兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

愛情評論

2012-08-30 20:26:20 | アニメ・コミック・ゲーム

「選ばれし者たち」のみなさんこんにちは。
 女災の専門家・ドクター女災です。
 長らく怠けておりましたが、最低一ヶ月に一度くらいは更新しておかねばヤバいだろうということで、バタバタする中、ちょっと片づけておこうかと。何だか夏休み最後の日に慌てて宿題に取りかかる小学生の気分です。
 さて、女災の専門家、私・ドクター女災はここしばらく、藤本由香里師匠について研究してまいりました。今回採り上げる『愛情評論』は今のところ師匠の最後の著作となっており(インタビュー集などは除く)、これで師匠の著作は一応フルコンプしたことになります。
 ……が。
 あとがきでは「またまた濃密な本を作ってしまった。」と自賛がなされているのですが、本書に対する女災の専門家私・ドクター女災の読後感はぶっちゃけ「軽いな」というものでした。新聞などに書いた短文を寄せ集めて編まれていることが、その原因となっているのでしょうが……。
 また、本書は2004年の出版です。初出を見てもゼロ年代になってから書かれたものが多いのですが、本書に対する女災の専門家私・ドクター女災の読後感はぶっちゃけ「古いな」というものでした。
 女災研究の第一人者、私・ドクター女災は今までも藤本師匠の著作を採り上げては「古い古い」と言い立ててきました。が、今までは90年代の著作で、しかも初出はその前半、つまり今から二十年以上前に書かれた文章が多く、やむを得ない部分もあったかと思います。しかし本書を見てまだなお「古い」と感じたとしたら、その原因はどこにあるのか。
 今回はその辺りを中心に、女災の専門家私・ドクター女災と共に本書を見てまいりましょう。


 


 正直まとまりに欠けると感じられる本書ですが、副題に『「家族」をめぐる物語』とある通り、家族論が一応、メインテーマになっていることが想像できます。
 一番最後に収められた「家族の現在」という節を見ると、採り上げられている作品は『こどものおもちゃ』であり『赤ちゃんと僕』であり、柴門ふみの『非婚家族』。何とはなしに本書の「古さ」が感じられるのではないでしょうか。
 お断りしておけば女災研究家私・ドクター女災にとって『こどちゃ』、『赤僕』は両方とも好きな作品です。『赤僕』は今読み返してもきっと楽しめるだろうし、それはつまり恐らく、この作品が「時代性」ではなく「普遍性」を強く持った作品であるということではないかと思います(師匠は本作の舞台が父子家庭という「変形家族」であることを理由に本作を持ち上げているのですが、主人公たちの母親は単に交通事故で亡くなっただけで、藤本師匠のような思想を、この漫画の作者が共有しているとは全く思われません)。
 一方、『こどちゃ』はある種、極めて先鋭的な時代性を持った作品で、ご多分に漏れず女災研究の第一人者
、私・ドクター女災も放映当時、アニメにハマっておりました。アニメの面白さについては主人公の紗南を演ずる小田靜枝さんのハイテンションな名演技、そして名監督、大地丙太郎さんの演出に寄るところが大きいものの、原作もそれに負けず大変面白いものです。
 ただ、アニメ版最終回、紗南ちゃんが「悪役の大人」へと「子供のあたしがこんながんばってんだからしっかりしてよ大人たち(大意)」と啖呵を切って終わるのは大変残念でした。本作をそういう「子供へとマイノリティ憑依」して大人を一喝していい気分になるような、薄っぺらな作品であるとは、思っていなかったからです。また、紗南ちゃんの母親の「わざとらしい変人ぶり」はちょっと見てて、苛つかないでもありません。考えると『赤僕』も(ほんのちらっとではあるものの)オカマのお父さんを持つ少年であるとかが登場してきたりしたものです。
 つまりこれら作品が描かれた90年代には、ある種「異形なものを描写すること、それがただちにいいことなのである」といった単純さがあった気もします。ぶっちゃければオカマだの母子家庭だのと言った「異形」や「マイノリティ」への共感が「正義」の「新ネタ」として選ばれ、誰もがその価値に疑いを差し挟まなかった時代だということです。今もそうした「マイノリティ」の絶対性に疑いを持たない人も大勢いますが(同時にそうした人たちの称する、「マイノリティ」を差別する層がいまだいるとの主張もまた、理がないとも思いませんが)、今は多少なりとも風通しがよくなっていることと思います。


 

 まあそれはさておき、師匠の目は専ら、「結婚の解体」に注がれています。
 上の二作を評価しているのも何のことはない、それらが単身家庭を舞台にしているからです。
 そして更に師匠は、


 

「結婚」というのはもはや流行ではないのかもしれない。近頃つくづくそう思うようになった。

 


 などと口走り、『非婚家族』を持ち上げます(離婚した元・妻と事情があって再び同居するようになるが、恋愛感情やセックスはない、といったような話だそうです)。
 なるほど、女災問題の第一人者である私・ドクター女災が「フェミニズムとは家庭解体の思想である」とかねてより主張してきたことが、ここでも実証されるわけです。
 この後、師匠は続けます。

 


 それ(引用者註・「結婚」の解体)は、同時に「家族」の解体をも意味するだろうか?
(中略)
 だが人は、「結婚」は手放しても、また「血縁」は手放しても、実質的な「家族」を手放すことはこの先もずっとないだろう。

 


 れれっ!?
 家族は否定なさらないのだそうです。
 この後、話は核家族批判、大家族上げになっていきます。それはそれでまあ、別に構わないのですが、そういうの、フェミニストは嫌いそうな気がするんですが。
 他に、師匠の提示する「血縁」も「セックス」も否定した家族を創造するという手もありますが、それって単なる気のあう者同士の共同生活でしょうに。
 こういうのはつまり、「家族解体論」ではなく、差し詰め「家族変形論」とでも言うべきなのでしょうか(どっちでもいっしょじゃん、とも思いますが)。
 考えるとそれこそ90年代前半のゲイブームって、こうした「家族変形論」と連動していたように思います。この当時、「ゲイ」を「イケメンで、お料理も上手で、繊細な女の気持ちをわかってくれて、しかも性欲は持たない下僕*」として扱うような女性向けの漫画をよく見かけたものです。要は美味しいとこだけを食べたいだけじゃねぇか、っていう。
「結婚」も「恋愛」も否定し、しかし「家庭」は持ちたいと望む藤本師匠。
 しかし具体案としては上にも書いた通り、「女友だちとの共同生活」くらいしか提示することはできなさそうです(師匠的にはそこに男とのセックスを伴わない同居とか、養子を育てるとか、オプションを入れたいところでしょうが、別に新しいとも思えないし、それほど普及するとも思えません)。

 


*奇しくも本書において師匠は、


近頃、若い女の子たちの間で「下僕」とか「しもべ」が流行っている。


 といった一文を書いています。
 読んでいくと「少女漫画でそういうのがよく出て来る」というだけのハナシ。しかしいわゆるバブル的な「アッシー君」の概念とは違い、「下僕だけど本命」として書かれてるのが新しいのだそうです。まあ「だから何だ」って感じですが。

 


 ここで、女災の専門家私・ドクター女災はふと上野師匠の『おひとりさまの老後』を思い出しました。
 この本では婆さん同士が仲よく老後の共同生活を送るという夢想が語られ(そんなの、国家から金を巻き上げてひと財産成したフェミニストにはできるでしょうが、貧乏人には実現不可能でしょう)、続編の『男おひとりさま道』では「女たちは仲よく連帯しているが男たちは友だちもおらず、孤独だ」とのフェミニストたちだけに共有されている妄想を根拠に男を小馬鹿にしてドヤ顔です。
 が、言うまでもなく『おひとりさま――』がベストセラーになったのは、フェミニストによって女の幸福を奪われた女性たちの中に「そうなることへの危機意識」が強くあったからこそです。同時に「婚活」ブームが起こり、「このまま結婚できないのかと思うとぞっとする」的な内容のJポップが若い女性に支持され、大ヒットしているという事実は、フェミニズムの思想的な全面敗北を意味しています。
 裏腹に上野師匠は『おひとりさまの老後』でさんざっぱら儲けたわけで、まさにこれは(思想的には敗北でも)経済的には自作自演によるフェミニストの完全勝利。「結婚」を否定して女性たちを不幸のどん底に叩き込んだフェミニストの最後の荒稼ぎ、『ヤッターマン』前半におけるインチキ商売で稼いでトンズラするドロンボー一味の最後っ屁のようなものでもあります。
 そしてドロンボー一味が逃げた後に残されたのは、馬齢だけ重ね、金も搾り取られた未婚女性たちの屍の山。限られた富裕層、そう、繰り返しますが例えばフェミニストを除き、未婚女性の老後は決して明るくないわけです。

 


 さらに、ここで更にもう一つ、思いつくことがあります。
 山崎浩一さんは『週刊アスキー』の連載で「アラフォー女の心の闇」に触れて、


 

 マスコミでは“結婚したくない女vs結婚できない男”という図式が定説化しているが、現実は全く逆で、むしろ男こそがいまどきのリアル女との結婚から逃げまくっている、というのが真相のような気がますますしてきた。フェミニズムは実は女を資本主義に呪縛し、男を家庭から自由にしてくれる男性解放運動だったのである。


 

 とおっしゃっていました。冗談半分とは言え、あまりにも痛烈で女災の専門家、私・ドクター女災も著作に引用させていただき、そしてまた山崎さんが著作の書評をしてくださった時にも、繰り返し同じことをおっしゃっていました。
 こうして藤本師匠の「本音」を上野師匠の著作から推し量り、そしてまたそれに山崎さんの指摘を照らし合わせてみると、面白い仮説が浮かび上がってきます。
 フェミニズムは今まで「結婚」も「家庭」も否定してきました。藤本師匠が「家庭を否定しない」と言っているのも単なる言葉のアヤで、実際には一般的な家族観には強い憎悪を抱いているわけです。
 そしてまた、それが「結婚」や「家庭」を志向する一般的な女性の価値観と絶望的に乖離していることも、繰り返し述べてきました。
「家族変形論」とでも言うべき藤本師匠の着想は、恐らく師匠にも「温かい家庭」に憧れる心情があり、しかし男性への憎悪も捨てきれないという自己矛盾から、知恵を絞ってひねり出した苦肉の策であるように思われます。しかしそれは上にも書いたようなホモを下僕君にするような歪んだものか、上野師匠の夢想するゆるゆりトキワ荘のようなものにしかならない。
 しかし――上にトキワ荘という比喩を使ったように、それすら男性の方に一日の長があるものでした。むしろ「ホモソーシャル」であると否定した上で、それをかすめ取ろうというのがフェミニストの作戦ではなかったでしょうか。
 上のドロンボーの作戦で言えばダイヤをガラス玉であると鑑定しておいて、「じゃあ処分しておきますね」と称して持ち逃げするような……すみません、インチキ商売と言えるレベルのものじゃありませんね、これでは。

 また、以前にも書きましたが男同士の絆はダイヤと言うよりはタクアンの切れっ端程度のもの、と表現した方がいいかも知れません。


 

 最後に。
 駆け足でまとめますが、今回注目した「家族の現在」という節の前には「少年たちの居場所」という節が収められています。
 そこでは『ドラゴンヘッド』、『殺し屋1』といった作品を並べ、現代の男の子たちの生き難さについて述べられています。
 この十何年は「女の内面」に商品性がなくなり、少女漫画もフェミニズムも失墜していった時代でした。師匠の他の著作を見ても、「少女漫画が最先端であった時代」への郷愁以上のものを喚起させられることはありません。
 前にも書いた通り、『エヴァ』があの時、「内面」を男の子へと奪還してきてしまったのでしょう。上の節はその意味で『エヴァ』評論のバリアントであり、男の子の内面の辛さというものが無視できなくなりつつある時代を象徴しています。
 言ってみれば、本書は分岐点に立った時代のフェミニストの著作でした。
『エヴァ』ブームの時、フェミニストたちは問われたのです。
「あなたたちは男の子に寄り添う道を選びますか、男の子が持つ最後の頼みの綱であるタクアンの尻尾を盗み取る道を選びますか」、と。
 そして彼女らがどちらの道を選んだか。
 それはもう、女災の専門家、私・ドクター女災が言うまでもなく、みなさんもうおわかりのことでしょう。


 

 

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