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――どうも、ブログの更新が遅れております。
いささか時機を逸しましたが、この話題。
というか、そもそも当ブログはあくまでサブなので、興味を思ってくださっている方は、noteかニコブロをチェックしていただきたいのですが……。
秋葉原の通りに掲示されていたアダルトゲームの広告が問題となり、取り外されるという事件がありました。詳しくは各自調べていただきたいのですが、例えば弁護士ドットコムなどでも報じられる、それなりの話題となっているようです*1。
例によって、ネット上での喧々諤々が起きましたが、どうにも今までとは旗色が違うご様子。
ここしばらく、ツイッター上で「表現の自由と世間様との折りあい」みたいなテーマが語られているのが目立ってきている気がします。これは宇崎ちゃん問題の時点でも散見されたのですが、この看板の問題でそれが顕在化してきたように、ぼくには思われます。ついつい調子に乗って、ツイッターでは
或いはこの看板こそが、「表現の自由クラスタ」の墓標になる、のだろうか。
などといった憎まれ口を叩いてしまいましたが、もうちょっと穏当に表現するならば、「表現の自由クラスタ」が今まで何とか見まい見まいとしてきた論点へと、「一般的なオタク」の目が注がれたこと、それにより表現の自由クラスタと一般的なオタクとの間に乖離が生じつつあることが、本件の本質であると、ぼくは考えます。
*1 秋葉原にアダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査、千代田区は指導へ
本件と、今までの碧志摩メグなどを筆頭とする数々の案件との差異を、ちょっと思いつくままに挙げてみましょう。
1.まず何より一目瞭然「性的」であること
2.クレームがどうも、フェミニスト発ではないらしいこと
3.オタクのかなり一定の層が、撤去をよしとしていること
などでしょうか。
そう、今までの案件と本件とは、全くの別です。
まず、最初に抑えておくべきポイントは1.でしょう。
記事を漁ると、
広告は「おっぱいハーレム」や「孕ませ」などの言葉とともに、肌を大きく露出させた女性キャラが10人描かれていた。
などとあり、上にある「おっぱい」や「孕ませ」とのワードが象徴するように、広告の絵自体が一目瞭然、性的なもの。今までは基本、肌の露出も少ないもの、性的な要素がどこにあるかわからないものが大多数でした。フェミの言い分は、それに対して碧志摩メグの時の「乳袋がある」、駅乃みちかの時の「尿意を堪えているように見える」から性的である、といったもので、まあ、前者はともかく後者は明らかに言いがかりのレベルでインネンをつけていたのだから、本件とは事情が異なります。
もっとも、いわゆる「萌え絵」はあまりにも女性を性的に描く技術を突出して進化させすぎているとは、言える。「乳袋」もそうだし、「尿意を堪えている」というのは論外としても、この駅乃みちかは「赤面している表情」で描かれており、それがある種の性的なものを連想させなくもなかったわけで、そこ一つとっても、いかに技術が超進化を遂げているかがわかる。ぼくはこれは基本、(それこそ『ジャンプ』における透かしによる乳首描写同様)規制が生んだ規制逃れという素晴らしい文化である(アーティストの知恵の見せどころである)と思うものの、さすがに突出しすぎ、という感じがしないではありません。
さらに本件に立ち返ると、性的だ性的だと言っておきながら何ですが、実は本件のポスターも下着(だか水着だか)で胸が隠されており、乳首は出ていないのですな。
ただ、そういった(乳首のあるなしといった、杓子定規な)基準を置いて、ごく一般的な感覚として、当該ポスターはちょっと性的に過ぎるということは一応、言えましょう。
例えば記事にもあるように、広告には「孕ませ」という言葉があり、そこが注目されていました。つまりこの広告に対する忌避感の何割かは、このワードに依っていると言ってもいいのです。で、普通に考えてこの「孕ませ」という言葉が何故忌避感を催させるかとなると「生々しい」からでしょう。「えっちなのはよくない」からなのです。
だからこそ、2.にあるように、おそらく本件はフェミニスト発のものではなかった。
あくまでぼくの観測範囲内ですが、本件におけるフェミはどうにも寡黙です。
もちろん、本件に一番最初に声を上げたものが誰かは、わかりません。逆に今までの事例でも、フェミニスト以外の人が声を上げた事例もあったことでしょう(そういえばピルの者は碧志摩メグについて、武田邦彦氏が言い出しっぺだとデマを流しておりましたなあ*2)。
しかしネットを見る限り(上の記事などを見ても、クレームを入れた主体などが窺い知れず、ネットの状況から想像するしかないのですが)3.にあるように、撤去を妥当と判断した層がオタクの間にも一定層おり、それが今回のような世論へとつながっていったわけです。
即ち、要するに、「オタクの一定層」、恐らくマジョリティは恐らく一般的な人々のマジョリティ同様、本件を妥当と判断した。
そしてそれは、「セックスは基本、秘めごとである(=えっちなのはいけないと思います)」という世間一般のコンセンサスを、オタクもまた共有していた、ということなのです。
或いはまた、仮に妥当とは思わないまでも、「弱い立場なんだから、世間様に対してはへらへらやっとけ」という世間知で、まずは世間様に同意した者もいたことでしょう。
お断りしておきますが、フェミは「えっちなのはいけない」などと、ゴマ粒ほども思っていません。あくまで、「自分にとって不快な表現」をこそ「女性の主体が描かれていない」などと称して、排除しようとしているだけなのです。それは、いわゆる腐フェミがBLを大袈裟に称揚することからも、明らかでしょう。
表現の自由クラスタは責任逃れのために詭弁を弄して、ここをミスリードし、「あの偽フェミニストたちは実は保守派なのだ」などと称し、自分たちの仲間の罪を保守派への擦りつける傾向があります。
また一方、フェミニストの中でも単に「自分にとって快のあるポルノだけは認める」と言っているだけの者を大仰に持ち上げ、そうしたフェミこそを「真のフェミ」と称揚することでフェミニズムを延命しようともします*3。
しかし本件を見れば見るほど、「フェミのロジックによる規制には立ち向かう必要があるが、一般的な大衆感覚による規制には、理がないとは言えない、しかしながら表現の自由クラスタはそうした立場を決して取りはしない」ということが明らかになるのではないでしょうか。
*2「東大の受験責任者から直接訊いた」…何故、日本のフェミニストはデマを流すのか
*3 典型は白饅頭、青眼鏡など。「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
もっとも、この看板自体、法的どうなのかというのはグレーゾーンと言っていいようです。上のニュースでは
千代田区でも、区条例に抵触する可能性があるとして、関係部署で連携し、今後は広告を掲示した店舗の会社に指導していくという。広告は11月8日までには取り外されている。
とあり、要は「可能性」という段階での「自主規制」だったわけです。
しかし、とはいえ、何しろ、表現の自由クラスタは「自主規制」もまかりならんというのが信念のようで、本件に対して怒りを燃やしておいででしたが、そこがまた、一般的なオタクとの価値観の乖離を生んでいるようでした。
そもそも自主規制がダメとなると、もう、この地上から「自由」というものを一切廃し、全てを「表現の自由クラスタ」様のご意向のままにする以外、許していただく術はありませんが、まあ、それこそが彼らの真意なのでしょう。
……いえ、とまで言っておいてなんですが、確かにことが「フェミのクレームの末の自主規制」の場合はぼくだって「簡単に折れるなよ」「フェミのクレームけしからん」と感じます。もちろん、その場合、ノイジーマイノリティへの過剰反応だといった形での批判は考え得るでしょうが、いずれにせよ「自主規制は規制への道だからけしからぬ」といった批判は、あまりしても仕方がないわけです。
ぼくは本件を見ていて、幼女物のイメージDVDを想起しました。実は一時期、コミケカタログにも広告が載っていたことがあるのですが(不評だったからか、すぐになくなった時は胸を撫で下ろしました)小学生、下手すっと三歳時とかがマイクロ水着姿でまあ、何かいろんなことをするという内容です。これを見たら、恐らく世間の多くの人は、「法律で取り締まれ!!」と言いたい衝動に駆られましょう。が、「ではこれから子供の水着姿自体が、映画やネット動画などにおいても一律NGとすべきなのか」となると、恐らく多くの人がそれは過剰だと感じるはず。
これは、結局、法律で対処するような問題ではないし、恐らくアメリカとかだと宗教が、そして一昔前の日本では世間という概念がストッパーになっていたはずです。
本件の「自主規制」も、それと同じです。ぼくはこの看板を「グレー」であると書きました。「区条例に抵触する可能性がある」という「可能性」の時点で看板が引っ込められたわけで、抵触していたかどうかは現時点では不明です(絵に描かれたキャラが「性的ではあるが、乳首は出ていない」ということもまた、本件の「グレーゾーン性」を象徴しています)。
この自主規制に対して表現の自由クラスタは激おこでしたが、この「自主規制」こそが上に書いた「世間知」が形となって表れたものであり、まあ、そこは納得せざるを得ないわけです。
逆にいえば、そうした「世間知」による「遊び」の部分を許さず、全てを明文化する超法治社会とでも称するべきものが、表現の自由クラスタのお好みなのでしょう。いえ、本音を言えば何でもかんでも自由のアナーキズムこそが彼らの理想であることは容易に想像ができ、その前段階として、法の「遊び」の部分を突っつく、というのが彼らの方法論なのでしょう。
そもそもこうした場合、「表現の自由クラスタ」は「何を性的に感じるかは人それぞれ」といった空論をもてあそび、「一般的な感覚によるジャッジ」を嫌う傾向にありますが、それ自体が自主規制を含めたあらゆる規制を無化してしまいたい、との情念に支えられており、それを演繹すると彼らのお友だちである「ラディカルフェミニスト」たちの唱える「ジェンダーフリー」、即ち全人類のセクシュアリティの完全なリセットをすべき、との結論にしか到達しえないのです。
さて、こうなると「表現の自由クラスタ」が「フェミ」と全くの同族であることが明らかになるのではないでしょうか。
表現の自由クラスタは自主規制をも許さず、ゾーニングをも許さず、とにもかくにも平板で想像困難な「自由」を目標としており、そこに広告主の主体的判断が入り込む余地はない。
フェミニズムもまた、あらゆるジェンダーを否定し、平板で想像困難な「ジェンダーフリー」を目標としており、そこに一般的な男女の主体的判断が入り込む余地はない。
双方とも、「人類を自分の思うがままに支配すること」を目的とした、異界からの侵略者でありました。
一番わかりやすいのが以前にもご紹介した昼間たかし師匠の主張*4で、師匠はオタクが自分たちの思うがままに政治運動に参加しないことに焦れ、
本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。
(https://twitter.com/quadrumviro/status/997042631312982017)
(https://twitter.com/quadrumviro/status/997042631312982017)
などとオタクに檄を飛ばし、一方で
せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。
(https://otapol.com/2018/05/post-12531.html)
(https://otapol.com/2018/05/post-12531.html)
などと、自分たちの政治運動の駒にならないオタクへの憎悪を露わにしています。
*4 左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか
しかし本件で看板の撤去をよしとしない者たちに対し、「オタクが嫌われるのも仕方ない」「オタクもフェミも同レベル」といった声がかなり多く聞かれました。
言うまでもなく、これはぼくのように「一般的なオタク」と「オタクを自称する左派」とは異なり、また、後者はノイジーマイノリティであるとの前提を導入していないが故のことです。
ぼくが今まで「表現の自由クラスタ」だの、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だのといった造語を濫用してきたのは、こうした事態を恐れてのことでした。
左派寄りのオタクも多かろうし、またそもそもぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような、文化人面をしている連中は例外なく左派ですが、しかしネットで目立つ、そうした偏向した意見を振りかざす者たちがマジョリティだとは考えにくい。彼らは、一般的なオタクとはまた、区別して考えるべきである、それは丁度、「女性一般」と「フェミニスト」とを混同して語るべきではないのと、全く同じに、というのがぼくの考えです。
昼間師匠を見ればわかるように、彼らの目的は第一には、フェミを延命させること、第二にはオタクコンテンツを殲滅すること、そして第三は、オタクの体内に爆弾を埋め込み、自民党、及び民家への特攻兵器とすることです。
彼らは機会があれば、「体制側からの宣戦布告があったぞ」とぼくたちに赤旗、もとい赤紙を送りつけてくることでしょうが、ぼくたちはそれを拒否しなければならない。
そのことははっきりと、認識しておきましょう。
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。