バタバタしていて、呑気にブログなんぞ更新しているヒマはないのですが、気になることがあったので、ちょっとだけ。
伝えられたところによるとバングラデシュの14才の少女、ヘナ・ビガムさんが40歳のいとこの男性からレイプされ、公開ムチ打ちの刑に処された後、死亡した。
という事件があったそうです。
本来、ソースとリンクすべきなのでしょうが、ニュース系掲示板などで貼られているニュースソースはみな海外のサイトで読めないので、取り敢えず、上の最低限の情報だけで話を進めさせていただきます。
言うまでもなく、非道い話だと思います。
これに対する掲示板などのリアクションも当然、この少女に同情的であり、「イスラム圏はおかしい」といったものが大半です。
いや、そもそもあまりのことに、この事件の状況がまず理解できない人が多かったかもわかりません。
要はイスラム圏では男性と性的交渉を持った女性は不浄のものとされ、「処女でない」こと自体が罪とされるということなのでしょうが、まず、ぼくたちの人権感覚と照らしあわせてあまりにも不条理で、憤る前にわけがわからん、といった感情がまず喚起されてしまいます。
いや。
そうなのでしょうか?
本当に、ぼくたちにこの事件に対して憤るだけの資格があるのでしょうか?
ぼくたちのこの社会でも、上の事件と全く同じことが起こっているのにもかからわず、何故ぼくたちは正義感面して、上の事件に憤っていられるのでしょうか。
ぼくにはそれが大変に疑問です。
拙著『ぼくたちの女災社会』において、ぼくは「痴漢冤罪」、「DV冤罪」、「ストーカー冤罪」、「セクハラ冤罪」といった冤罪はみな同種のものであり、それは女性による災害、即ち「女災」なのだと指摘しました。
そして、この「女災」は決して司法や警察のあり方の問題などではなく、今の男女関係の歪みから生じているものなのだ、と指摘しました。
「女災」は、一面では司法や警察の腐敗が原因であるし、一面では男女のディスコミュニケーションが原因でもあるけれど、それだけが原因ではない。
最大にして最深の原因は、「女性の欲望」にあります。
女性の中の、「私は、男性に性的に求められる存在でありたい」との欲求が、その何より一番の原因なのです。
それは丁度、一般的に「性犯罪」と称される男性から女性への加害、つまりレイプなりセクハラなりの原因が男性の中の女性への欲望であるのと、全く同じに。
上のイスラム圏での事件をもう一度、分析しましょう。
A男がB子をレイプ
↓
B子が性的なのが悪い
↓
つまりB子が俺を誘いやがったんだ、このビッチめ
↓
ビッチけしからん
↓
死刑
まあ、性犯罪の累犯者がこれと近いことを言いますね。「あの女が俺を誘いやがったんだ」と。
ふざけた詭弁なのですが、ある意味、男性にとってこのリクツは、わからないでもない部分があります。
つまり女性に露出の大きい格好などをされちゃたまらんよなあ、という心理ですね。
しかし逆に言えば男性は「わかる」からこそ、そうした心理が欺瞞であり、そうした欺瞞に陥って自らの性欲を正当化してはならない、という自戒を、よほどのノータリン以外はしているわけです。
しかし翻って、女性はどうか。
A男がB子をレイプした気がする
↓
A男が性的なことをしたのが悪い
↓
つまりA男が私を襲いやがったんだ、この性犯罪者め
↓
性犯罪者けしからん
↓
死刑
こうしたことが今、日本各地で起こっています。
女性が、合意で行われたセックスを、後づけでレイプであったと言い立て、男が有罪に。
女性が、自分の妄想内のセクハラ行為を現実にあったことだと言い立て、男が有罪に。
現実の世界で、いくらでも起こっていることです。
そして誰も、この恐ろしい現状に警告を発するものはいません。
何故か。
そんなこと、女性様に対する「不敬罪」だからです。
イスラム圏で、仮に女性をレイプしようがそれは「誘った女が悪い」のであって、レイプした男に責任があると指摘するなど不埒千万な「不敬罪」であるのと、全く同様に。
「そんなことはない、冤罪は悲しむべきことだが、それも男がまず女に性犯罪を働くから、それが悪いのだ。男の性犯罪をなくせば冤罪は消えるのだ」
そうしたタワゴトを、フェミニストや、そして多くの女性が口にします。
そんなわけ、ないじゃないですか。
「男に性的価値を認められたい」というのが女の本能であり欲望である以上、仮に性犯罪がゼロになったところで女災は起こります。
事実、ハーグ条約絡みで女性の訴える夫のDVを調査してみたところ、そのほとんどは事実無根だったそうです。
また、海外では「ドリンク・スパイキング」というのが問題になっています。
バーなどで女性の飲んでいる酒に睡眠薬を入れ、その女性が眠っている隙にレイプしてしまう、という事件です。
むろん、そうした事件は実際に起こっている(男性から女性への加害も確かにある)のでしょうが、イギリスの警察が調べたところ、その証拠はほとんど発見できなかったそうです。
何しろ睡眠薬など、ちょっと調べれば検出は容易なはずですから、このドリンク・スパイキングの訴えはそのほとんどが女性側の勝手な思い込みであったと判断せざるを得ないのです。
おわかりでしょうか。
イスラム圏では大変恐ろしい、おぞましい事件が起こっています。
しかしぼくたちのこの国でも、それに負けないほどに大変に恐ろしい、おぞましい事件が起こり続け、それに対して警鐘を鳴らす人は数々の罵詈雑言や誹謗中傷や嘲笑や愚弄や嫌がらせが浴びせかけられるのです。
何故、こんなことが起こるのでしょう。
男性が自らの欲望に対して「わかって」いるのに対して女性は今まであまりにも守られ続けたせいで内省が欠けていたからでは、ないでしょうか。
ご承知の通り、日本では驚くほどにレイプが少ない。
それは何故かと言えば理由は様々でしょうが、ひとつに日本の男性が自らの欲望に対して極めて内省的だからではないかと、ぼくは想像します。
女性も、男性たちの半分程度でも自らの欲望に対して内省するようになれば、「わかって」くれれば、女災は随分と減るはずです。
「男性が抑圧されている」などと考えたりすることは禁忌とされているフシがありますよね
仮にそう主張する人がいればフェミは、「男が悪い」の罵倒と「みんなもそう思うだろ?」の数の暴力と脅迫に出る
正論が通用しないというのは恐ろしいです
だからぼくたちがいかにイスラム圏を見て「あいつらキチ○イだ」と言っても無意味です。
おそらく彼らはぼくたちの社会を見て、同様に「あいつらキ○ガイだ」と言っていることでしょう。
ある意味宗教的タブーがないはずの日本でそうしたことが起こっていることの方が、遥かに異常だとすら思えます。
自己嫌悪及び男性嫌悪の感情が干渉していないかが気がかりです。
なにせ巷では男性悪役の物語はあふれています。
考えてみると実際にあらゆる場面において深く物事を考えたうえで対応出来る人は一握りくらいで大人数でみると人は特に深く考えることはないと思います。日本でもどこの国でも
(例えばA分野なら深く考えるけどB分野ではあまり考えず判断してしまいがちな場合も含めて)
つまりより多くの人が共感するのは単純なテンプレの結論になりがちではないかと言いたいのです。
イスラム圏ではイスラム圏の用意した物語に従い
日本では日本の物語に従っている、という違いでしかないのではないでしょうか。
(その意味でそこにこだわっている森岡教授は確かに鋭い)
ただ、「世の中の連中、そんな理性的に考えられるやつばっかりじゃないじゃん」という意味において、それは半分くらいは仕方がないとも思います。
むしろ、そうした脅しと共に今の女性が「だらしない草食系男子なんてイラネ」と二重基準の要求を何の内省もナシにしていることの方が気になります。
(その意味でそこにこだわっている森岡教授はry)
>イスラム圏ではイスラム圏の用意した物語に従い
>日本では日本の物語に従っている、という違いでしかないのではないでしょうか。
1999年7の月以前に、テレビに何人もの「ノストラダムス研究家」が招かれて、自説を発表しあっていたことがあります。
「恐怖の大王とは核戦争だ!」「いや、恐怖の大王とは小惑星の衝突だ!」
それらは全部外れたわけですが、ぼくが驚いたのは、彼らが自説と異なる説を唱える研究家とケンカになり、そして相手の説を否定する時の論調が(自説を披露する時とは全く違って)極めて論理的だったことです。
イスラム圏の人々に日本の状況について意見を聞いたら、ぼくなどよりも遥かに理路整然とした、日本の女災についての分析が聞けるのではないでしょうか。
仮に女性がその矛盾に気がついたとしても男性側が変わらないのであれば意味がないのですし、そちらの方が近道じゃないかなと思います。
それと大衆が安易な結論に陥りがちだということはどうしようもないのですが
その意味で結局テンプレって強いんだなってことを思ったわけです。
(僕自身政治とか全然駄目ですし)
>イスラム圏の人々に日本の状況について意見を聞いたら、ぼくなどよりも遥かに理路整然とした、日本の女災についての分析が聞けるのではないでしょうか。
僕の少ない判断材料から言わせるとそうではないような気がします。
「日本の女性は小奇麗に着飾っているな」とか言いそうなイメージです。
イスラム圏と言えど女性災害という概念を持ち合わせていると言うより保守的なだけではないでしょうか?
エリート層はむしろそれを恥じてたりするかも、深読みは危険ですが。
>女性の支離滅裂な要求を非難するのも当然でしょうがこの問題を解決するには男性側の意識改革が先のような気がします。
オタクの増加など、「情緒」のレベルでは気づいてる人が多いと思います。
ただ、それを「論理」化しようとすると既存の勢力に潰される。
どうすればいいのかなぁ、と思います。
本当にそうならいいと自分でも思ったので考えすぎてしまいました。
僕は一度男女問題から離れたところで男性の一人称化を進めたら案外早いのではないかと最近考えています。
例えばセクハラと同系統のパワハラ問題がありますが(モラルハラスメントとかも)これらは当然ながら女性だけが被害者というわけではありません。
安易な思いつきで話してみますが、このような問題では男女の図式に当てはまらないだけに大衆の心理的にも抵抗なく共感や理論構築が図れるのではないかと思います。
それがある程度まで認知されたら根本的に同じ問題である男女問題にもメスを入れやすいのではないかと考えました。
無論そうもうまくいくとは思っていませんがどのような感想をもたれるのか伺いたいです。
例えばなのですが、ストーカーを例に挙げて考えるとどうでしょうか。
女性→男性
「うわ、羨ましい、俺も美少女からストーカーされてみてーわ」
「この男、この女の人をよっぽど手ひどくふったのかしら。この女の人が可哀想」
男性→女性
「うわ、女々しい。男のくせに女にふられていつまでも引きずってんのかよ、キメー」
「こんなおぞましい犯罪者につきまとわれて、この女の人、きっとノイローゼになってるわね、警察は何してるの!?」
必ずこういう反応が返ってくるとは限らないけれど、やはり「男性=加害者/女性=被害者」という「お約束」は強固なのです。
パワハラ、モラハラでもやはり上のような解釈がされがちなのではないかと思います。
例えばですが、男性の上司が女性の部下を殴ったケースと女性の上司が男性の部下を殴ったケースでは(さすがに昨今では後者を肯定的に捉えたりはしないでしょうが、それでも)反応は明らかに違ってくるはずです。
そして更に言うと、女性の上司が男性の部下にパワハラをするとなると、そのようなやり方を取ることは少なく、むしろ搦め手で攻めてきますよね。それこそ、わかりやすいところではセクハラ冤罪に陥れるなど。
ただし、だからこそ男女の関係性、「男性=加害者/女性=被害者」という「お約束」をぼくたちが「信じ込んでしまっている」ことにまずきづくこと、男性の一人称化が重要になるのですけれど。
確信をもって言えるわけではないのですが、男性の被害者は女性のそれより自覚も持ちにくく表に出しにくい状況にあるのではないかと思います。
「自分のことは耐えて我慢するべき」という強迫観念は日本的なのかもしれませんが特に男性に多い気がします。
(女性は解放されたとは言えないかもしれませんが少なくともまだ積極的です)
僕が言いたかったのは男性一般が一人で抱え込まず公的な場所で相談するクセをつけたらどうかということです。
その最初の相手が男性ならハードルも低かろうということです。
その一段を飛び越えた後なら女性に異議申し立てできる土俵が出来上がるのではないかと考えました。
なぜなら男性は自分の被害者性に自覚を持つとともにパワハラ問題で構築された理論を男女問題にも使えるからです。
また出自がパワハラ問題で認知が進めば女性も否定しにくいのではないでしょうか?
要は「見えない暴力」の問題なのですから両方同じと言えます。
そうですね……。
何と言いますか、ガイジンは「個」が強いですよね。
日本人は「和」を尊びます。
おっしゃる男性同士の関係ですが、私的な友人関係ではなく公的な(とおっしゃっていますね)仕事上などの関係の場合だと、どうでしょう。
例えばですが「仕事上、理不尽な目にあった、相手を訴える」という時にものすごいエネルギーを必要とします。
金銭や時間以上に、精神的なエネルギーが必要でしょう。
そこを「日本人ももっと自らの権利を主張すべきだ」と思うものの、実行は容易ではありません。
この辺りの問題は本当に、またちょっと別な領域の問題になってしまいそうです。
つまり「変人扱いを受けようがエゴイスト扱いを受けようが我を通す強さ」というようなことですよね。