以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。
こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。
文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。
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参った……。
ブログ記事二回目にして、「女災」と直接関係ないテーマになってしまいました。
今回は劇場版『まどか☆マギカ』について。
というよりは、それにまつわる騒動についてですね。
くどくど書くのも面倒なのですが、掻い摘んで説明すると、要はマニア向けの深夜アニメが劇場版となった、それを見た子供がショックを受けていた、という目撃談がツイートされ、それに過剰反応する者が大勢出た、というお話です。
『魔法少女まどか☆マギカ』は見ればわかるように可愛らしいタッチのキャラクターデザインですが、しかしその内容は非常に凄惨なもの。可愛いキャラでシリアスなことをやるというある意味「不意打ち」が、マニア層に衝撃を与え、話題作となったわけです。この「不意打ち」という戦略が一種、確信犯的に採られたことについては恐らく、マニア間でもコンセンサスとして認められているのではないかと思います。そうした作品が、深夜放映している分には問題はなかったものの、劇場版となったがために問題が露呈したというハナシです。
近年の『ひぐらし』などは問題視されたとは言え、一応、その時の受け手は本来のターゲットである中高生でした。しかし今回は「子供が知らずに見てしまった」、或いはそうなる可能性が充分に想定できる、というものです。例えば『セーラームーン』のエロ同人誌が普通の書店に並べられるとか、古くはいわゆるオタク系の美少女エロ漫画を子供が間違って買ってしまったとか、「萌え系」と呼ばれる文化はこの種の問題をずっとはらみ続けて、しかしそれをしつこくしつこく華麗にスルーし続けてきたわけです。
普通に考えて、こんなものは子供に見せるべきではないし、そうしたものを劇場公開する以上、作り手は多少なりとも考えておくべきだったでしょう。
『ゴジラ』が『とっとこハム太郎』と併映した時、映画館には「『ゴジラ』は怖い映画なので子供に見せる時は注意して云々」といった注意書きが貼られました。『ゴジラ』についてはむしろ「そんなに怖いかなあ?」というのがぼくの個人的な印象なのですが、とは言え、対策としては非常に行き届いていて好ましいものであったと思います。
しかしこうしたことにガマンがならない層がおいでのようで、ツイッター上でも論争が起きました。
一部の人たちは今回の騒動に拒否感を示し、「そんな子供などいなかったに決まっている」といった根拠のない願望を押し通したり、「下調べをせずに見に来るヤツが悪い(見に来るヤツがいるはずがない)」などと詰ってみたり、「子供にはこの話を理解するだけの力がある」という意味のない反論(別にお話が難解だ、ということは問題にされていないのですが)をしてみたり、「不意打ちのどこが悪い」といった居直りをしたりで、本件を「スルー」しようとしていました。
そうした人たち(問題なし派)が本件を問題視する人を「規制派」と呼んだり、或いはまとめの「みんなのおすすめ商品」に『有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』が配置されたりしているのを見ると、彼らの本心が仄見えてきます。
つまり、彼ら彼女らは『まどマギ』によって傷つけられた幼い少女、或いはそれに反応する人々に「コミック規制派」であったり「オタク差別者」であったりの影を見ているのでしょう。
この映画を規制せよ、上映中止にせよなどと言っている者など、少なくとも上のまとめを見る限りはただの一人もいないのに。また、その少女が実在かどうかについても、少なくとも「証拠もなくいたのだと決めつける」意見などは、ぼくの記憶する限りなかったように思います。むろん、ぼくの知らない場でそうしたやり取りがあった可能性は否定しませんが、上のまとめを見る限りでは、過剰でヒステリックなのは問題なし派の方だと言って間違いがないでしょう。
上にも書いたように彼らは「下調べもしないヤツが悪い」と言い張るのですが、ポスターを一見して、ましてや小さな子供やその親御さんであれば本作をまず、『プリキュア』などの延長線で考えるでしょう。
それが入ってみるや美少女キャラクターの首が飛ぶとか、美少女キャラクターが「私、ゾンビになっちゃったから好きな男の子とはつきあえない」と絶叫するとか、そんなものを観せられたらどんな気分になるか。
ダメだよ、こんなの絶対におかしいよ!
非道いよ、こんなのあんまりだよ!
上に書いたような「注意書き」の一つもあれば間違って観る者も減り、また嫌な言い方ではあるけれども作り手や上映館の責任も回避でき、いいこと尽くめではないかと思うのですが、彼らはそれがどうしても許せないようです。まとめ人の有村悠師匠自身、「ゾーニングまかりならん論」の主なのですが、こうした規制に反対し、表現の自由を標榜する「リベラリスト」たちは、どうしたわけかそうした「住み分け」が絶対に許すことのできない蛮行だと、どういうわけか考えている比率が大変に高いようです。
コミック規制の問題でも、話していくと彼らは非常に頻繁に「子供にエロ漫画を見せることの何が悪い、ゾーニングは認めぬ」といった主張をします。
彼ら彼女らにとっては子供の心理よりも、遙かに「表現の自由」が大事なのでしょう。その「表現の自由」とは、上にも見た通り、他人の意見から耳を塞いだところでのみ、成立するものなのですが。
まあ、他人様のガキの心の痛みなんざ、どうでもいいですからなあ。
ねえ、この世界って守る価値あるの? 私何のために戦ってたの? 教えてよ。今すぐあんたが教えてよ?
ちょっと余談になりますが、この種の議論の時に出てくる「ガキもこうしたトラウマを受けて成長するのだ」論を一種の「シゴキに耐えてこそ男は成長する」と言った類の精神論のバリアントだ、として批判している人がおり、それは大変面白いと感じました。なるほど、彼らリベラリストはそうしたマチズモを狂ったように批判してきたにもかかわらず、自分にとって都合のいい時ばかりマッチョなことを平然と言い出すというのは、当たっているように思います。
ふふふ……ふふふ! うっふふふ! 本当だ! その気になれば痛みなんて! あはは、あはは! 簡単に消しちゃえるんだ!!
上の「ゾーニングまかりならん論」を見てもわかる通り、大変不思議なことですが、「リベラリスト」を持って任じる方々はどういうわけか、他人の権利については一切考えないという性向を持っている場合が、大変に多い。後藤和智師匠しかり、高橋直樹師匠しかり。
そしてまた公立の図書館で小学生にでもBL本が借りられる状態になっていたことが問題視された時、「BL本排除はホモ差別だ!」と絶叫したフェミニストしかり、任意の表現に「ミソジニーだ」とのレッテルを貼ることに躍起になるフェミニストしかりです(やっとちょっとだけ絡めることができました)。
残念なことですが、オタク界にもそうしたご立派なリベラリストが増えてきた。てか、意見を言える立場にいるのって、そうした人たちばかりのように、ぼくには思われます。何しろ、そうした学閥だの何だのに与さないことには、偉くなれませんからなあ。
ぼくと契約して、リベラリストになってよ!!
自由なんてそもそも他人のそれとバッティングすることが多いのは自明の理であり、ぼくたちの自由よりも「リベラリズム」という正義の心を持った者の自由こそが優先されるのは、彼らにしてみれば当たり前のことなのでしょう(リベラリスト同士の同士討ちの場合はどうなるのか知りませんが、まあグリーフシードを多く得た者の方が強いとか何とか、恐らく彼らだけにわかるルールがいろいろとあるのでしょう)。
この国では成長途中の文化のことをサブカルチャーって呼ぶんだろ? だったら、やがてファシストになる君たちのことはサブカルファシストと呼ぶべきだよね。
最後にもう一つ、テーマを「女災」と絡めて結論めいたことを書いておきましょう。
結局、A君とB君の「自由」がバッティングするのが自明である以上、「自由主義」という名の美辞麗句の中には既に「尊重されるべき自由/尊重されない自由」という価値判断が内包されていると考えざるを得ないわけです。それは「差別」という言葉の中に、実は既に差別性が内包されていることが、「ミソジニー」という言葉で明らかになったのと、全く同じに。