「オタク、或いは非モテへの、女性からの果敢な働きかけ」。
取り敢えず、本作はそうまとめてしまえるように思います。
更に言えば「オタクというものを知らない女性がオタクを主人公に据えた漫画を描くとどうなるか」という疑問への一つの答え、とでも言いますか。
普通の(普通に性格のいい)女の子がオタクに気を遣いながら話しかけてきて、とは言え彼女がオタク向けと思って持ち出してくれる話題はどうにもずれていて、オタクの側も冷や汗をかきながら対応している……と、本書を読んでいて思い浮かんだのは、何だかそんな光景でした。
そもそも本作の主人公、フジ君は飲み会で女性と同席するし、ライブでデートとかするし、女の子とラーメンの食べ歩きとかするし(最後のは、作者としては男性側に歩み寄ろうとしてくれたのかも知れませんが)、そんなやつのどこが非モテだ? という疑問を、まず感じてしまいます。むろん「それは主人公にモテキ(=モテる時期)が訪れたからだ」ということなのでしょうが、「以前から、そうした女性の知りあいが大勢いた」こと自体がぼくたちからすれば充分に「リア充」に見えてしまうわけです(この感想はネットでも散見されました)。
……随分、思わせぶりなことを書きましたが、ぼくの本書の読後感は「微妙」の一言に尽きます。
「面白かった」わけでもないのですが、「酸鼻を極める男性差別描写に、憤怒の河を渡った」というわけでもありません。
ストーリーはご想像通り、基本的には「ダメ男にいい女がお説教する」の繰り返し。とは言えフジ君自身、それなりに誠意や内省を持った男性として描かれますし、相手の女性も必ずしも「常に肯定されるべき上位の存在」として描かれるわけでもありません。つまり、それなりのバランス感覚を持って描かれてた作品であるため、読んでいてムカムカする、或いは拳を振り上げて糾弾の対象にするというレベルのものでもないわけです。
むしろ、本作を特徴づけるのはそのストーリーの破綻ぶりでしょう。
女性である作者があまりストーリー構成に重きを置かなかったのかも知れませんが、それにしてもこの支離滅裂さは尋常なものではなく、恐らくは編集者との行き違いなどといった外的要因による路線変更が、連載中に幾度もなされたのではないでしょうか。
化粧っ気のない地味な女性、いつかちゃんといいムードになるフジ君ですが、急に出てきた亜紀ちゃんに唐突に乗り換え、いつかちゃんは何らエピソードが描かれないままに登場しなくなります(このエピソードにおけるフジ君の行動そのものもまた、意味のわからないものでした)、その亜紀ちゃんとの関係も、フジ君がヘルニアを発症して郷里に帰ると共に自然消滅していまい(本当に唐突に、いきなりヘルニアになるという、行き当たりばったりのストーリー展開!)、郷里では以前フジ君をふった夏樹ちゃんが何故か急に積極的に迫ってきます。この作品は最後までこの調子で、女性が代わる代わる現れてはフジ君に積極的に迫り、しかしフジ君がグズグズしているうちにフェードアウト、その繰り返しです。
恐らくこの作品の舞台裏では、編集者と作者がフニャコフニャオとドラえもんのようなやり取りをしていたのではないでしょうか。
いや……しかし考えてみれば、男性がグズグズしているうちに女性があっさり見切りをつけて消えていくという展開は、極めてリアルではあります。
そう考えると本作の破綻だらけに見える構成は、或いは意図的なものだったのかも知れません。つまり、これはいわゆる「ギャルゲー」の構造を、リアルに再構築してみせたものと考えることができるのではないか、と。女の子が次々に現れ、何の取り柄もない主人公がモテモテになるという「ギャルゲー」、その現実離れした設定に「リアルな内面」を与えるとこうなりましたよ、という。
『マジンガーZ』をリアル化したものが『ガンダム』であると考えるならば、後者は前者に比べ、ヒーロー活劇としてのカタルシスに欠けるという短所を持つ一方、リアルな人間関係を描いているところが長所とも言えます。
そうか……そういうことだったのか……本作は「ギャルゲー」に対する『ガンダム』だったんだよ!!
な、なんだって(ry
――いえ、やはりそれは違うでしょう。
そもそも女の子が次々と日替わり定食のように現れて主人公モテモテ、というハーレム構造を初めて提示した作品が何なのかは、不勉強なぼくにはわかりかねますが、その元祖は「萌え文化」などではなくそれ以前(遅くとも80年代)に流行した青年誌のお色気漫画、『サルまん』で言うところの「エロコメ」だったわけです。
翻って、「ギャルゲー」はよく「ハーレム物」という言い方がされますが、実際には女の子との一対一の恋愛が描かれ、その「愛する人は一人」という「保守的」な恋愛観は「進歩派」のセンセイ方のお叱りを受ける一因になっております(とは言え、ラノベなどは結構ぬるいハーレム構造を持っているものが多いようではありますが)。
さて、言わば『マジンガー』の兜甲児が自らが戦う理由、自らの正義に疑念を抱かないのと同様、「ギャルゲー」における恋愛もある種、前時代的なドラマ性が保たれ、主人公が自らの恋愛感情に疑問を抱くことはありません。
しかし本作において、フジ君はモテたいモテたいと繰り返しているわりに(そして「夏樹ちゃんが一番好きだ」と称しているわりに)現れる女性たちには優柔不断な態度を取り続けます。そんなフジ君に、女性たちが「自分から動け」「女に下駄を預けるな」とお説教を繰り返すのが、本作の要諦です。それはまるで、戦う理由が見出せず、延々と頭を抱えっぱなしのシンジ君と、彼にお説教をするミサトさんのように。
そしてまたこの作品、リアルと言えばリアルですが、そもそもそんなやつに美人が次から次へと求愛してくるという状況自体が、巨大ロボット物なんかよりも遥かにアンリアルでもあります。しかしそれも、言わば美人がフジ君にお説教するというシチュエーションをお膳立てするために、敢えて描いていることだったわけですね。
上で本作を「スーパーロボット物」と「リアルロボット物」との対置によって語ってみましたが、しかし 一般に「リアルロボット物」と呼ばれるものの中にも、ある程度リアルな世界観を突き詰めているものもあれば、リアルな世界の描写を重ねておいて、その中にポンとアンリアルな異物を混ぜ込むタイプの作品もあります。それこそ『エヴァ』など、後者以外の何者でもありませんね。
即ち「リアル系」の世界観の中で「女性が異様にフジ君に積極的」という状況を説明するため、まさしく「モテキ」という「スーパー系」な設定を配した「変則型のリアル系」作品、それが本作であると言うことができるのです。
そうか……そういうことだったのか……本作は「ギャルゲー」に対する『エヴァ』だったんだよ!!
な、なんだって(ry
――いえ、やはりそれも違うでしょう。
『エヴァ』は男の子が自分から動き出したら、女の子は「気持ち悪い」とか言いやがるのだ、という女災の本質までをも描破しきっています。
しかし本作は相も変わらず、不勉強にも、最後にフジ君が「社会に向けて一歩踏み出す」的なオチをつけて終わってしまいます(話としてはぶった切ったような「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドですが、あとがきでは作者が「誰にも必要とされなくとも誰かとかかわっていくことが大事なのでフジ君には彼女を作らせなかった云々」などとご高説をのたまっています)。
そしてまた、女性たちは積極的なわりには見切りをつけるのが異常に早く、結局フジ君のことをそれほど好きなようには見えません。そんな相手に股を開こうとする彼女らは当然、男性経験も少なくないようで、結果的にいわゆる「ビッチ」キャラばかりになっています。
「女性を真剣に愛せ」とお説教を繰り出してくる女性たちの誰一人として、「男性を真剣に愛していない」という構図。
しかしそれを奇妙な図だと思ってしまうのは恐らくぼくたち、オタクだけでしょう。
果たして、何故彼女らはみなビッチなのでしょうか?
フジ君をある程度振り向かせようと画策しつつも、プライドのキャパの限界を超えるや、とっとと「そんなに好きじゃなかったのよ」「他にも男はいるし」と言わんばかりに退場してしまう女性たちからは、作者の思いが透けて見えるようです。
トゥルーヒロインである夏樹ちゃんは、フジ君にこう語ります。
「あの頃の幸世君(引用者註・フジ君)って私が好きになるの待ちって感じだったじゃん
それが重かったわけよ
あ 別に幸世君の事嫌いだったわけじゃないよ?
でも私はまだ“好き”って思えてなかったわけ」
彼女らはここまで頑なにプライドを保ちつつ、「男が、求愛しろ」との要求を突きつけてきます。
これを「女どものダブルスタンダードだ」と憤るのはオタクだけで、リア充様たちはこれを粛々と受け容れているのだ、だからお前たちも受け容れよ。
作者は、そう言いたげです。
まあ、アレですね、A-BOYだの草食系男子だの、不況の折、女性たちもいろいろ大変なわけですね。
しかしながら、美人に描かれる亜紀ちゃんも夏樹ちゃんも、ビッチに過ぎオタクには受けが悪いでしょう。一番オタク受けするであろう地味系のいつかちゃんが早々に退場してしまったことは、何だか象徴的です(ネットでは、このいつかちゃんを評して「ビッチに憧れる喪女」と呼んでいる人がいました。卓見だと思います)。
いささか余談めきますが、エジソンのライバルと謳われたニコラ・テスラという発明家がいます。
今となってはちょっとオカルトめいた人物像ばかりが伝わっていますが、生前の彼は若くして成功を収めた、長身の二枚目でした(まあ晩年は結構悲惨だったようですが……)。と同時にハトだけに心を許し、生涯独身を通した、オタク的な人物でもあります。
そんな彼に対し、当時の大女優サラ・ベルナールがさりげなくハンカチを落として見せたところ、テスラは紳士的にそれを拾ってサラに手渡し、しかしそのまま立ち去っていったという逸話が残っています。
女性がその頃から何ら変わっていないことに、驚嘆の念を覚えないでもありません。
女性のガトリングハンカチ落としを受け、困り果てているテスラ。
それが今の男性たちの姿なのではないでしょうか。
(エヴァ及びその他の場合は逃避、フェアな女性の到来待ちor自分が現状に折れるで受身なんですよね・・・)
というか僕もそういうのを描きたいのですが描けない、そのもどかしさが焦りに変わり妙に漫画の表現に拘る性格になりました。反省します。
それにしても女性漫画家はこういうの得意なんですね。妬けます。
摩訶不思議なことですが、女性は「女性の心理」を描いても「男性の心理」を描いても手放しで誉められます。
しかも男性は活躍して、それを鼻にかけても、活躍しなくてもダメなのに対して、女性の場合、ヘタレでも許されるわけですしね。
少なくとも女性の描く明らかにどうと言うことのない漫画を誉めそやす傾向は、いい加減になくなってもらいたいところです。
「好きになってくれるの待ち」って、それお前のことやないかと。
まあこの作者は押しに弱いタイプなのかもしれませんけど、世の中には好かれてないのに果敢にアタックしたらセクハラとかストーカーとかの扱いを受ける危険があることは兵頭さんの著書に書かれている通りな訳で、そこら辺を見越したうえでの草食化だろうと思うんですけどね。
女性は自分から積極的にいってもセクハラ扱いされるリスクは少ないから、そこら辺理解しがたいんでしょうかね。
拙著を読んでくださった方ですね。
この漫画で復縁しようとマンションにやってきたフジ君を見た亜紀ちゃんが「何、キモい、ストーカー?」などと言うシーンがあります。
一度読んだだけなのでうろ覚えですが、少なくともある程度つきあっていた男性が顔を出したくらいでいきなりストーカー呼ばわりする亜紀ちゃんに、ぼくは違和感を抱きました。
結局、私を求めない男性は許さない、しかしそれを受け容れるかは私の好みのタイプか、私好みのタイミングであったかで私が決める、私のメガネに適わなかった男は問答無用でストーカーだ、が作者の考えなのですね。
もう、反論するのもバカバカしい身勝手さですが、しかし女性にとってはあまりにも自然な自分の欲求であるがため、全く内省がないのだと思います。
男性も女性に対して身勝手な願望を抱くものですが、少なくとも病的な人間以外はそういった自分の欲望の危うさを自覚しているものです。
本作が明らかにしたのは、ここまで冤罪事件が起きていても、女性にはそうした内省が全くなかったのだということですね。
自分の感情ですべて決めてしまう、というのはまさに「一人称」的ですね。それもひとつの立場ですが、モテキの作者のような人は男性がそうすることは恐らく認めないのでしょう。
ある女性のブログでは、「女性が男性に感じる恐怖は身体リスクに伴う当然のものだが、男性が女性に感じる恐怖などは女性をモンスター化しているからであり、モノ扱いしている証拠だ」という主張を見ました。
女性の男性に対する訴えは弱者の正当な異議申し立てだが、強者であるはずの男が被害を訴えるなど甘えだ、というのですね。
冤罪への恐怖についても、同様に考えている女性も多いのでしょう。
被害者の恐怖に配慮せよ、という言説を自分が加害者となりうる可能性を全く考えてない人から言われてもどうしても説得力には欠けます。
男性のこうした複雑な事情について書かれている文章がありました。
ttp://d.hatena.ne.jp/Paris713/20061221/p1
これを書いたのは女性ですが、女性でここまで書けたら凄いと思います。
いや、フェミニズムは(いかに稚拙なものと言えど)学問であるがため、そのお約束を論理化しようとしてものすごいヌエ的なトンデモ理論の体系を築き上げていますが、世間一般の人は同じお約束を前提にしながら突き詰めて考えようとしていない(それ故、自分たちのお約束が大変な間違いであることに気づけずにいる)。
結局、両者とも「わかってない」という点では同じなのですが、ちょっと考えればわかる間違いを突き詰めようとしていない世間一般の人の方が、罪は重いでしょう。
>男性が女性に感じる恐怖などは女性をモンスター化しているからであり、モノ扱いしている証拠だ
元ネタはクリスティヴァの「おぞましいもの」理論でしょうかね。
「男たちが女を排除してる、それは女を恐れてるからだ!」という理論。
多分、この手の人たちは「男にとって女は怖い」ということが理解できず、「怖いフリして差別してるんだ~!」と言ってるんだと思います。
リンク先は面白いですね。つい書き込んじゃいました。
男性の被害者性を理解するメリットを感じないからではないでしょうか。
理解しない→男性に嫌われる→結婚できない
という発想にならない限り変わらない気がします。
僕には女性が理屈でもって理解してくれることには期待が持ません。
女は女の味方をしますからね。
『新ルパン三世』で峰不二子がとある男に騙され、一度は怒り狂うのですが、実はその男の目的が恋人を救うためであったと知り、とたんに協力を申し出るという話がありました。
(おぼろげな記憶ですが、その男は銭形の変装だった気も……)
何しろ毎回毎回、エゴでルパンを裏切るというルーティーンを繰り返していた『新』の不二子ですから、見ていて意外だった記憶があるのですが、要は男女関係で男が女に尽くしているというシチュエーションを見せられたとたん、女性はその男性の味方につくわけです。
逆に男が女と敵対しているという状況で、女性が男性側につくということは、まず考えにくい。
『電波男』が女性(や、読解力を持たないアルファブロガー)に存外支持されたのも、「女性に愛されたい男の叫び」という情念だけをすくい取っていたからですね。
とはいえ、いかに婚活だA-BOYだと騒がれていても、女性が
>理解しない→男性に嫌われる→結婚できない
この思考経路を辿ることは大変に考えにくいです。
女性にとって「男性に頭を下げる」ということ自体、「自分に性的な価値がない」と認めることとほぼ同義ですから、その時点で男と関わる意味がないわけです。
後は共感能力で~女の立場に傾きやすいと。
女性の意見は男性には思いもよらない大前提が存在する場合があって返答に困ることがありますね。
電波男の解釈も女性専用注釈がないと誤解のまま納得されることもあるでしょう。
男としては勝手に「性的価値がない」と見切りを付けられても、その「いつの間にか女の側で大前提になっている」条件を飲めば「自分は理解されるに値しない」状態になるわけでやはり平行線ですね。
あれを読んで「女不要!」というメッセージを受け取ってものすごく怒る女性と、「彼女が欲しい!」というメッセージを受け取って勝ち誇る女性の両者に分かれたと思います。
あの本の真意はその両方を包括した上でその先にあるのですが、そこまで読解する能力はないでしょうし。
>男としては勝手に「性的価値がない」と見切りを付けられても、その「いつの間にか女の側で大前提になっている」条件を飲めば「自分は理解されるに値しない」状態になるわけでやはり平行線ですね。
すみません、ちょっと意味がわかりませんでした……(;^ω^)