兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ドラえもん論 すぎたの新強弁

2020-05-02 20:39:32 | 弱者男性


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――さて、みなさんお待たせしました、先週の続きです。
 待ってない方々は前回記事から読み進めていただくことを、推奨します。
 いよいよ以降は杉田師匠流の「フェミニズムで読み解く『ドラえもん』」です。

●ジェンフリ世界

 以前、『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』について語った時、ぼくは『ドラえもん』がアメリカに進出したというニュースをご紹介しました。その時、「グローバルスタンダード」にあわせてしずちゃんの性格がボーイッシュなものに改められることになった、と報じられたのですが、それに対して藤子マニアが「元々しずちゃんは行動的な女の子だ」と主張していたのです。その時に、マニアが持ち出していたのが80年代に描かれた「男女入れかえ物語」という、しずちゃんとのび太が身体を入れ替える話。「しずちゃんが女らしくてどこが悪い」と堂々としていればいいのに、わざわざ例外的な話を持ち出して強弁しなくても、と思ったものです。
 さて、では、本書では……?

 しかし、しずかには男女の身体が入れ替わるという話も多く、終盤にいたると、じつは男の子的な性格もうちに秘めていた、ということが明らかになります。
(61p)


 はい、案の定ですw
 もっとも何故かタイトルは記されていませんが(人間の身体が入れ替わる話は確かに多いですが、ジェンダー的な問題に言及されるのは上の話くらいじゃないかなあ……?)。
 また、そもそもしずちゃんが配偶者として出木杉でなくのび太を選んだのも、実はしずちゃんが男性性を持った女性だったからだそうです。あぁ、そうですか。
 それと、ぼくが上の記事で書いた通り、出木杉君が「これからは男も料理ができなきゃ」と説く話についても嬉しげに言及がなされています。
『ドラえもん』は膨大な作品数を持つコンテンツ、もうそれ自体がアカシックレコードのようなもの。そこから恣意的に要素要素を抜き出せば、何だって言えてしまう。師匠は『ドラえもん』をそんな風に政治利用している、ドラシックレコードを悪用しているだけなのです。
 そう、稲田豊史師匠の著作は嘘を根拠に、次々とのび太に冤罪を着せ、何かその勢いでロスジェネも死ねと呪うものでしたが(註・「死ね」とは言っていません)、杉田師匠の著作は何とか『ドラえもん』を自分たちの味方に引き入れようと、悪戦苦闘するものであると言えるのです。
 例えば、こんな記述があります。

 ところで、『ドラえもん』には、現代の価値基準でいえば、保守的・性差別的な面がまったくない、とは言い難いかもしれません。
(65p)


 そら来た、と思いながら読み進めると、「オトコンナを飲めば?」ついての言及が始まります。
 同作はぼくも上の記事(『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』)で「70年代に描かれた、ジェンダー規範をよしとした話」の例として言及しましたが、師匠の採り挙げ方は、サッカーを嫌うのび太が「あんな野蛮なものを男らしいスポーツと決めたのは誰だ」とぼやくシーンを嬉しげに称揚する、というもの。
 いや、そう言うのび太の願いを受け、ドラえもんが「オトコンナ」で男女のジェンダーを入れ替えたものの、のび太は「やっぱり元のままがいい」と言って終わるのだから、上のセリフは作品としては否定されているのですが。
 皆さんご承知の通り、のび太はあやとりや居眠りが特技。それぞれ「あやとり世界」、「ねむりの天才のび太」といった話で遺憾なく発揮されますが、師匠はその後者を持ち出して、のび太の「居眠りをしていれば戦争も起きない」といった発言を引用して大はしゃぎ。
 要するにのび太はしずちゃんの入浴を覗くけれども、男性ジェンダーに揺らぎを感じている存在であり、だから見どころがあるのだ、というのが師匠の言い分です。男性性に欠けたのび太は、何か、秩序の攪乱者なんだってさ。
 後、「あやとり世界」では「手がゴムまりであやとりができない」ドラえもんがすねてしまいますが、これは何か、障害者の排除を暗喩していて、深いんだそうな。
 しかし、当たり前の話なのですが、これら「男性性に欠ける特技」は基本、のび太の欠点として描かれるのです。
 藤子Fはのび太について、「これじゃダメだということはわかっている」のだと述べていました。現状に決して居直っているわけではないことが、のび太の長所であると。上の二作品はもちろん、のび太があやとりや居眠りを肯定する、いわば「居直ろう」とする話ではありますが、だからこそしっぺ返しのオチがつくわけです。
 そこを、師匠は長所であるかのように言わんとしている。
 師匠も言及する通り、『ドラえもん』は「弱さの肯定」がその本質というのは、ある意味では正しい。しかしそれは「男の子なのにあやとりをするなんて素晴らしい」と説く種類のものでは、全くない。そこを師匠は曲解しているのです。

●聖女ジャイ子?

 さて、動画にもあったように本書、ジャイ子について実に饒舌に述べられています(といっても、ホンの5pで、劇場版に比べれば微々たるものですが……)。
 師匠はジャイ子を「驚くべき成長を遂げている」とします。
 これはどう評価していいか迷います。ぼくのかつての記事をお読みいただいた方、或いは『ドラえもん』マニアの方は周知でしょうが、ジャイ子はごく初期に「のび太の未来の悪妻」となるガサツな年下の女児として、数回だけ登場した存在。上に初期のドラミが言わば「敵」であったと形容したように、まさに手に負えない「敵」としての登場でした。
 が、長らく忘れ去られていた彼女は十年ほどのブランクを経て、「漫画家志望の少女」という属性をつけ加えられ、再登場したのです。かつてのガサツな性格は姿を消し、(しずちゃんとの結婚が確定したからでしょうが)のび太もまた彼女を忌み嫌ったりはしなくなります。この辺りのキャラ配置の変化を伏せ、恣意的に捻じ曲げることでジャイ子を持ち上げ、のび太を貶めたのが稲田師匠でしたが、「ジャイ子の成長」と解釈するのが杉田師匠です。
 成長というのも間違いじゃないでしょうが、どっちかと言えば作品世界が根本的に変わったがため、ジャイ子もまた変化したということだと思うのですが(例えば、この再登場までにジャイ子自身が自らのガサツな性格を省みて、今のような性格になった、といった経緯は考えにくいでしょう)。
 しかし師匠は

 ジャイ子は本当に気高い女性です。たんなる「結婚によってではなく職業によって自立する女性」というだけにはとどまらない気高さがある。多分のび太と同程度の、もっと過酷なスクールカースト下層を強いられているはずなのに、再登場してからは、少しも性格をこじらせていません。
(76p)


 とただひたすら、彼女を称揚します。
 何しろ彼女のペンネーム、「クリスチーネ剛田」は彼女がキリストのように気高いからだとか何とか、悪いけどもうどっ退きです。
 ジャイ子の「まんが道」を実に丁寧に解説し、称揚する下りは、ことさら異を唱えるつもりはありませんが、しかしいずれにせよ、師匠に限らず、ことジャイ子については女性を中心に大仰に持ち上げすぎ、の感は否めません。何しろ再登場後も初期はジャイアンリサイタルと同じで、「つまらない漫画を無理やり誉めさせられる」というギャグのネタ要員でしたし。
 また、師匠は茂手もて夫との関係性を「漫画を媒介にした友情」だと言い張ります。
 そう、ジャイ子は本来ならば無理目の、女子にモテモテの男子を好きになってしまうのですが、実はそのもて夫も漫画マニアで、趣味をきっかけに仲よくなるのです。
 稲田師匠はこのもて夫を「極力言及しない」ことで抹消しましたが、杉田師匠は「友情なのだ」と強弁するという裏技で乗り切りました。そんなことを言われたって、ジャイ子にはもて夫に対する恋愛感情があるのだと解釈するのが、普通の読み方だと思います(お話ではやたらとジャイアンが気を回すので、「実はジャイ子自身はそれほど好きでもなかったのだ」といった解釈は不可能ではありませんが、そういうのをこそ、一般的には牽強付会というのです)。
 ジャイ子が男無用のフェミニストでなければならない人たちにとって、あくまで彼女は男を知らない聖処女であると信じたい存在なのでしょう。
 何しろ、先に書いたように師匠は(男らしさに欠けるのび太との結婚を選択した)しずちゃんまで男らしいと強弁し、二人の関係は普通のロマンスなどではないのだなどと言いだします(80p)。
 男女の恋愛が嫌いで嫌いで仕方のない師匠は、のび太と出木杉のBL本を作る腐女子くらいに『ドラえもん』を汚し続けるのです。問題は腐女子が隠れてそれをやっているのに比べ、師匠は「俺の読みこそが正しい」と言わんばかりのことですが……。

「てんとう虫コミックス」ではついに実現しませんでしたが、「バカ」で「運動音痴」で「男らしくない」のび太と、「ブス」で「デブ」で「可愛げのない」ジャイ子がもう一度、出会いなおしていたなら(恋愛という意味ではありません)。二人が新たな「心の友」としての関係を結びなおせていたら。その可能性がなかったとは思えません。
(76p)


 あの~~、ですから、お願いしますのでそういう妄想は薄い本で展開してくれませんかね(どうでもいいけどこの「てんとう虫コミックスで」って言い方ヘンですよね。雑誌掲載時や藤子F不二雄全集にはそういう話があるみたいにも読めますし)。

●すぎたの漫画修正記(コンテンツリビジョン)

 動画でも述べたように、フェミニストたちは『ドラえもん』に苛烈な攻撃を加え続けています。それはフェミニズムの目的が「文化を破壊すること」であることを考えた時、道理ではあります。
 しかし杉田師匠はとっても大好きな『ドラえもん』を守るため、フェミ様へと「お許しくだせえ」と頭を下げ続けてくれているのです。
 冒頭でぼくは「しずちゃんは男勝りだ」と強弁する藤子マニアを腐しました。フェミに無理矢理に媚びてどうする、『ドラえもん』とフェミニズムは決して相容れることなどないのに、と。
 本書もまた、全く同様です。
 前にも書いた通り、ことに女性は第一巻における記念写真の中ののび太とジャイ子夫妻を見て、「何のかんの言って幸せそう」などと強弁する傾向にあります。しかしそれならそもそもドラえもんが未来を変える必要はない。最初っから、大前提として、不幸な未来の象徴として、ジャイ子はそこに配置されている。そこすらわからないということはその人は『ドラえもん』を一切理解せずに読んでいるということです。
 杉田師匠の言説もそれと同様で、フェミニズム的価値観を通したいのであれば『ドラえもん』(や、この世にあるほとんどのコンテンツ)は全否定するしかない。
 これはまた、何とかフェミニスト様に萌え表現をお許しいただこうと思っている表現の自由クラスタたちの態度に対しても全く同じであるのはもう、言うまでもないでしょう。
 彼らはこの無理矢理なアウフヘーベンをなす必要に、どうしようもなく駆られている。時々書きますが、これよりの「オタク評論家」の仕事は、このようなものになっていくことでしょう。
『モンティ・パイソン』には軍人たちが勇ましい軍歌を歌っているのが、だんだんと「ママみたいに綺麗になりたいわ♪」といった歌詞へと変わって行き、最後に上半身を軍服で包んでいた彼らが下半身にはスカートを履いていた、オカマであったといったコントがあります。もちろん、男性性に欠けた男を嗤ったものなのですが、DVDのライナーノートには「ホモソーシャルを風刺したもの」などと書かれていたのです!
 何だそりゃ!?
 本書もまた、全く同様です。
 アフターフェミの世界においても、自分たちにとって残すことが有利なコンテンツだけは、フェミの方舟に乗せたい。そのために詭弁を弄する。
 そんな目的のために、本書は編まれました。
 後、これは余談ですが、本書には凡ミスが多いように思います。
 何しろ「ジャイ子」は本名ではないとちゃんと言明してるその1p前に「ジャイアンはジャイ子の兄(あんちゃん)だからジャイアンなのだ」といった俗説を平気で書いたり(76p)、『オバQ』のヒロインを「ミヨちゃん」としたり(222p。これも同ページで「ヨッちゃん」と正しく表記されている箇所があり、わけがわかりません)、「オバQ王国」を「オバQ天国」としたり(223p)。
 一番まずいのは『ドラがたり』の著者を「稲田高広」としているところです(66p)。これは同書の著者、稲田豊史師匠と『ドラえもんは物語る』の著者、稲垣高広氏の名前が似ているがためのミスなのですが、さすがに非道いと感じ、ツイッターで繰り返し、杉田師匠に進言しました。
 ……が、今のところ無視されていますw
 本当に、左派の人たちは惚れ惚れとするほどに、「自分にとって都合の悪い事実の指摘」から目を反らせるスキルに長けていらっしゃいます。すももも、白饅頭も、NHKも、そして杉田俊介師匠も。
 本書の長所として、稲田師匠の本のように明らかな嘘を根拠に話を進めている部分がなかったことが挙げられますが(フェミニズム関係者にしては、大いに、大変に誉めるべきところでしょう)、その代わりにミスを認めないことで、師匠は精神のバランスをとっているのかもしれませんw