天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

退陣勧告

2019-08-15 13:57:41 | 日記
 きょうは敗戦記念日。八百万の神々に災厄退治をお祈りした。韓国では光復節でさぞ盛大に祝っているのやろな。やっぱり負けたらあかん。アメリカは何でも力づくで物事を押し通そうとするし、日本人はいじけて人の顔を窺ったり、忖度するのが習い性になってしまった。敗戦が国民性を打ち砕いてしもうたわ。
 桑田忠親著『太閤の手紙』によると、北条氏の小田原城攻略の後、東北地方を平定した豊臣秀吉は浅野長吉宛の手紙で、新しい統治方針について納得のいくよう説得し、それでも従わないならば、「一郷二郷も、悉く撫で斬り仕るべく候」と厳罰を命じている。これより先、九州平定の時に朝鮮半島と中国・明の征服を次の目標に掲げていた。淀君との間に生まれた初めての子の鶴松が3歳で病死すると、その年の天正19年(1591年)暮れ関白職を甥の秀次に譲り、朝鮮出兵に専念するようになった。翌文禄元年に陸海軍を派兵し、自らは大本営の名護屋城(現唐津市)に在陣、総指揮を執った。最初は全戦全勝の破竹の勢いだったため、そこから京都・聚楽第にいる生母・大政所宛に、「早々と高麗の城々とり申し、高麗の都へも取りまかせに人数つかはせ申し、唐をも九月頃には取り申すべく」と大胆な構想を披瀝し、9月9日の節句には唐の都に母親を迎えたいと大言壮語していた。しかし、好事魔多しで、この手紙から3カ月経たないうちに、最愛の母が海外戦争の行く末を懸念した心労のため落命。秀吉は悲嘆のあまり、気絶したという。朝鮮での戦況は李舜臣率いる水軍との一戦に負け、明国の本格参戦もあり膠着。文禄2年に第1次戦役は終結した。正妻北政所(ねね)宛の手紙には、「大明国より詫び言に勅使この地(名護屋城)まで越し候間、条数書(箇条書き)をもて申し出で候。それに従ひ、存分に受け(受諾)候はば、いよいよ許し、大明国、朝鮮・異国、存分に任せ、凱陣申すべく候」と、あくまで戦勝の報告を行っている。その後は淀君との間に第2子、お拾(ひろい、のちの秀頼)が生まれ、主要な関心はその養育に移っていった。
 NYダウが800ドル安か。トランプ米大統領への市場からの退陣勧告やなあ。7月16日高値の2万7398ドルから1919ドル、率にして7%も下げては、ダウの堅調を自分の経済政策の成果と常々自慢していた同大統領にとって面目丸潰れである。自己都合の対中関税戦争に通貨戦争、斬って返して米FRBには常軌を逸した露骨な利下げ介入、果てはWTO脱退の脅しと、錯乱した行動様式に市場がさじを投げだしている。それほど海外との交易、外交が不当と判断するなら、対メキシコだけでなく、国境四囲に高い鉄壁を張り、日本の江戸時代のように鎖国をすればよい。そうすれば変な宗教も物資も入ってこず、国内は安全平穏が保たれる。その代わりグーグルもフェイスブックも海外使用を禁止し、輸出を全禁すればよい。思惑通り、MAGA( Make America Great again ! )を達成することができるだろう。世界の人々も個人情報をCIAに閲覧されずに済み、歓迎するに違いない。
 湿度が充満して息苦しい。飛行機も新幹線も夏祭も吹き飛ばすなんて台風10号の猛威は上陸前から凄まじい。きのう暑中見舞いに西瓜を隣町の娘から貰うとともに、夏休み旅行の準備として猫を1匹預かった。クーラーを節約するわが家なので、あの純毛を見ると、気の毒で仕方ない。ペットも熱中症に注意、という記事を見た。無事返せるといいのだが、と不安になる。

大嵐 襲ひ来べしと 竦み待つ
晴れ間の隙ゆ 湿気先立ち