兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「オタクコンテンツにエシカル消費はいらない ~青識亜論のネチネチnote~」を読む(その2)

2020-07-12 19:10:50 | 弱者男性


※この記事は、およそ9分で読めます※

 さて、前回の続きです。
 まずは「現代ビジネス」において中村香住師匠による記事、「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」がバズりました。
 それを受けての青識亜論の反論が、毎度のコソクな詭弁を弄したもの。
 詳しくは前回記事を参照していただきたいのですが、青識はフェミニズムを延命するために、フェミニズムを捻じ曲げているのです。
 これはまた、表現の自由クラスタ全体の持つ特徴でもあります。何しろ彼らの淫夢の中では「真のフェミ」はポルノに反対しないそうなのですから。

・新郎は病める時も健やかなる時もジェンフリを信じることを誓いますか

 まずはもうちょっと「性的客体化≒性的消費」にこだわりましょう。

 どんな内容であったとしても、消費することそれ自体が「暴力性」を有するなどということはありえない(上に書いたように、他者にそれを強要でもしない限り)。


 が青識の言い分ですが、これは「仮に青識の前提を受け容れるならば」間違っています。
 何故か。
 まず本稿(青識稿)の冒頭で、青識は中村稿を引用します。

私が前述のツイートで自分を指すために用いた「フェミニスト」は、端的に言えば、ジェンダー平等の実現を求めることに賛同しているすべての人である。もう少し踏み込んで言えば、性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさを問題だと感じ、是正を求める人のことである。


 念のために言っておきますが、上の引用は中村師匠の言です。
 青識これに賛意を示し、

 なんなら私も中村氏の言う意味でのフェミニストではあるし(もちろん事象によって賛否は分かれるだろうけども)、オタクでもある。


 などと言っているのです。
 しかし「ジェンダー平等の実現」とは何を意味しているのか。
「性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさ」の是正とは何か。
 性役割なんて既に、法律上はないに等しいのではないでしょうか。もし「性別に起因する格差」を女性の社会進出率の低さ、政治家などエラい人を占める低さに求めるならば、法律以外の「何か」に原因を求める他はない(あ、男性側に不利な法律はいくつもあるのですが、「フェミ」ニストがそれの是正を求めているとは思えないので、ここでは置きます)。
 となると、論理的には「フェミニズムの役割は終わった、フェミはオワコン」とするか、「その他の『何か』を是正せよ」のいずれかしか、選択肢はない。しかし青識はフェミニストを自称しているのだから、前者のはずはありません。
 となると、その他の「何か」、即ち「ジェンダー規範は悪」というロジックに帰着する他はないのです(もし青識がそれ以外の「何か」を発見したのならば、それをこそnoteに書けば、いっぺんにフェミ界のスターになれるでしょう)。
 事実、青識は中村師匠の主張の

③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。


 ここを、大仰に称揚しています。
 主体的な活動がとにもかくにも好ましいという思い込みこそがフェミニズムの誤謬であり、女性の客体性、受動性(例えば、主婦に収まること)を雑に悪だと見做すフェミの悪癖につながっているのだと思うのですが、こうして見ると彼もまた、そうした世界観をフェミと共有しているのでしょう。
「女性も主体的、能動的たるべし」との「ジェンダーフリー」を好ましいと考えているという他、ないのです。

 一方、中村師匠の「オタク」定義が示す通り、「萌え」とは女性ジェンダーそのものへの愛好が本質であると考える他ない。
 そうなると、「ジェンダー平等の実現を求める」ことに賛成する青識は、「萌え」を、即ち「女性ジェンダーのステロタイプな描写」をしている作品を、批判するべきなのです。
 江口師匠が指摘したように女性が客体的であることこそが、「性的客体化≒性的モノ化≒性的消費」ということになるのですから、女性が受動的なジェンダーを発揮する作品は悪だ、と考える他はないのです。
 男の子に向けて『仮面ライダー』が、女の子に向けて『プリキュア』が放映されている現状はジェンダーステロタイプを強化する方向に進んでおり、ケチカランと、青識は主張すべきです*1

*1『セーラームーン』の頃から、古株のフェミは同作を批判的に見て、オタク世代のフェミは「何か、キモチイイので正義」と理にあわぬ詭弁を述べるという傾向が顕著になってきました。青識的な論者が持ち上げる「真のフェミ」は後者の、フェミとしてすら一貫性のない欺瞞の塊のような人物たちであることは、言うまでもないでしょう。

・暖かなジェンフリを築くことを誓います

 ――いえ、或いは反論があるかもしれません。
 青識自身が「強制性」をこそ重視しているのだから、そこを基準として話を展開すべきだ。そして仮に女性ジェンダーの塊のような美少女キャラばかりが登場する萌え作品でも、その美少女キャラに何らかの強制性が働いているわけではないのだ。
 むろん、この「強制性の有無が性的消費か否かの基準」というリクツ自体が青識の捻り出した詭弁だというのが前回の指摘なのですが、まずそこを受け容れるとすればどうか。
 もしそのような主張をしたいのであれば、青識は「ジェンダーフリー」を支持すべきではないでしょう。そもそもが法の是正などで女性の地位の向上(と、フェミが考えること)が成し得なかったがため、「その他の、ジェンダー規範を強制する何か」がある、というのがジェンダーフリーの基本理念なのですから。
 女性が働きたがらず、主婦を志向する心理こそがけしからぬ、そしてそれは男性の価値観に洗脳されているのだ、その呪いを解かねばならないのだ、というのがジェンダーフリーの理念なのですから。
 フェミニズムには「ガラスの天井」という概念があります。法律を整備しても女性の社会進出がはかどらないのは、女性が「見えない壁」に出世を阻まれているせいである。そしてその正体は、「女はこう、男はこう」と決めつけるジェンダー規範である、つまり、ぼくたちは「ジェンダー規範の刷り込み」という名の洗脳、一種の強制を受けていた、というわけなのです。
 法ではなく人間の意識を変えよという「ジェンダーフリー」は、どうしたって「本来のあるべき意識を、悪者がある種の強制性を発揮して改変したのだ」との前提を最初から内包しているのです。
 フェミニズムは今まで、教育に大いに介入してきました。もちろん、教育は人間の価値観や性格の形成に大きく影響を与えることでしょう。その意味で、強制性があるといえば、いえる。
 しかし今や学校教育なども男女平等でしょうし(名簿を男女混合にするなどという、意味不明なことがなされるご時世です*2)、家庭教育はさすがに手を出しづらい。
 となると、もはやフェミはメディアの影響力をこそ悪者にするくらいしか、やりようがない。
 即ち、メディアの流すメッセージにはある種の強制性がある、というのがジェンダーフリーの大前提なのです。
 しかも、大人向けメディアは例えばCMで女性が料理をする場面など見なくなったように、(女性にだけ都合のいい形での)ジェンダーフリーが実現しています。
 となると子供番組、深夜アニメくらいしか叩くものがなく、だからこそ、フェミはオタクを敵視している。
 前にも言いましたが、『トクサツガガガ』の主人公である仲村さんは『プリキュア』(をモデルにしたアニメ)が当初、地味なカラーリングだったのが、すぐにピンクなどを主体にしたカラーリングになったことについて、「みんなの努力が何故実らないのだ」と嘆きます。この「みんな」が一体誰で、何故そんな「努力」をしなければならないのかはさっぱりわかりませんが、一つだけわかるのは、本作が特撮オタク漫画などではなく、フェミニズム漫画だ、ということでしょう。
 女児は誰に教えられずとも、ままごとをする。男児はヒーローごっこをする。プリキュアがピンクになったのは、「女児が望んだから」でしょう。しかしそれを認めることができず、そこに「何か、悪の洗脳が潜んでいる」という世界観を前提しているのが「ジェンダーフリー」なのです。
 そうした理念を掲げるフェミニズムは、そもそも、根本的に、大前提として、絶対に、どう無理をしようとも、「萌え」を認めるはずがないのです。逆に言えば、「萌え」はフェミという災禍から人類を守る最後の砦であり、だからこそフェミの手先は実に熱心にオタクを自称してオタクを騙そうとしているのですが。

*2 おぞましいジェンダーフリー教育の実態については十年程前、騒がれたものですが、すっかり皆さん忘れているようです。ホンの一例ですが、例えば以下のような具合です。
秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


 ――今回、ぼくの筆はやや、抑制的です。
 普段であれば、「ジェンダーフリーとはこの世のジェンダー規範、男性性や女性性の全てを否定する思想だ、それを透徹すれば萌えどころかあらゆる人類の文化が根底よりリセットされる。だから何がどうあろうと、肯定できない」といった言い方をしているところです。
 ただ、上の論法に対しては一応、「そこまでのことを考えているわけではない、そこそこのジェンダーフリーが望ましいのだ」との反論が想定し得ます。
 もっとも、フェミニストたちの著作を見ていると、まさにそのようにしか考えていないことが明らかになりますし、また、ならば「どこまで」のジェンダーフリーが望ましいと考えているのか、その基準を示したフェミニストは、ぼくの知る限り存在しません。
 しかし、とはいえ、青識自身は恐らくジェンダーフリーに対して饒舌に語ったことはないし(もし知ってる人がいたら教えて)、ふわっとしたムードで是としているだけなのではないかと想像できる。
 だからぼくも今回は一応、彼ら彼女らに一歩、歩み寄る格好でリクツを捻ってみたわけです。
 しかしそれでも残念ながら、青識の論法はデタラメという他ないのです。

 というわけで青識という「論客」の「論法」は「論理」性がテンから欠落しているという、ペド議論の時と全く同じ結論となってしまいました*3
 さて、ここまで書きつつ、まだそもそもの発端であった中村香住師匠のコラムについて、まともに採り挙げていませんでした。来週辺りに、その辺をまとめた記事をうpしたいと思います。

*3 ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む