(姫川─白馬村よりやや下流)
<姫川の源流>
後立山連峰に降った雨や、雪渓から解け出た水は渓流となって麓へと流れていく。その幾筋かは白馬村の中を通る。
なかでも松川は、あの白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流として、多少の感慨をもって眺める登山者もいる。
(松川)
これらの渓流を集めながら、後立山連峰の東側の谷筋を、北へ北へと流れてゆくのが姫川である。流れてゆく先は、県境を越えた新潟県の糸魚川市の海岸。
糸魚川という川は存在しない。市内を流れる一級河川は姫川である。「厭い(いとい)」から転化したという説もある。姫川は昔から暴れ川だから、そんな風に呼ばれたこともあったかもしれないが、わからない。
白馬村の姫川の橋の上で流れを眺めていたら、向こうから歩いてきた人が立ち止まって、「糸魚川静岡構造線だよ」と教えてくれた。唐突だったからちょっと驚いた。そういうことに興味をもつ人間と思われたのかもしれない。
帰宅して改めて調べてみたら、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界で、日本の本州を縦断する大断層線ということだった。優しい名をもつ川だが、何やら畏ろし気である。
だが、その名のイメージのとおり姫川の水質は清らかで、一級河川のなかで一、二を争う清流である。
水源はこの村の中にある。白馬村の南の端あたり、標高745mの親海(オヨミ)湿原の湧き水が水源ということだ。
早春の頃は福寿草が群生し、やがて水芭蕉や鬼百合なども咲いて、木製の遊歩道が整備されていると紹介されていた。行けばよかったと、あとで思った。しかし、木陰が少ないから、夏はただ暑いばかりかもしれない。いつかまた、良い季節に白馬村に行く機会があれば、行ってみたいと思う。
白馬村の南隣は大町市である。「白馬」駅から大糸線に乗って南下すると、大町市に入ってすぐに青木湖、中綱湖、木崎湖の静かな湖面が次々と車窓に見えてくる。
(青木湖)
その青木湖の漏水が親海(オヨミ)湿原の湧き水はではないかという説もあるらしい。しかし、そこまでは調査されていないそうだ。根拠はないが、そうかもしれないと、期待まじりに思った。
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<そして、姫川の河口>
親海(オヨミ)湿原の湧き水を水源とし、途中、後立山連峰から流れ落ちてくる渓流を集めながら、姫川は北へ北へと、日本海まで60㎞を流れてゆく。川の横を国道が走り、各駅停車の大糸線もトコトコと走って、糸魚川駅まで行く。
姫川の河口付近の河原や海岸では、ヒスイを採取できる。
ヒスイは「国石」である。日本鉱物学会によって日本を代表する石に選定された。決選投票では水晶と争い、ヒスイが最終的に選ばれた。
以前、出雲大社に参拝したとき、宝物館(博物館)でヒスイの勾玉を見て、その美しい緑に魅了された。爾来、ヒスイには心ひかれている。
だが、国石と言っても、ヒスイは日本列島のどこでも採取できる石ではない。過去にヒスイが採取・利用されたのは新潟県糸魚川市付近のものだけ。
場所ばかりでなく時代も限定されて、日本の歴史の中でヒスイが装飾品として使用されたのは、縄文時代から、弥生時代を経て、古墳時代までである。その後、ヒスイは日本の歴史からフェードアウトし、誰からも忘れられてしまう。再発見されたのは戦後である。
今は誰でも糸魚川付近の河原や海岸でヒスイを採取でき、採取された石がヒスイの原石かどうかを鑑定してくれる施設まであるという。それは、河口付近まで流されてきたヒスイはやがて砂粒になって消滅してしまうからである。消滅してしまうなら、子供でも大人でも採取して持ち帰り記念にしてほしい。だが、姫川の少し中上流のどこかで、ハンマーでは割れないから、ダイナマイトなどを使って採取しようとしたら、盗掘になる。
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<沼河比売 (ヌナカハヒメ) と姫川>
今回の旅の中で、ふっと、何故「姫川」なのだろう?? と思った。この川の名は何かいわれがありそうだ …。
こういうことは、地元の子どもたちの方が郷土学習か何かで勉強して、みんな知っているのかもしれない。それにひきかえ、何度も信濃国を訪ねながら、この年齢まで疑問に思うことさえなかった。
それで、調べてみた。
── 新潟県 (高志国、越国とも) や長野県 (信濃国) には、古来から「沼河比売」を祭神とする神社があり、祭神の「沼河比売」の伝承が残っている。
漢字表記は「奴奈川姫」などもある。ヌナカハヒメ、或いは濁って、ヌナガワヒメと読むそうだ。
この姫の名をもつ川が、万葉集に1首だけ登場する。雑歌だが、地方から収集された歌だろう。
沼名河(ヌナカハ)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(アタラ)しき君が 老ゆらく惜(ヲ)しも」(3247 作者未詳)
老いていく「君」とはどういう人なのか、歌の作者と 「君」との関係などもよくわからない。
歌の意は別にして、冒頭に沼名河 (ヌナカハ) という川の名が出てくる。その川から「玉」を得ることができる。ヒスイのことだろう。古語の「ぬ」は宝玉の意をもつから、「ヌナカハ」は玉の川である。
沼河比売 (ヌナカハヒメ)を祀る神社や、石を採取できる沼河 (ヌナカハ)から、姫川の「姫」は、沼河比売(ヌナカハヒメ)に由来すると考えていい。
沼河比売 (ヌナカハヒメ)は、遠い昔、ヒスイを採取できるこの地を支配した豪族の祭祀女王であったのだろう。
(白馬村を流れる姫川)
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<大国主と沼河比売の話>
沼河比売 (ヌナカハヒメ) は、『古事記』にも一度だけ登場する。神代記の大国主の命の話の中である。
話を要約すると味も素っ気もないのだが、出雲、伯耆、因幡 (島根県、鳥取県) の王となった大国主が、高志 (越) (石川県、富山県、新潟県) の沼河比売 (ヌナカハヒメ) を妻にしようと思い、高志国に出かけて行く。
姫の家の前にやってきた大国主は、鎖された姫の家の外から求婚の歌をあつく詠む。やがて姫も、家の中から大国主に応じる歌を返した。そして、その翌日の夜、二神は結婚したという話である。
遠い古代(弥生時代後期)に、山陰から北陸にかけて、日本海ルートで「出雲・越連合」が形成された。そのことを神話的に表した話であろう。朝鮮半島や大陸との交易を差配する出雲の王にとって、姫川産のヒスイは貴重な交換財であった。
『古事記』の沼河比売 (ヌナカハヒメ) に関する記述はこれだけだが、沼河比売 (ヌナカハヒメ) を祀る神社がある地には、大国主と沼河比売 (ヌナカハヒメ) との間に子が生まれたという伝承が残る。子の名は建御名方 (タケミナカタ) の神。成長して、姫川を遡って諏訪地方に入り、諏訪大社の祭神になったという。諏訪大社の方でも、祭神の建御名方 (タケミナカタ) 神の母を沼河比売としている。
(諏訪大社)
出雲・越連合の支配圏・文化圏は、姫川を溯って、内陸部の信濃国に及んだ。諏訪大社は信濃国の一宮である。
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<『古事記』の中の建御名方 (タケミナカタ) の話>
大国主の子である建御名方 (タケミナカタ) も、『古事記』に一度だけ登場する。それは「大国主の国譲り」、即ち大国主命が高天原の勢力に国を譲る話の中である。
高天原から使者がやってきて、国を譲れと言う。大国主とその子の事代主(コトシロヌシ)はやむを得ないと考える。しかし、もう一人の息子である建御名方 (タケミナカタ) が出てきて反対する。建御名方 (タケミナカタ) は力自慢で意気軒昂である。そして、高天原の使者である建御雷 (タケミカズチ) と戦うことになる。建御雷 (タケミカズチ) は高天原随一の勇者で、建御名方 (タケミナカタ) は全く歯が立たなかった。その結果、建御名方 (タケミナカタ) は信濃国の諏訪に隠棲したという。
出雲・高志(越)連合が大和の勢力に服属するに至ることを神話的に言い表した話であろう。
ただ、このとき、大国主は国譲りに当たって一つだけ条件を出した。日本一高い神殿を建てて、自分を末永く祀ること。
約束は守られ、出雲大社の神殿は、東大寺の大仏殿や平安京の大極殿よりも高かったという。祭祀権は譲渡しなかったのである。
(出雲の美保神社は事代主を祀る)
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<ヒスイの古代史>
※Wikipediaの「糸魚川のヒスイ」の記述は、その研究史を含めて極めて詳細で、印刷したらA4で十数ページになった。以下の記述はこれを参考に書いた。
縄文時代のヒスイ]
ヒスイの原産地は、姫川やそのすぐ南西部を流れる2級河川の青海(オウミ)川の中上流域である。
縄文時代以来の日本のヒスイ製品の全てが、これらの河川の河口付近で採取された「糸魚川産」のヒスイでだった。
ヒスイ利用の最古の例は約7000年前、縄文時代前期の敲き石(ハンマー)である。世界で最も古いヒスイの利用例。
ヒスイが装飾品として利用されるようになったのは約6000年前から。その代表的なものは「大珠」。
大珠は装身具としては少し大きすぎるから、儀式などの場面で呪術的な役割をもって使われたのではないかと推測されている。言い換えれば、ヒスイは集団の場で威信財として使われていた。ヒスイの美しさと希少さが、畏怖の対象として崇められたのであろう。
ヒスイには様々な色があるが、古代日本のヒスイ文化は全て緑。他の色のヒスイが使われた例はない。
縄文期におけるヒスイの分布は、まだ街道と言えるほどの道路網などなかったはずだが、中部地方から東北地方、北海道南部や伊豆諸島にまで広がっている。
「人が動かなくなる方が、かえって物はよく動く。定住によって、『人は動かず、物を動かす』ネットワークの仕組みができる」(松本武彦『日本の歴史1ー列島創世記』小学館)。
製品の加工現場は、糸魚川周辺から工房跡が発掘されている。だが、糸魚川にとどまらず、例えば600キロも離れた有名な青森の三内丸山遺跡でもヒスイの加工が行われた跡が発見されている。
固いヒスイを適度な大きさに割き、磨き上げ、キリで穴をあけるのは、大変な時間と技と労力を要する仕事である。
縄文時代晩期になると、九州や沖縄からもヒスイ製品が見つかっている。しかし、近畿、中国、四国からはほとんど発見されていない。
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弥生時代のヒスイ ]
弥生時代前期はさまざまな玉製の装飾品が作られたが、ヒスイ製のものはなく、縄文晩期のものが伝世品として使われていたのではないかと言われる。
弥生の中期になると、北九州にヒスイの原石が運ばれ、ヒスイ製の勾玉が作られて流通するようになる。
後期になると、ヒスイ製勾玉の分布は東へと拡大していった。
勾玉には様々な種類の石が使われたが、ヒスイ製の勾玉が最上位のものとして尊重された。
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古墳時代 ─ ヒスイ製勾玉の最盛期]
古墳時代のヒスイのほとんどは勾玉に加工され、首飾りとして大切にされた。
出土の中心は畿内へ移り、関東地方にも広く広がる。
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朝鮮半島のヒスイ]
朝鮮半島におけるヒスイの利用は三国時代に遡り、4世紀から6世紀前半にかけての伽耶、百済、新羅の王や有力者の墳墓からヒスイ製勾玉が数多く発掘される。
例えば、新羅の慶州の墳墓から出土した金冠には、57個のヒスイの勾玉が装飾されていた。
これら朝鮮半島のヒスイも、全て糸魚川産のヒスイである。
「魏志倭人伝」に記述されているように、当時、鉄素材は朝鮮半島の南の伽耶地方でしか産出せず、それを倭も新羅も百済も入手していた。当然、鉄を手に入れるには交換できるモノが必要にある。朝鮮半島で出土するヒスイ製勾玉は、鉄を得るため日本から持ち込まれた交換財の一つであったと考えられる。(わが国で鉄素材が生産されるようになるのは5~6世紀である)。
なお、中国においてヒスイが宝石として尊重されるようになるのは17~18世紀の清朝の時代である。ミャンマー産のヒスイが加工され、「翠玉」として王室等で尊重された。
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奈良時代以後 ─ ヒスイ文化の終焉]
ヒスイ文化は、奈良時代に入ると急速に衰退した。
東大寺法華堂(三月堂)の本尊である不空羂索観音(国宝)の銀製の冠には、2万数千個の宝玉が飾られ、ヒスイの勾玉も連なっているそうだ。これが日本におけるヒスイの最後の使用例である。
その後、ヒスイは忘れられていった。利用もされず、産地さえも忘れられていった。
すっかり忘れられ、江戸時代に古代の遺跡から見つかったヒスイの装飾品も、国内産か、遠い異国から運ばれてきたものか、誰にもわからなかった。
明治に入り、近代的な考古学の研究調査が行われるようになっても、ヒスイの正体はわからないままだった。
戦後になって、考古学だけでなく、鉱物学の研究調査が進む中で、古代のヒスイ製品の全てが糸魚川産であることが科学的に判明した。
古代のヒスイが糸魚川産ではないかということに最も早く気付いたのは、考古学者でも鉱物学者でもない。糸魚川出身の評論家、相馬御風である。昭和10(1935)年のことであった。
彼は、糸魚川近辺に存在する「沼河比売(ヌナカハヒメ)」を祀る神社、沼河比売の伝承、そして、『古事記』などに登場する「沼河比売」の神話などから、古代のヒスイの産地は糸魚川市内の姫川河口ではないかと思いついたのである。
神話、伝説、伝承も大切にしなければいけない。
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<卑弥呼の時代と越のヒスイ>
素人の私ではあるが、日本の古代史について、今、私が、「納得できる!!」と思いながらオンライン講座でお話を拝聴しているのは、福岡大学の桃崎祐輔先生である。まだ若い考古学の先生だが、お話は国内各地の考古学的成果は言うまでもなく、朝鮮半島や大陸の研究成果にも広がり、沼河比売(ヌナカハヒメ)の伝承にまで及ぶ。
日本の3世紀前半、すなわち弥生時代から古墳時代へ移行する直前の日本、言い換えれば「魏志倭人伝」に卑弥呼が登場した頃の日本列島について、桃崎先生は少なくとも3つの広域政治連合体が鼎立していたとされる。
「畿内・瀬戸内連合」、「東海・関東連合」、「山陰・北陸連合」の3つである。
それぞれ、『邪馬台(ヤマト)国連合』(初期ヤマト王権)、『狗奴(クナ)国連合』、『出雲・越連合』である。
3世紀初め、これらの連合体はいずれも外部権威(後漢)依存型の「王権」で、彼らの権威は朝鮮半島北部に設置されていた楽浪郡を経由してもたらされる中国製の威信財 (鏡、水銀朱) や、朝鮮半島南部の伽耶地方の鉄資源に依拠していた。
越(高志)のヒスイは、この時代、出雲・越連合にとって貴重な取引財であった。「鉄が速やかに行きわたった日本海沿岸で、個人を顕彰・誇示する大がかりな墓づくり(四隅突出型墳丘墓)がいち早く発達したことは偶然ではない」(上記『日本の歴史1』)
(出雲の神社のしめ縄)
ところが、204~220年頃、遼東半島の公孫氏が台頭して、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置した。そして、これとの交渉上、倭国全体の王を擁立する必要が生じ、卑弥呼が擁立された。卑弥呼の擁立を推進した中心は吉備の勢力。出雲はもともと強いリーダーが存在しない、調整型の社会だったから、事態の変化への対応は遅く、かつ消極的で、次第に立場が弱くなっていったと考えられる。
238~239年、魏によって公孫氏は滅ぼされた。そのとき卑弥呼はいち早く、直接に魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授かり、朝貢ルートを確保・独占した。こうして、邪馬台国(ヤマトコク)連合の主導権が確立した。
(卑弥呼の墓と言われる箸墓と三輪山、手前は堀)
その後、313年、台頭した高句麗によって楽浪・帯方郡が滅亡。魏のあとを継いでいた西晋も、316年に滅亡した。以後、東アジアは、589年の隋による統一まで混沌とした状態になる。
これまで外部権威依存型であった出雲集団はここに至って自律的存続が不可能となり、大和王権に服属する。越(高志)もまた、その余波で弥生的な世界の終焉を迎えた。
こうして、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国時代に入り、3世紀の後半から4世紀にかけての日本列島も初期ヤマト政権の下に次第に統一されていった。
桃崎先生の説明を私流にまとめればこのようになるだろうか。
とにかく出雲・越の勢力にとって、糸魚川のヒスイは、伽耶の鉄素材を入手するために重要な交換財であった。その後、出雲・越を従わせた大和政権の時代になっても、古墳時代を通じて、糸魚川のヒスイは大いに活躍したのである。
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(閑話)
塩野七生さんがこんなことを書いていらっしゃる。
「あるときのインタビューで、『(歴史)学者たちとあなではどこが違うのか』と問われたことがある。それに私は、こう答えた」。
「その面の専門家である学者たちは、知っていることを書いているのです。専門家ではない私は、知りたいと思っていることを書いている。だから、書き終えて初めて、わかった、と思えるんですね」。
塩野さんと私との違いは、塩野さんが学識と見識と文才をもち、さらに多くの読者の期待に応えようとする覚悟をもって対象に挑んでいるのに対し、私の場合は百科事典的なレベルでわかったと納得してしまう点である。
それでも、ブログを書く根底には知りたいという思いがあるからで、その点で塩野さんと同じである。
書きながら、調べ、考える。こうして、知らなかったことを知ることは、何歳になっても面白い。いや、若い頃は、「何だろう、これ??」とさえ思わず、日々、前へ前へと馬車馬のように生きていた。今は、立ち止まって楽しんでいる。