『WiLL Online』様でブリジット事件について、記事が掲載されています。
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――さて、飽きもせず、柴田英里師匠の「ペド萌え」発言チェックを続けます。
先にご紹介した『現代思想』の柴田師匠の論文において本書の名が挙がっていたので、忙しい中読んだんですが……まあ、何と言いますか、正直「虚無」という感じの読後感。
しかしまあ、高いカネを払って尼で古書を買ったので今回、強引にネタにさせていただくことにしたというわけです。
せっかくなので軽く全体をレビューしていますが、ペド関連は「ペドとオタクは使いようなのだの巻」にまとめられています。
・定番鼎談だコニャニャチワの巻
簡単に構成をご説明しますと本書、二村ヒトシ師匠、千葉雅也師匠、そして柴田師匠の三人の鼎談をまとめたものであり、この二村師匠というのは本業AV監督で、『全てはモテるためである』という著作のある人。実のところぼくも同書を読んだ時は悪くないと思ったのですが、近年、妙に上野千鶴子師匠と組むようになり、その辺で「あ……(察し)」となった人物です。
続く千葉師匠は同性愛者の哲学者。
つまり「セクマイの中で男が一人♪」という状況下(当たり前の話ですが、女性はセクシャルマイノリティです)、二村師匠が「私はヘテロセクシャル男性という名の抑圧者として生まれてきました、ごめんちゃ~~い!」とひたすら繰り返すというこの種の座談でお約束の構成で、もうこの時点で読む気が激減。
このメンツを見ればわかるように基本、本書は「ツイフェミ」のポルノ批判には否定的なのですが、二村師匠は「とはいえツイフェミの言い分もわかる(悪いのはヘテロセクシャル男性なのだから)」との土下座外交をすることで本書の左派寄りのスタンスを保つ役割を果たす(フェミを全否定しないための安全装置として機能する)と共に、返す刀で「女が男をレイプするAV、女装AVを撮ってま~ちゅ」とドヤるといった立ち位置。
例えば「普通のセックス?」という節タイトルでは薄っぺらな「変態礼賛」がなされ、そこで二村師匠は、「男性相手にタチになることも可能な女性がエロいのは、そこなんですよね。(167p)」などと発言しドヤ顔(ちなみに「タチ」というのは能動的な側の意です)。
左派寄りの人たちは「多様性」を尊重すると自称し、ホモや二村師匠の言う「能動的な女」など「変態」を称揚する傾向にありますが、これには「異端」を「正統」にぶつけることで「正統」に揺さぶりをかけるという明確な政治意図があるわけです。
しかしこれって結局「女性の社会進出」みたいのといっしょで「多様」と称しつつ自分の中で「あるべき姿」が想定されているわけなんですね。となると「一般的なAV」は結局、唾棄すべきモノとのリクツになってしまう。とにかくこの種の人たちの言い分は常にこれで、一体全体どうしてここまで考えナシでおれるのかが、ぼくにはさっぱりわかりません。
つまり三人いずれもが「性の異端者」という自分たちの立ち置値から「常識的な人々」を嘲笑するという、もう三十年前に既に陳腐であった「サブカル芸」が本書では飽きもせずに繰り返されているわけです。
・フェミはリベラル製がいいのだの巻
先にも述べたように本書のテーマの一つは「ツイフェミ批判」。
本書では「ツイフェミは(ポルノに対し)傷ついたと繰り返しつつ、発情しているのだ」といった指摘が執拗に繰り返されます。
事実第一章のタイトルがずばり「傷つきという快楽」で、ツイフェミが(と明言はしていないのですが)被害者感情を募らせるのを、実は快楽を感じているのだと指摘。
話者たちはそこまではっきりとは言っていないのですが、これは要するにフェミニストが「ポルノに傷ついた」という物語によって性の主体たろうとしている(ポルノに出てくるおねーちゃんに自己同一化して、自分がセクシーないい女だと勘違いしている)という指摘ですね。
同様の指摘はぼくも再三してきたことですし、近年も「負の性欲」といった概念で人口に膾炙するようになった考えです。以上のように、本書の中には頷ける箇所も多くあるのですが、いつも言っているように、「ならば、フェミニズムそのものが根本から間違っていたんではないか」との結論から、師匠たちは頑なに目を背け、「お母さん保守ガーーーー!!!」と言い続けるばかり。
そう、柴田師匠は「お母さん保守」という(醜悪極まる)タームの提唱者であり、本書においても(少年誌のエロに文句をつけた)太田啓子師匠を(フェミニストではなく)お母さん保守だと言い募り続けます。ぼくも太田師匠の著作については動画の第15回で採り挙げましたし、あれを見れば師匠を「保守」だとするのには完全に無理があるとわかるはずなのですが。
また、柴田師匠は以下のような嘘もつきます。
昔も、一九五〇年代の漫画を校庭に集めて「焚書」するものや、連続幼女誘拐殺人事件の煽りを受け創作物のエログロを槍玉に挙げた一九九〇年の「コミック本から子供を守る会」など、お母さん的PTA価値に基づいた悪書追放運動はありました。でも、一九九〇年代のフェミニストや社会学者たちは、それは保守的なもので、フェミニズムの問題とは違うからと、ちゃんと切り分けて、悪書追放運動を批判したんですよね。
(251p)
そう、有害コミック騒動の時にフェミニストは表現の自由を守ったとの、長岡義幸師匠、高村武義師匠も口走っていた妄想史観です。
もっとも表現の自由クラスタはこの時「行動する女たちの会」の「国の規制は好ましくない」との言質を取っています。長岡師匠たちや柴田師匠の言はそれを指しているのでしょうが、しかし同会は当時よりずっと町の水着ポスターなどをキャンセルする運動をしており、単に「国家による規制は好ましくない」と考えているだけ。これは『WiLL』様の記事でも指摘している通りです。
つまり「市民団体の規制はOK」との考え方を導入するならば柴田師匠の言も嘘ではない、ということになりましょう(ならツイフェミがする規制もいいのではないかとの疑問は呈してはいけません)。
後、千葉師匠は(ツイフェミ批判として)前近代社会は「傷つき」なんてモノはなかった、そもそも近代的な「内面」なんてなかったし、だからこそ強かった、それこそが望ましいあり方だ、みたいなことを言うんだけど(233p)、そしてこうした「前近代よかった論」ってのは一時期、左派がよくしてたんですが(宮台師匠とかの持ちネタですよね)、それって単に神や国家に「内面」を担保してもらってたからでしょう。
こういうの、左派は本来「右翼」がそれを好ましいと主張しており、許せぬと言うのが常だったはずじゃないですかね。
座談会という形式のせいもありましょうが本書には論理的な整合性というものがなく、ただ思いつきの観念論を口々に述べては内輪褒めしているだけのように、ぼくからは見えます。
・ペドとオタクは使いようなのだの巻
さて、先に述べたようにそもそもぼくが本書に手をつけたのは柴田師匠の「ペド萌え」発言にチェックを入れるためなのですが、読んでいくと「同性愛とペドフィリア」、「「ペドフィリア=絶対悪」が表すもの」といった節が登場します。
前者で柴田師匠は以下のように言います。
ゲイの知人がツイッターで、ペドフィリアは、犯してはいけない罪にして、もうフィクションのなかだけの性愛として欲しいとつぶやいていたんです。妄想するだけの状態にすれば許容されるし、LGBTと一緒にするのは戦略として正しくないと。
(209p)
しかし師匠は、この「ゲイの知人」の発言が不当なものであるとするのです。
そんなこと言ったって、「ペドフィリアは、犯してはいけない罪」なのは当たり前であり、現実問題として法律上もそうなっているのですが、ひょっとしてご存じないんでしょうか。また、「妄想するだけの状態にすれば許容される」べきであるのに、そうではないから問題なのだ、というのが従来の表現の自由クラスタなどの主張だったと思うのですが、この発言が不当となると、師匠は「実行することをも許容せよ」と考えていることになりますが、そうなんでしょうか。
もっとも、一応柴田師匠の怒りは「LGBTがペドファイルを排除していること」に注がれています。『現代思想』でもそう言っていたし、事実、後者の節でも同様の主張がなされます。ホモ団体のILGAがNAMBLAを除名したのがけしからぬ、国連の差し金だ他国のホモ団体のせいだと。
しかしながらここでも、NAMBLAの目的は語られません。それはつまり、年少の子供とのセックスを合法化せよというものであり、そこを隠したまま議論を続けるのは正直、卑怯極まりないと思いますが、或いは柴田師匠にはそれのどこが悪いのかさっぱりわからず、天然で言っているのではという気すらします。
あ、二村師匠もここでは「戦国時代の小姓の伝統がどうたらこうたら」と耳タコな話を開陳。
千葉師匠はインテリ様らしく「ギリシャでは少年愛が教育のシステムになってた云々」と一席ぶちます。
実のところ、ギリシャの少年愛、戦国時代のお稚児さんなど、伝統社会では年長の男性が少年を性的に愛することがそのまま「師弟制度」とシンクロしていた、というのは男性解放論の開祖とも言うべき渡辺恒夫が三十年以上前に指摘していたことです。
フロイト的には人間はまず自己愛の段階から同性愛、そして異性愛へと発達していく。少年期は男性も肉体的な美しさを保っており自己愛的であり、そして小学校くらいの少年少女が同性の友人との友情を重視するのは(性的要素のない)同性愛期だからであると(『脱男性の時代』などでそうした論考がなされています)。
ぼくもそれは理論として正しいと思うのですが、だからと言って前近代の風習が現代において許されるべきものであるかどうかは全く別です。
そうした「常識」がとにもかくにも本書では一切、省みられる様子がありません。
これは、考えてみればドヤ顔で「常識」を疑うというスタンスを誇る人たちにしては、極めて格好の悪い不誠実な態度です。
さて、『現代思想』における師匠の記事をレビューして、ぼくは師匠の「ペド萌え」の理由を「時流を読んでのものではないか」と想像しました。海外の過激なトランスは子供をLGBTに引き入れるため、セックスに対する子供の「自己決定権」を大幅に認めたがる傾向にある。彼ら彼女らがペドファイルと「和解」しつつあるという情報を得て、乗っかろうとしているのではないかと。
しかし本書を読むと、またちょっと別な想像も湧いてきました。
柴田師匠が、清岡純子師匠について妙に熱く語る箇所があるのです。
清岡師匠、表現の自由クラスタの皆様はお詳しいでしょう、幼女ヌード写真家です。80年代には『わたしはまゆ13才』や『プチトマト』といった写真集が話題となりました。
もちろん、今や彼女の作品は発禁とされており、またそれはあくまでポルノ的なものではないので、ぼくも発禁が絶対の正義だとは思いませんが、ともあれ柴田師匠の熱いトークは一聴に値します。
清岡純子さんでレズビアン・フェミニズム史を書くとしたら、ペドフィリア(小児性愛者)の欲望というのを入れざるを得ないからです。
(中略)
彼女は、レズビアン指南書など、ハウツー本も書いているんですよ。
(中略)
また、恋人を斡旋したり、悩み相談電話を受けつけたり、啓蒙や自助グループの運営など、かなり広範囲で活動していた人なんですね。
(130~131p)
フェミニズムの一派にレズフェミというのがあり、中でも少女が好きな人たちは、NAMBLA的な人たちと親和的な傾向にあるんですね。
『現代思想』の記事でも書いたように、ぼくにとって柴田師匠というのは「リベサーの姫になりたい人」というイメージが強く、「男性にモテたいのかなあ」という印象を持っていたのですが、同時にやはり同記事でご紹介したようにとにもかくにも「異性愛」を憎悪している方でもあります。
……となると、柴田師匠は清岡師匠と同じ動機でペドを擁護しているというのが、本書から導き出される結論になる気がするのですが、果たして実態は……?
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