンダムで出撃、苦汁を舐める描写は女を小バカにしていて許せん、ミライは「軍国の母」で許せん、とにかく『ガンダム』ヒロインズは「『男の目を通してみた女』以上の存在ではない」から許せないものであるようです。
 さすがに90年代を代表する『エヴァ』は粗末に扱えなかったのか、ある程度の「評価」をしています。自己犠牲的母性を演じさせられる綾波については、クローンである設定がそうした女性的性役割を「批評」しているのだと解釈し、アスカに至ってはその活躍ぶりが結構お気に入りのご様子(テレビシリーズ後期の挫折はむろん、「男社会で不当に虐げられた女性」のメタファなのです)。


 上にも書いたように著者はオタクじゃないのでしょうが、学者というのは研究に対象に対して「オタク」になることが求められる職業であり、彼女の研究の粗雑さは、本書の説得力を大きく損なうものだと言われても、仕方がありません。
 何しろ、驚いたことに彼女は「ここでは『美少女戦士セーラームーン』と、続編の『セーラームーンR』の二つを中心にみていこう。」と言い放ち、『S』やそれ以降を無視しているのですから。「男装の麗人」にこだわる著者がセーラーウラヌスのチェックを怠るとは
まさに大失点でしょう。
 また彼女は『ガッチャマン』の白鳥ジュンを「本格的に戦った紅の戦士のおそらく第一号」と言っています。『ガッチャマン』は1972年10月放映開始ですが、それ以前にも「紅の戦士」(戦うヒロインを指す著者の造語)は大勢いました。
『ウルトラマンA』は1972年4月。Aは男性隊員と女性隊員の合体変身で誕生するヒーローでした(著者は「戦う女」であるフジ・アキコ隊員を輩出した『ウルトラマン』を異常に称揚しているのですが、『A』の方は知らなかったんでしょうか?)。
『トリプルファイター』は1972年7月。これは男女の隊員がそれぞれ変身、更に合体することでトリプルファイターになる作品です。オレンジファイターに変身する早瀬ユリは変身前もアクションをこなし、ドラマ的にも結構頑張っていました。
『仮面ライダー』に山本リンダが出るのが71年7月。まあ、さすがに彼女をスーパーヒロインとするのは無理がありますが、何しろ戦闘員は倒してましたし。『謎の円盤UFO』(日本では1970年放映)にも女性ばかりの戦闘機部隊・エンジェル隊というのが登場しました。フィクションの世界では女性戦士の活躍は、昔から多くあったわけです。


 とはいえ、翻って、実のところ女児向けアニメについての指摘には、頷かされる部分も結構ありました。
 女児向けアニメは科学革命以前の魔法の世界、正義のチームは友だち同士の仲良しグループ、学校生活や家庭生活のたっぷり描かれる「私生活」の世界だという指摘は別段間違っていません。
 セーラームーンの戦いはセックスのメタファという『アニメの醒めない魔法』の指摘の引用もまた、しかりです(そんなこと言ったらヒーローの鉄砲や剣もペニスのメタファでしょうけれど)。
 女の子の変身は「シンデレラ」と同じメイクアップ、というのもまさに現行の『プリキュア』シリーズにまで通用する指摘です。
 アニメのヒロインは「恋愛ボケの色ボケ」であり「小中学生にして、このありさまでは、まったく将来が思いやられる。」まあ、俺もそう思いますw
(確かに、『プリキュア』に慣れた後で『セラムン』を見返してみると、あいつら延々「彼氏が欲しい彼氏が欲しい」言っててちょっと呆れるのは事実です。それも時代かなあ)。
『クリィミーマミ』を筆頭とするスタジオぴえろ制作の魔女っ子がアイドル歌手なのにも、著者は「男の子の国のヒーローが地球を守るために戦っているのをしり目に、アイドル歌手だ?」と怒りをぶつけます(『ペルシャ』もアイドル歌手だと、バッチリ誤解して解説しています)。それって、「男の方が苦労してる、大変だ」ってことだと思うのですが。


 本書も後半になると、宮崎アニメが俎上に載せられます。
 宮崎アニメは近代/反近代、文明/自然といった対立構造を持ち、またそれがそのまま男性性/女性性へとスライドしているわかりやすさもあって、比較的肯定的な評が書かれます。ただ、「男性=文明/女性=自然といった図式は何事ぞ」といったフェミニズムお決まりの文句のつけ方はしていますが。
『コナン』のラナは待ってるだけのヒロインでダメ。
 モンスリーは「本来の女性性を抑圧した」ヒロイン(事実、ラストでは結婚する)として描かれているからケシカラン。
 ナウシカやクシャナについては結構高い評価が与えられるのですが、その一方で今度は彼女らの振る舞いを「男性の性役割をトレースしただけだ」と否定し出します。
『もののけ姫』は「女が戦う者、男はいさめる者」であり、女を低く見ていて許せぬ、とばっさりです。70年代にはその図式が逆だった、といったことは彼女の頭にはおそらく、ないのでしょう。
 ただし、宮崎アニメの根底に流れる「近代(男性性)が救えなかった世界は、反近代(女性性)によって救われるのではないか、という
」感覚に対して「勘違い」と切って捨てている部分は卓見ではあると思います。それはまず誰よりもフェミニストが口走り、また小銭を稼ぐために利用していた思想だろうと言いたくはなりますが。


 彼女はアニメのヒロインを「クインビー症候群/バタフライ症候群」という言葉でまとめます。前者は海外のフェミニストの造語で「男に媚びることで男社会に取り入る、女性解放の足を引っ張る女」。後者は彼女の造語で「伝統的な女性の性役割を全うする女」。男児向けのアニメのヒロインが前者、女児向けアニメのヒロインが後者だというわけです。
 ぼくは上で、女児向けアニメのヒロインを腐す部分に頷かされた、と書きました。
「戦う女」として当時は結構フェミニズム的な評価がなされていたはずの『セーラームーン』に対してすらそれほどの評価を与えていない点については、なかなか痛快ではありました(この辺については後述)。
 しかしナウシカやクシャナ評の辺りで、みなさんにもお感じになったのではないでしょうか。今までヒロインたちの女性性をあそこまで苛烈に否定していたのに、男性的なヒロインが登場するや、それもまた否定では、じゃあどうしろっての? と。
 本書終盤で彼女は


 大人には、子どもたちに多様な職業、多様な大人の像を示してやる義務がある。女の子向けのアニメは、夢の職業に変身するというテーマを、一時期、せっせと追いかけていた。それが常に看護婦さんやスチュワーデスであり、アイドル歌手に収斂されていったのは、大人の怠慢以外のなにものでもなかろう。『キューティーハニー』の七色変化は、小学生の女の子の人気投票の結果を反映させた職業イメージだったというが、小学生にマーケティングしてどうするのだ。多様な職業のイメージを与えもしないで「女の子はみな看護婦さんがスチュワーデスになりたがっている」と判断するのがはたして大人の仕事だろうか?


 などと言い出します。
 いやはや、学者センセイはノンキで羨ましいことです*。ぼくが編集者さんに「売れないだろうけど、敢えて俺のポリシーに適うヒロインを書かせてくれ」なんて言った日には編集者は切れて文庫本一冊を書き上げたところでいきなり原稿をボツにして「原稿料は払わん」とわめいたり、乗り気になっていた企画を急に「どうしようもないってことですよ」と放り出したり、数ヶ月前には問題視していなかったメールの文面について蒸し返して「あの文章は傲慢だ」と泣き叫んだりと、いろんな異常行動に出ることでしょう


*すみません、素で間違えていました。斎藤師匠、学者センセイではなく作家センセイでした。それで商業主義を全く理解せずこんなことを言うのだから、よっぽどエラいセンセイなのでしょう。羨ましいことです。ぼくも一度でも編集者の前でこんなことを口走ってみたいと思います。

 

アニメの国には、女性の権利や解放に心を砕くヒロインがまったくといっていいほどいなかった。

(中略)

女だからという理由で不当な扱いを受け、くやし涙にくれる少女を、アニメの国は積極的に描いてきただろうか。組織の差別的な待遇に抗議するような女性隊員は? 上司や同僚や視聴者のセクハラに断固たる態度を取った紅の戦士は?


 あの~~、アニメでマスターベーションがしたいなら、同人誌でそういうのを描いてはいかがでしょう? 「紅の戦士」とやらが蛸壷くらい男性隊員をいじめるやつ。売れないでしょうが、国策で税金じゃぶじゃぶ投入してくれると思いますよ、クールジャパンの百倍くらい。それに文句を言うのは俺以外、誰もいないと思いますよ。
 繰り返すように彼女が全否定する『ヤマト』を見て感動した女性ファンは大勢いますし、『セーラームーン』に至っては「フェミニズムの視点の入ったアニメ」といった(勘違いな)評が当時、多く聞かれました。
 しかし彼女にとっては、その全てが許せないものなのです。
 この辺りを見ていて、ぼくは北原みのり師匠を思い出しました。彼女もまた「女性の性の解放のために女性のためのエロを作る」と自称しつつ、実のところ自分のお眼鏡に適う表現以外は認めない、極めて硬直した人物でした。
 そもそも、女性的な女性も男性的な女性も認めない、男性性も悪、女性性も悪で、自縄自縛に陥っているのがフェミニストなのですから、どんなヒロインに対しても文句が出るのは、当たり前のことです。
 彼女は魔法少女たちのコスプレについて


セーラー服、スチュワーデス、看護婦、パッツパツの水着状レオタード……といった服装(と大人の女の肉体)に幻想を抱いているのは、本当に小さい女の子たちだろうか。むしろ大きい男の子ではないのか。


 などと言います*。
 考えると、『セラムン』が出て来た時、セーラー服をモチーフにしたパッツパツの水着状レオタードというそのコスチュームを見て、ぼくの知人たちが「オタク受けを狙ったあざとい作品で云々」と言っていたことを思い出します。つまりこうしたものを女児が喜ぶということを、当時の彼らは理解できなかったのです。
 しかしまさに『セラムン』がきっかけで萌え業界に女性クリエイターが多数流入したことが象徴するように、そうしたコンセンサスはもはや、古いものなのではないでしょうか。今の『プリキュア』人気を見てもわかるように、女児はあのセーラー戦士たちのコスチュームを支持したのです。
 何故か。
「女の子は、色っぽい女の子が大好き」だからです。
 今時、それがわからないのは斎藤師匠のようなフェミニスト、中でもかなり古い勢力だけなのではないでしょうか。
 斎藤師匠は「魔法少女は父親から見た理想の娘」とも言います。


戦ったあげく、宝物=バージニティは守られるのだ。この結末にいちばんホッとし、快哉を叫ぶのはだれか。男親である。


 などとわめくに至っては笑うしかありません。バージニティ云々というのは、戦いがセックスのメタファという仮説が前提されているのですが、ここへ来ていきなり父親が「女児向けアニメ」を熱心に見ているという設定(妄想)が立ち現れてきます。
(まあ、ただ、作り手が男性の場合、娘に対する「父親」的心情でこうした作品を作っているということは、ある程度は言えるかも知れせんが)
 彼女が何故こんな奇妙な妄想に取り憑かれているか、おわかりになるでしょうか?
 かつて、レディースコミックが大流行した時、フェミニストたちは大いに困りました。
 ポルノとは男性支配社会の作り上げた「レイプ」のためのテキスト、女性差別そのものであるはずなのに、女性たちがポルノと変わらない性的表現を楽しんでいること、そしてそうした漫画の中では「結婚=女の幸福」といった価値観が揺らがずにいることが、彼女たちにとっては絶対に許せないことだったのです。
 結果、『レディース・コミックの女性学』という本が書かれ、レディースコミックが上のような内容を持っているのは、「男社会の陰謀」と説明されました。
何か、編集長が男なので女性作家に命令してそうしたものを描かせているのに決まっているのだそうです。
 本書の構造も、笑ってしまうくらいそれと同じです。女児向けアニメで貫かれている価値観(恋愛至上主義、女性美の称揚)がどうしても許せないものである以上、それは「男が女に押しつけているのだ」という裏事情がなければ、どうしてもならない。そこで急遽、まさに「行き当たりばったりでいきなり最終回に登場したラスボス」のごとく、ここでは「男親」という名の悪者が、立ち現れてくる必要があったのです。
 要するに斎藤師匠のスタンスはわかばっちさんのような、ポルノ規制派に近いと考えればわかりやすいでしょう。いや、これはあくまで比喩で、ポルノそのものに対する斎藤師匠のスタンスがいかなるものかは存じ上げませんが。
 ぼくは以前にも、わかばっちさんのようなポルノ規制派を肯定するようなことを書いてきました。いずれにせよフェミニストたちの意見には同意できませんが、論理的整合性を無視してポルノを容認しているかのようなフリをする(オタクの味方のフリをする)フェミニストたちに比べれば、「正々堂々と」戦いを挑んできているだけ、まだしも誠実だと考えるからです。
 斎藤師匠に対するぼくの感想もまた、それに近いものです。
『セラムン』が出て来た時、当時のフェミニスト、進歩派たちは単にセーラー戦士たちが男児向けヒーロー物をトレースして、悪者と戦って見せただけで快哉を叫んでいました。
 とは言え、セーラー戦士たちは女性らしい「癒し」の力で戦う戦士であり、斎藤師匠も指摘するそのミニスカート、「メイクアップ」など、女性性を全く捨てていない存在でもありました。こうした作品を手放しで喜ぶフェミニストたちに、ぼくは当時、大いに不信感を感じました。女性性をあそこまで押し出し、女性としてのナルシシズムをあそこまであどけなく享受している『セーラームーン』を持ち上げつつフェミニズムを語るような人々に比べれば、まだしもそれを否定してみせる斎藤師匠の方がその誠実性には信頼が置ける、と感じるわけです。


*本書には「オタク」という言葉も、オタクへの言及もかなり少なく、「萌え」という言葉すら(確か)一度も出てきません。オタクを敵に回したら面倒だという思惑もあったのでしょうが、この時期の著書としてはいささか異色です。


「悪の女王」は今まで専ら、男児向けヒーローアニメばかりを攻撃対象に選んでいました。それは「戦争は悪だ、平和は尊い」といった世間のコンセンサスとも相性がよく、男児向けヒーローはかなり骨抜きにされてしまいました。
 しかし「悪の女王」の真の憎悪の対象はヒーローたちではなく、実はミニスカからまぶしい四肢を剥き出して戦うあの女児向けヒロインたちでした。
「悪の女王」は時代遅れのロジックで行政の中枢にまで浸食し、女児たちの感性を否定するために「教育」までをも支配下に置きました。
 それはまるで、『フレッシュプリキュア!』で二十年ぶりくらいに描かれた、「コンピュータの支配する、人の美しさや楽しさ、喜びや優しさを求める心を暴力で否定する、悪の帝国」のように。
 しかしぼくたちにはまだ希望が残っています。
 華麗なコスチュームをひらめかせながら格好よく、可愛く戦う伝説の戦士プリキュア――女児の圧倒的支持を得ているそんな彼女らの姿そのものが、「悪の女王」に対する最大の武器となるはずです。
 ――つまり、「悪の女王」の独裁国家は「萌え」に敗れ去ることになるのです。


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