兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦

2012-05-01 00:06:17 | アニメ・コミック・ゲーム

 予定では『私の居場所はどこにあるの?』のパート2をアップするはずだったのですが、つい映画を観ちゃったので軽く触れておこうかと。『私の――』の方は近日upしますので、しばしお待ちを……。


 ここしばらく、どういうわけかヒーローのオールスター映画流行りです。
 五年ほど前、ウルトラ兄弟が久々に地球に降り立ったのを契機に仮面ライダー、スーパー戦隊、プリキュアと数々のスーパーヒーロー(&ヒロイン)たちが銀幕に勢揃いし、悪の軍団との戦いを繰り広げました。
 そして目下公開中なのが、全仮面ライダーと全戦隊が登場する本作なのです。その内容は「ライダーと戦隊の間に全面戦争が勃発」というもの。実のところ東映ヒーローはここしばらくヒーロー同士の戦いばっかりやってることも手伝い、そうしたコンセプトには事前から反対意見も聞かれておりました。何故、正義の味方同士が戦うのだと。
 ただ、いくつもの正義がぶつかりあう作劇は今の時代、決して悪いものではないと思いますし、描きようでは面白いものになるはずです。
 いや……問題はここしばらくの『オールライダー対大ショッカー』や『レッツゴー仮面ライダー』でのそれが納得のできる描き方をされていたかどうかなのですが……が、まあそれはひとまず置いて、見るだけ見てみようかと、劇場へ行って参りました。
 イントロからディケイド(今回の主役となる仮面ライダー)は戦隊を、ゴーカイレッド(今回の主役となる戦隊のリーダー)はライダーを襲撃し、昭和の七人ライダーが
ゴミクズのように倒されるシーンが描かれます(ゴレンジャーはディケイドに倒されたのだろうが、その描写すらありません)。
 ここは「光のようになって掻き消える」というお得意の光学合成で表現され、キャラクターたちのセリフ上でも「消えた」「倒した」といった言葉でぼかされ、要するに死んだのか(キャラクターたちも「死んだ」と認識しているのか)そうではないのか(或いはキャラクターたちも全くの不明と認識しているのか)が判然としません。「消えた仲間は戻ってこない」といったセリフもあるにはあるのですが、まずこういう「逃げ腰」な表現がよくないと思います。


 上に書いたように今回の主役はディケイドとゴーカイレッドなのですが、二人は他のヒーローたちを次々と倒し、あろうことか悪の組織である大ショッカー、大ザンギャックのトップに収まってしまいます。そのため、物語を引っ張っていく事実上の主役はゴーカイブルーとディケイド側のライバルライダー、ディエンドという誰得かわからないラインナップに。
 何故戦うのかと問うブルーに対し、レッドは「ライダーと戦隊は共存できない、どちらかを倒さねばどちらかが滅ぶ。その理由を知っているのはアカレンジャーだけだ」と語ります。
 しかしアカレンジャーは既に倒されています。一計を案じた一同はゴレンジャーの活躍した過去の世界へ。
 そこにはアカレンジャーだけがおり、アオやキたちは登場せず。
 アカレンジャーは「よし、未来で悪と戦おう」と語り、一路、現代に帰還。
 しかしそこに現れた1号ライダー率いるライダーたちが戦隊に立ち向かってきます。
 ――が。
 1号とアカレンジャーは実はディケイドとゴーカイレッドの変身した姿でした。戦隊とライダーの同士討ちを誘うための芝居だったのです。
 しかし、そもそもならばどうしてそのアカレンジャーに化けたゴーカイレッドは過去の世界にいたのか。現代では1号は既に倒されているはずなのに、再び出現したことを一同が不審がらないのは何故なのか。そしてまた、ディケイドの化けた1号の率いたライダーたちやアカの率いた戦隊たちは彼らの口車に乗って戦うことに疑問を持たなかったのか。
 そうした疑問に解答はありません。
 当初は藤岡弘*、宮内洋、誠直也が声だけでも出て大いに絡むんだろうと考え、それがないと知って落胆したりもしたのですが、こりゃ出なくて正解だったとしか言いようがありません。


*1号の声が妙に藤岡弘にそっくりなので島本和彦が当てているのか、と思ったのですが、キャストを見ると稲田徹でした。


 さて、オチですが、まあ書くほどのこともありません。
 要はライダーと戦隊の対立は悪を騙すための芝居だったわけです。
 倒されたと思われたヒーローたちは異次元に封印されていただけで、ラストバトルでは大集合します。
 いえ、それが絶対ダメだとは思いません。例えばですが、70年代の娯楽作品のごとくキャラが悩むことなく「はははすまんすまん、敵を欺くにはまず味方からってね」とでも言わせて済ませていれば、それはそれでアリでしょう。だがなまじ「おくぶかいないめんびょうしゃ」のフリなんぞしてキャラが仲間の裏切りに対してうじうじ悩んだ後だから、そのオチが納得できないのです。
 ましてや(ディケイドも似たようなものだが輪をかけて)そもそも私利私欲で動いていただけのゴーカイレッドが「正義のために敢えて泥を被って悪のフリをする」動機があろうはずもないと、ぼくは感じました。エゴのために「悪の帝王」になる必然はあっても正義のために「芝居をする」必然など、ゴーカイには感じられません。


 正直、近年のヒーローにはそこまでの思い入れもなく、詳しくは知らないのですが、どうも今回のプロデューサーである白倉伸一郎氏は「勧善懲悪」に批判的な人らしいのです。そこで、毎回毎回ヒーローをヒールっぽく演出し、ヒーロー同士で潰しあいをさせているのだとか。ぼくの目から見れば白倉氏の手の入っていない(ファンからは評価の高い)『ゴーカイジャー』本編や戦隊大集合映画『199ヒーロー大決戦』も似たようなものに見えるので、必ずしも白倉氏だけが悪いということもないと思うのですが、いずれにせよ近年の東映ヒーローから感じられるのは(敢えてこの言葉を使いますが)厨二病的な露悪趣味です。
 80年代以降、ぼくたちのヒーローから「正義」というものは失われました。ヒーローたちは専ら「愛」という名の私ごとのために戦う連中になりました。
 90年代になり、ヒーローは「愛」という名の正義すら失い、「何故戦うのか」に苦悩しながら戦うようになりました。
 そして近年の東映ヒーローは「何か、悪っぽいのはカッコいい」という理由で正義の味方同士の潰しあいを描くようになったのです。
 考えれば東映ヒーローは『エヴァ』以降も一応、そこまでの苦悩をすることは避けていたことが多かったように思います。とは言え、ゼロ年代以降、
婚期を逃した女性たちへの配慮から、ヒーローたちからは「男女の愛」も剥奪されました。

 そう、もしも「紅一点」という時の「紅」を「男性からの求愛を受ける女性」と定義してみるならば、フェミニスト作家の涙目の主張とは大いに異なり、この十年間、アニメやヒーローでは「紅零点」制が一般化していたのです。

 となると彼らの「正義」はもはや「BL」しかあり得ません。
 
主婦をメインターゲットとする東映ヒーローのテーマが「BL」であることは言うまでもないのですが、本作ではゴーカイレッドが、ディケイドが裏切ったの裏切らなかったのというゴーカイレッド×ブルー、ディケイド×ディエンドの「BL」がテーマとして選ばれておりました。
 クライマックス、ディケイドに振られたと思ったディエンドが嫉妬に狂い、巨大ロボで暴れ回るのですが、この「ラスボス」がディエンドになる展開は当然と言えば当然だったのです。
 駄々をこね、拗ね、本心は現さない、自らからは一切相手に何も与えない「ツンデレ」キャラであるディエンドの「求愛」にディケイドが応じてやる。
 それが現代に唯一残された、唯一許される「正義」の形なのです。
 
ドロボーはBLを愛す、のです。


 ところで、アカレンジャーの正体がゴーカイレッドであったという描写を見た時、ぼくは『ルパン』の最終回の銭形が変装を解くとルパンであった、というシーンを思い出しました。
 一部ではこれは、「実は今までの話の中でルパンを追っていた銭形は第1話からずっとルパンが変装していたのであり、今まで視聴者が見ていたルパンはニセ者であったのだ」といった裏読みが可能である、と言われております。
 そう考えると、或いは本作品の目的はそれであったのでしょうか。
 実はアカレンジャーの正体は35年前からゴーカイレッドであった、仮面ライダー1号の正体は40年前からディケイドであったと、その歴史を「ドロボー」すること。
 仮面ライダー、戦隊の40年に渡る正義の戦いの全てを盗み取り、踏みにじり、切り刻み、「正義」の概念の全てを否定すること。
 それこそが、制作者たちの目的であったのでしょうか。
 ぼくたちは「さらば愛しきヒーローよ」と言わねば、ならないのでしょうか。


☆補遺☆
 本作、ネット上でもかなりの波乱を呼んでいます。
 何でも悪者化したヒーローたちにショックを受けた子供さんたちも多いようで、ツイッターで白倉氏に文句を言う親御さんなども現れました。
 それに宇野常寛師匠が反応し、


単純に「こんな時代だからあえて勧善懲悪のファンタジーを描く」のも、「複数の正義が衝突する現実を取り込んで、虚構というかたちで答えを模索する」のも、両方ヒーロー番組だからこそできる表現だと思うけどね。いーじゃん、多様で。その「~でなければならない」って思考こそがショッカー的だよ。笑


ちなみに僕は個人的に後者の方に興味があって、評価している作品も多い。


 とアタマのいいソータイシュギ的な立派なご意見をおっしゃっています。
 親御さんのツイートも行き過ぎだったとは思います。また、「複数の正義が衝突云々」はまさにぼくが上に書いたことと同じで、字面だけ見れば宇野師匠の主張はもっともです。「~でなければならない」は一歩間違えれば「表現の自由」を奪う後藤和智師匠のような考えに陥ってしまうと、ぼくも思います。
 しかしそれでも、親御さんの怒りにぼくはむしろ頷けるものを感じてしまうのです。
 と言うのも結局、本作は「複数の正義が衝突云々」などといった高級な世界観を持った作品とは言い難いものであったからですね。


 ちょっとした思考実験ですが、仮にこの映画で「悪堕ち」したのがゴセイレッドやオーズであったら、どうだったでしょうか?
『ゴセイジャー』のリーダー、ゴセイレッド、そして仮面ライダーオーズはいずれも穏やかな好青年であり、品行方正なヒーローです。そうした彼らが悪者になったら、むろん、その方がショックはでかいでしょう。
 が、むしろその方がよかったのではないでしょうか。
 何もぼくは「子供にショックを与える作品がよし」と考えてそんなことを言っているのではありません。
 あくまで仮定の上の仮定ですが、むしろその方が納得のいきやすい作品になっていた、子供が泣くこともなかったのではないでしょうか。
 仮にゴセイレッドやオーズが悪の組織のトップになったら、その違和感はハンパありません。作り手は普段は使ったことのない「頭」という部位を使わざるを得なくなるわけです。「どう演出すればいいのだ? 悪者っぽくアラタや映司に目張りでも入れる?」と(その意味で士が妙なヘアスタイルやメイクをしていたのは、役者さんなりの「考え」ではあったのでしょう)。
 その結果、「正義とは何か?」「悪とは何か?」との問いかけが作り手の中で動いて行かざるを得なくなります。今まで、手グセで映画を作っていた彼らの中で。
「正義の味方のはずの彼らが何故か悪に? これは一体どういうことだ?」といった状況のショッキングさに作り手が自覚的であり、考えつつ作っていれば、それは観客にも伝わるはずです。「意味不明の作劇を見せられて混乱する」ことはないはずなのです。
 何しろ、パンフレットなどを見ても作り手たちは「ゴーカイもディケイドも悪者っぽいから悪役にした」という極めて安直なことを平然と言っているのですから。


 結局、宇野師匠の「複数の正義が衝突する現実を取り込んで、虚構というかたちで答えを模索する」も「いーじゃん、多様で。」も、残念ながら文脈を踏まえない机上論でしかないように、ぼくには思われます。
 児ポ法反対運動をやっている人びとを眺めていて、「ポルノを子供に見せてもいいのだ」といった過激な考えがカッコいいと勘違いしてしまっている人びとにお目にかかる機会が、最近やたらと増えました。
 そうした人たちもまた、「善悪を子供に判断させるべき」「子供からポルノを採り上げること自体、表現の自由の侵害であり許せぬ」とでもいったようなうわっついたリベラリズムに取り憑かれてしまっているのでしょう。
 しかし「ヒーローが悪者になる」といった物語に子供が非常なショックを受けることは、今回のことからもわかります(むろん大多数の子供がそこまでのショックを受けなかったであろうこともまた、想像できますが)。
 やはりそうしたものを判断力のない子供に見せることは好ましくないでしょうし、ポルノが基本的に裏文化であるべきであり、子供に見せるべきでないこともまた、しかりです。
 進歩派の言説というのは、そうした子供を犠牲にすることに対して驚くべき鈍感さをもって、これからもネット上に垂れ流され、コンセンサスを築き上げていくのでしょう。


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2 コメント

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こんばんは。久しぶりにコメントさせていただきます。 (Unknown)
2012-05-04 23:44:14
こんばんは。久しぶりにコメントさせていただきます。




リベラルや進歩派連中って、口では物わかりのいい多元主義や相対主義を唱えておきながら自分自身を相対化する誠実さを欠片も持っていないんですよね。それだから人には相対的にだのそれぞれの正義だのと言いつつ、自分らが批判されるとすぐに逆切れして暴力だの右傾化だのと騒ぎ出す。幼稚な善悪二元論で仮想敵を作り上げて口汚く中傷する。実にゲスな連中だと思います。そんなアホが大学教授なんかやってる日にはもう・・・。まあ自分は宇野の本も発言もまったく読んでないんで彼については知りませんが。
それにしても最近のヒーロー物ってずいぶん劣化してるんですね。オールスター映画のオチがBL痴話喧嘩とは。勧善懲悪が嫌ならいっそ敵役の連中の内面を描きこんだ方がまだマシだったんじゃないでしょうか。
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おお、更新した丁度その時、コメントが入るとは。 (兵頭新児)
2012-05-05 00:18:43
おお、更新した丁度その時、コメントが入るとは。
『学者のウソ』という新書にあったのですが、「相対主義」というのは自分の気に入らない意見に対しては「相対的に考えろ」と言い立てることでビビらせ、自分に快い意見に対しては何も言わないというやり方だそうですw
だから相対主義者様は自分を相対化しなくても許されるのですね。

ぼくも宇野師匠については全然知らないのですが、どうも白倉氏のファンみたいで……。
ヒーローの「正義」を相対化する作劇は、実は90年代の『ジェットマン』などで盛んになされていました(それ自体はぼくも大いに楽しんで見ていました)。
脚本を書いたのは井上敏樹さん。最初の『仮面ライダー』などを執筆していた伊上勝さんという脚本家の息子さんです。
つまり、70年代的ヒーローは息子さんによってある種「否定」されているのですね。
が、それももう二十年以上前の話です。
何かの同人誌で「井上によってなされたパターン破りな作劇そのものがもう、テンプレになってしまった」と書かれていたのが印象的です。
それをいまだ引きずっているのは「古い」ということです。

何だか、とあるイデオロギー集団を連想させる話ですね。
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