ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「降り残してや光堂」 … 陸奥国の岩手県平泉と盛岡の旅⑵

2025年02月23日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

   ( 中尊寺の紅葉)

<鎮魂の祈り、平和の希求>

 関山(カンザン)という低い丘陵が、平泉の街の北端をふさぐように横たわっている。丘陵の上に立って北方を眺めれば、前九年の合戦の舞台となった衣川が左から右へと巡り、北から流れてきた北上川に流れ込むのが見えるだろう。

 初代清衡はこの丘陵上に中尊寺を建立した。「関山中尊寺」である。

 中尊寺とは一組の堂塔のことではない。比叡山や高野山のように、最盛期には寺塔40余、僧坊300余があったという、その総称が中尊寺である。

 清衡(1056~1128)は、前九年の合戦 (1051~1062) のさ中に生まれた。戦いが終わった時、母の出自である安倍氏は滅亡し、父の藤原経清は殺された。子どもであった清衡は、母とともに勝者の清原氏に引き取られた。母の母(母方の祖母)は安倍氏に嫁いだが、清原氏の出であり、奥六郡を経営するためにも安倍氏の血が大切にされたのだ。

 20年後、清原氏の内紛が、後三年の合戦(1083~1087)となった。腹違いの兄とその養子、清衡、同母弟、それぞれを担いだ清原一族が骨肉の戦いを繰り広げ、清衡の妻と子は異母弟によって館ごと焼き殺された。

 後三年の戦いの勝者は清衡だったが、現代の歴史研究では、清衡がすぐに奥州に覇権を打ち立てたのではないとする。朝廷は、後三年の合戦における源義家の戦いを野心による私戦であったとし、清衡もまた源義家に従って奧羽に戦禍をもたらした人物としたのである。そのため、清衡は中央政府や陸奥の国府に監視される身となった。

 妻子を殺され同母弟と戦った心の傷跡が癒えぬまま、清衡は清原一門内の融和と再結束に努め、敵将であった人の娘を嫡妻に迎えている。

 その後は、中央政界とのつながりを求めて活動した。関白家に馬を贈るなどの働きかけもしている。また、数年間、妻の縁故を頼って京に出て、都の政界や仏教界の人々と交わったようだ。

 清衡が奥六郡の主として中央や陸奥の国府から公認されるようになったのは、後三年の合戦から20年もたってからのことである。

 彼は本拠を平泉へ遷し、北上川の右岸に柳之御所を建てて、ここを基盤に奥州統治の政務を行った。

 中尊寺の建立に着手したのは、平泉に遷って2、3年後の50歳の頃とされる。二つの合戦で亡くなった全ての人々の霊を敵味方の別なく鎮魂し、この丘陵の上に法華経に描かれた仏国土を表そうとしたものであった。

 中尊寺が建つ前、関山(カンザン)には、名のとおり衣川の関があった。

 陸奥国の入口の (福島県) 白河の関から、北の果ての (青森県) 津軽半島の外ヶ浜まで、奥羽を南北に貫く道があった。そのちょうど中間点にあたるのが関山の関所だった。東西に横たわる丘陵を、南或いは北側から直登する峠道は、函谷関を思わせるような急坂であったという。

 中尊寺のHPによると、後三年の戦いの後、清衡は、初め白河の関から津軽の外ヶ浜までの街道の1町ごとに、慰霊の笠卒塔婆(供養塔)を建てていったという。そして、その中間点の関山には1基の塔を建て、やがてその両側に多宝塔と釈迦堂を建立して、法華経の一場面を具現化した。それがどのようなものであったのか今はわからない。そのあと、次々と、丘陵上にいくつもの伽藍を建立した。

 今日、現存するのは、金色堂のみである。自身の廟堂として建てたとされる。その棟上げは1124年で、70歳近くになっていた。

 中尊寺全体の落慶供養が行われたのは1126年で、中尊寺の建立に着手してから22年目であった。このとき清衡が読み上げたとされる「中尊寺建立供養願文」の原文は既に失われているが、南北朝の時代、鎮守府将軍として奧羽に派遣された若き北畠顕家が書写したものが、寺史の第一級史料として今に伝えられている。

 後三年の戦い(~1087)のあと、 藤原清衡(~1128)、基衡(~1157)、秀衡(~1187)と続いた藤原三代は、奥州の地に約100年間の平和をつくった。

 その後、1189年、源頼朝が平泉に侵攻し、奥州藤原氏は滅亡する。

      ★ 

<その後の中尊寺のこと> 

 「頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった街には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています」(中尊寺HPから)。

 廃墟となった平泉の街区に入ったあと、頼朝は残された寺々を巡回して、その仏教文化に深い感銘を受けた。そして、奥州の政務は藤原氏の先例に倣うよう命じ、また、御家人の葛西清重に平泉の安全を保持するよう命じた。こうして平泉の寺院群の存続は約束された。

 だが、庇護者を失ってしまうと、多くの堂塔を維持し続ける収入はなくなる。鎌倉幕府は数度に渡って中尊寺の修理を行い、1288年には金色堂を保護するため覆堂(オオイドウ)を設けたが、中尊寺の荒廃は進んでいった。

 1337年、中尊寺に大火があり、金色堂以外のほとんどの堂塔が焼失した。かろうじて残ったのは、金色堂と、一部の仏像、仏画、経文、工芸品などである。

 室町時代から戦国時代にかけて、荒廃は一層進んだ。

 江戸時代、平泉は仙台藩領になった。伊達藩の歴代の藩主は、中尊寺の収入を安堵し手あつく保護した。今、山内に点在する堂の多くは仙台藩によって再建されたものである。

 戦後、1950(昭和25)年、文化財保護法が制定され、金色堂は国宝建築物の第1号となり保護されることとなった。また、この年、藤原四代の遺体の学術調査も行われた。

 1962(昭和37)年、金色堂の解体修理が行われた(後述)。

 2011(平成23)年、「平泉─仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」がユネスコ世界文化遺産に登録された。

   ★   ★   ★

<紅葉の中尊寺を散策する>

 中尊寺の表参道は「月見坂」という風流な名で呼ばれるが、関山の東の麓から丘陵を800mほども登っていく道である。参道には仙台藩が植樹した樹齢350年の杉の古木が鬱蒼とそびえている。登り着いた山上の樹林の中に、中尊寺を構成する諸堂は点在している。

 朝、宿の小型バスが宿泊客を平泉駅まで送って行く途中、これから金色堂を見学しようという客のために、金色堂近くの駐車場に停車するという。マイカーやレンタカーで平泉を回る人はしんどい月見坂を登らず、ここに車を置いて金色堂を見学するらしい。

 中尊寺の核心部へいきなり車で乗りつけるというのはどうなのかとも思った。古人のように、一歩一歩、表参道を登っていくべきである。芭蕉もそうしたし、西行もそうした。かつての私も。しかし、年齢と、今日一日の行程を慮って、バスに便乗することにした。

       ★

[降り残してや … 金色堂]

 駐車場から脇道を上がっていくと、ほどなく、鬱蒼とした巨木の下に金色堂が現れた。紅葉が彩りを添え、覆堂(オオイドウ)に囲われている。そう、こういう佇まいだったと記憶がよみがえる。広大な中尊寺の建築群のなかで、唯一、900年前の創建時の姿を遺す阿弥陀堂である。

  (樹間の金色堂)

 入場券は、中尊寺の宝物館である讃衡堂(サンコウドウ)とセットになっていた。

   覆堂の中へ入ると、まことに小さなお堂である。… 写真に写せないのが残念。

 少し後方に下がってお堂全体を眺めたときの姿がいい。3間四方の小さな堂の上の屋根が、鳥が羽を大きく横に広げたようにお堂を覆っている。その大きくのびやかな羽を支えて、正面に4本の柱が堂々と並び、その太柱の奥に、まるで垣間見るような感じで、須弥壇とその上の黄金色の仏たちが見える。それらは、まるで遠近法で見るように、遥かに遠く、小さい。

 この正面全体のお姿がまことに良い。

 近寄って、お堂の中を拝観した。

 5.5m(3間)四方、高さは8mとか。「皆金色」の極楽浄土を表す。

 芭蕉は「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだが、確かに、広大な中尊寺の数多の堂塔のうち、一つだけ奇跡のように今に遺された珠玉のような小宇宙である。

 下の写真は、宝物館の讃衡蔵に貼ってあった須弥壇の写真の写真。この前に立って自由に記念撮影を、という趣旨のものだ。

  (中央の須弥壇)

 須弥壇両脇の円柱は、夜光貝を用いた螺鈿細工が施されて、象牙や宝石で飾られている。このような素材はどういう道筋をたどって奥州藤原氏のもとへやってきたのだろう。

 須弥壇の前面には孔雀の浮彫り。気品がある。

 そして、須弥壇の上に、本尊の阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩。さらに左右に3体ずつの地蔵菩薩。最前列には持国天と増長天。合計11体で1組の須弥壇が構成されている。

 須弥壇は3組ある。中央の須弥壇の中には初代清衡の遺骸が納められ、左手の須弥壇には2代基衡、右手の須弥壇には3代秀衡の遺骸と4代泰衡の首級が安置されている。

 1950(昭和25)年、須弥壇の中の藤原四代の遺体の学術調査が行われた。もちろん、異人種、異民族ではなかった。泰衡の首桶から発見された800年前のハスの種は植物学者の手にゆだねられ、今、季節になると中尊寺境内の池に花を咲かせている。

 1962年、金色堂の解体修理が行われ、金箔が貼りなおされて今の美しい姿になった。そのとき使用された金箔は3万枚、金9㎏という。

 金色堂の見学を終え外に出ると、近くに芭蕉の句碑があった。石の文字は風化して既に読みにくい。

   (芭蕉の句碑)

松尾芭蕉「奥の細道」から

 「かねて耳驚かしたる二堂、開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠(タマ)の扉風に破れ。金(コガネ)の柱 霜雪に朽ちて、すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ。しばらく千載(チトセ)の記念(カタミ)とはなれり

  五月雨(サミダレ)の降り残してや光堂」。

 芭蕉は「経堂は三将の像を残し」と書いているが、藤原三代の像はない。随行した曽良日記によると、この日、経堂は開いていなかったそうだ。つまり、フィクションであり、「奥の細道」は文学作品なのだ。

 しかし、「五月雨の降り残してや光堂」の句は、霜雪を経て今なお遺る金色の小堂を見たときに誰しもが抱く感慨をよく表現している。個別的で、かつ、普遍性をもたねば、文学として残らない。

 金色堂の近くにある讃衡蔵(サンコウゾウ)は、火事や地震にも耐えるように建て直された近代建築で、中尊寺の各堂宇にあった3千点を超える文化財を収蔵・展示している。少し時間をかけて見て回った。

       ★

[「中尊寺経」を納めていた経蔵]

   (経 蔵)

 金色堂に近く、紅葉の下にひっそりと建つ小さな建物。

 もとは2階瓦葺きの立派な建物だったという。

 現在の経蔵は鎌倉時代のもので、一部、平安時代の古材が使用されている。鎌倉幕府によって、縮小しながら大修理されたのであろう。

 しかし、これはこれで味があって、いい。重文である。

 経蔵の中に「三将の像」はなく、須弥壇(国宝)があり、その上に文珠五尊像(重文)が安置されていた。今、それらは讃衡蔵に移されている。

 しかし、ここに納められていた最も大切なものは、藤原三代によって発願・書写された紺紙金銀字交書一切経(コンシ キンギンジ コウショ イッサイキョウ)、金字一切経、金字法華経である。

 金字で手書きされたお経は、大河ドラマ『光る君へ』の中、道長が書写し吉野に奉納する話があった。金字による写経事業は、都の皇族や上級貴族にしかできなかった大事業である。

 それをさらに超えるのが、初代清衡の発願とされる紺紙金銀字交書一切経。紺の紙に金字と銀字で1行ごとに経文を書き写したもの。完成までに8か年を要したという。戦いで亡くなった全ての人々に対する鎮魂の祈り、全ての人々の浄土を願う清衡の願いがこめられた大事業だった。

 豊臣秀吉が小田原北条氏を降し、さらに東北の仕置に赴いたとき、4000巻以上の経が京都伏見に運び出された。今、中尊寺の讃衡蔵に残されているのは15巻のみという。持ち出された経文は「中尊寺経」として高野山と大阪の観心寺等に所蔵され、全て国宝である。

       ★

[金色堂を守り続けた旧覆堂]

  (旧覆堂)

 芭蕉が「すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ」と書いたのは、この覆堂である。この覆堂の中に入って、金色堂と対面したのだ。

 1962(昭和37)年から行われた金色堂の解体修理のとき、新たに鉄筋コンクリート製の覆堂が建築され、旧覆堂は500年の任務を終えて100m先のこの地に移築された。重文である。

 この旧覆堂も実は2代目で、建築年代は室町時代中頃と推定されている。1代目は、鎌倉幕府が平泉滅亡後100年目の1288年に建てたもの。

 奥州藤原氏の文化遺産に対し、鎌倉幕府はそれなりに配慮し続けたのだ。

       ★

[頼朝の心を動かした大長寿院]

  (大長寿院の門)

 かつて、ここに高さ15mという2階建ての大堂があった。平泉に入った頼朝は中尊寺の堂宇を見て回り、特に大長寿院の威容に打たれた。鎌倉に帰って、大長寿院を模して永福寺を建立し、奥州藤原氏と弟義経の霊を弔ったという。

                   ★

[幽玄の趣をもつ白山神社の能楽堂]

  (白山神社の鳥居)

 白山神社の鳥居をくぐり、老杉の聳える参道をゆくと、中尊寺で最も奥まった一画に出る。

  (白山神社の社殿)

 白山神社は中尊寺の北方の鎮守である。社殿の奥へ入ることはできないが、その向こうには衣川方面の眺望が開けているはずだ。

 神社にはふつう歌舞を奉納する神楽殿があるが、ここには能舞台がある。今も春と秋、中尊寺の僧侶たちによって御神事能が奉納され、8月には薪能も催されるとか。山中の暗闇の中で演じられる薪能は幽玄であろう。

 江戸時代、仙台藩主はこの御神事能を推奨して、能舞台を再建し、能装束を奉納した。風雪にさらされた能舞台は枯淡の味があり、舞台正面奥の鏡板には、ほのかに老松の色が残ってゆかしい。重文である。

   (幽玄の趣をもつ能楽堂)

  (老松の色が残る鏡板)

 能楽堂の周りを歩くと、草の地面はすり鉢状に周囲が高くなっていて、どこからでも舞台の能を観賞できるようになっている。小高くなった地面の感覚から、ふっと、シチリア島の地中海を望む丘の上の古代ギリシャの野外劇場を思い出した。こちらは星空が似合いそうだ。

 (シチリア島の野外劇場)

       ★

[紅葉を楽しみ旧鐘楼へ]

  (中尊寺の紅葉)

 最近は桜や紅葉をわざわざ見に行くことはない。雑踏がわずらわしいから。

 今回、紅葉の季節をねらって旅に出たのではないのだが、美しい紅葉に出会えて幸せな気分になった。

 讃衡蔵の前まで戻って、月見坂の方へ歩いて行くと、道の脇の小高くなった所に旧鐘楼があった。ここも紅葉が繊細可憐で、思わず立ちどまってしまった。

  (旧鐘楼)

 もと、2階造りの立派な鐘楼があったのだが、1339年の大火で焼失した。

 今は茅葺き木造平屋建て、1間四方の小さな建物だ。梵鐘は大火のあとの1343年に新たに鋳造されたが、それからも歳月を経て、摩耗激しく、今は撞かれることはないそうだ。

 ただ、この梵鐘に刻まれた銘によって、1337年の中尊寺の大火災のことがわかり、寺史を知るうえで貴重な存在だという。

      ★

[今も生きて活動する中尊寺の本堂]

  (本 堂)

 東麓から月見坂を登ってくると、坂道を登り切った所に本堂がある。中尊寺の法要儀式の多くはここで取り行われる。

 中尊寺は遠い過去を伝えるだけの文化遺産ではなく、今も生きて活動しているお寺である。

 エジプトのピラミッドも、始皇帝墓から出土した兵馬俑も、立派であるが、既に滅んでしまった文明の考古学的遺産である。仁徳陵は、今も祀る人がいて祀られている。遠い昔のシルクロードの笛の音は、宮中と春日大社に残るのみ。長安の都を想像したければ、奈良へ行くしかないと言われる。

 本堂には丈六皆金色の釈迦如来がご本尊として安置されていたが、今は讃衡蔵にある。

 現在の建物は明治期の建築で、ご本尊は2013年に開眼法要された現代的な仏像だ。

       ★

[月見坂を下る]

 中尊寺はお堂だけでも数多く、それら全てを一日で見て回ることはできない。今回はいくつかピッアップして見て回った。それでも、前回より多くを見ることができた。前回は金色堂だけだったような気がする。しかも、ゆとりをもって楽しんで見学できて、満足した。

 月見坂の参道を降っていく。

 (表参道月見坂)

 すぐに物見台があった。麓から急坂を登ってきた人は、ここで展望が開け、ほっと一息入れる場所である。

 藤原三代の頃、山桜の名所であった束稲(タバシネ)山を望むことができる。標高595m。写真左手に、わずかに北上川。

  (物見台から束稲山)

 「束稲山の桜」を詠んだ西行の歌碑があった。この歌碑の字ももう読めない。

  (西行歌碑)

  (北上川)

 手前を東北本線の高架が通り、その向こうに国道。さらにその向こうの右手に北上川。北上川の左手の橋は、多分、衣川に架かる橋だろう。

 再び月見坂を下ってゆく。両側は鬱蒼とした杉の古木である。

 (表参道月見坂)

 既に正午を回った。今日はどこで昼食にありつけるだろうと心細く思っていたら、月見坂参道入口に、感じの良い蕎麦屋があった。ここを逃したら、昼飯抜きになるかもしれない。

  (蕎麦屋)

 場所柄、値段は高かったが、味は良かった。

 昼飯を食べ終わると、あとはひたすら歩くだけ。

 参道の入り口に到着した。「関山中尊寺」とある。

  (中尊寺境内入り口)

 少し疲れを覚える足で、平泉の街を経て、義経ゆかりの高館へ向かった。

  (続く) 

 

 

 

 

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「衣川(コロモガワ)見に」 … 陸奥(ムツノ)国の岩手県平泉と盛岡の旅⑴

2025年02月10日 | 国内旅行…陸奥の国紀行

  (衣川と束稲山)

<衣のたてはほころびにけり>

 源氏の御大将・源頼義との合戦が始まって既に6年。安倍貞任 (サダトウ) は奥六郡 (現在の岩手県の北上川流域一帯) の人心をよくまとめ、奥六郡を出た衣川の館で源頼義軍を防いだ。一方、頼義軍は兵站が続かず、味方の武士たちも引きあげる者多く、苦戦を強いられていた。

 ところが、源頼義がかねて出陣を要請していた出羽国の清原武則が1万の大軍を率いて応援に馳せ参じ、形勢は一変する。源頼義の3千とともに安倍軍を攻めたてた。このとき、源頼義の子で、父以上の強者(ツワモノ)と評判の若き源義家も頼義軍に参じていた。

 衣川の館が破られると、あとは一気呵成、奥六郡の柵が次々と攻略されていった。

 「衣川の館が破られて、生き残った全軍が敗走した。殿(シンガリ)を騎乗で疾走するのは安倍貞任。敵将を討ち取らんと一騎先頭に立って貞任を追ったのは若き源義家である。貞任を至近の距離にとらえると、弓に矢をつがえて馬上から狙いを定めた。そのとき、ふと、安倍貞任の鎧装束が、長年の激戦のためか、綻びているのが目に入った。いかに敵とはいえ、このまま死なせては恥ずかしいであろうと、弓を引き絞ったまま、「引き返せ。もの言わん」と大音声で呼びかけた。馬上で貞任が振り向く。義家

  衣のたてはほころびにけり (※ 衣の縦糸と衣川の館を掛けている)

と歌いかけた。すると、貞任は即座に、

  年を経し糸の乱れの苦しさに (※ 年月を経て衣の糸が綻びるように、苦しい戦いで私も年を取り、わが衣川の館も綻びが出てしまったの意)

と上句を返した。

 義家は、辺境の蝦夷の頭目に過ぎないと思っていた貞任が意外にも雅な応答をしたことに感心し、矢をはずして射ち、一旦は追うのをやめて引きあげた」。

       ★

 ── 私の小学校時代は、終戦後のまもない時期だった。私より3年上の上級生たちは、先生の指示どおりに国定教科書に墨を塗るところから授業が始まった。

 学校の先生方もみな、戦前の教育を受けた方たちだった。

 前九年の合戦 (1051~1062) の終局近いこのシーン ─ 逃げる安倍貞任と追う源義家の話 ─ は、5年生の時の担任の先生から聞いた。

 担任は20代半ばの一番若い先生だったが、まっすぐに熱く子どもたちに向き合ってくれた。もし当時の同級生たちに、人生で一番強い影響を受けた先生は誰かと問えば、この先生を頭に浮かべる人が多いような気がする。

 一度だけ、自分の過去を話されたことがある。特攻で死ぬ日を待ちつつ訓練を受けていたある日、突然、終戦になってしまったと。

 先生の衣川の話は、5年生の頭の中で、彩色された絵巻物が動き出したように躍動した。今も鮮やかに思い出すことができる。

 もう、思い出自体が、歴史の中のことであるが ──。

       ★

 奥六郡の奥に追い詰められた安倍軍は、最後に厨川(クリヤガワ) の柵  (現在の盛岡市の北) に立て籠もるが、安倍貞任は戦死。のちに平泉に「三代の栄耀(エイヨウ)」(「奥の細道」)をきずいた藤原清衡の父は生け捕られたあと、斬られた。父の藤原常清は安倍氏の娘婿であったから、安倍氏に味方したのである。

 この後、出羽三郡に加えて奥州六郡を支配したのは清原氏である。まだ幼かった(藤原)清衡は清原氏に引き取られ、その母 (安倍氏の娘) は清原氏の後妻に迎えられた。勝者の略奪婚というより、陸奥国の奥六郡を統治するために安倍氏の血が必要だったと、現代の研究者は説明している。

 それから約20年の後、清原氏の同族間の内紛に源義家までが介入して戦われたのが、後三年の合戦(1083~1087)である。多くの血が流れ、最終の勝者になったのは藤原清衡だった。だが、彼もまた、戦さの中で妻子を殺されていた。のちに、中尊寺と言う壮麗な祈りの空間をつくった動機である。

       ★

 平城遷都した朝廷は、平城京それ自体がそうであるように中国風の国家づくりに取り組み、それは平安京の時代へと引き継がれた。中国風中華思想に倣えば、国の東方の辺境は服属した異民族の蝦夷(エミシ)の地でなければならぬ。思想はしばしば現実よりも観念の中で組み立てられ、そう思い込まれてしまう。

 しかしこの時代、陸奥国は畿内に負けないくらい田畑が広がっていた。縦貫道の奥大道(タイドウ)が本州最北端まで通り、南は北上川の水運で太平洋に出ることができた。そこを金や馬をはじめ、昆布、毛皮などの交易品が運ばれた。かつて想像されたより、ずっと開けた豊かな地域であったようだ。

 安倍氏とは何者なのかについて、研究者の間でも諸説があって、よくわからない。例えば、ちくま新書の『古代史講義』には、「蝦夷出身と長らく信じて疑われなかった安倍氏も、京から派遣された武門の名門貴族安倍氏が、現地の勢力に迎えられて土着化した可能性が指摘されている」と記述している。だが、そうであっても、すっかり土着し、六郡の長として人望があったのだろう。

 奈良の桜井に安倍文珠院がある。大和の寺院としては、優美の趣がある。

 645年、乙巳の変の年に、安倍氏の氏寺として建立された。桜の美しい池には浮御堂があり、安倍仲麻呂や安倍晴明が祀られている。

 (安倍文珠院)

  (浮御堂)

 (安倍仲麻呂の碑)

 奥州の安倍氏の時代、寺も建立され、仏も作られて、一族から僧侶も出ていたようだ。つまり、辺境未開の異民族ではない。衣川を中心とした三十余里に、山桜が植えられたという。奥州藤原時代に平泉を訪れた西行が、束稲山(タバシネヤマ)の桜を見て歌を詠んでいるが、その山桜は安倍氏の時代に植樹されたものである。

 藤原三代の栄耀は突然変異のように現れたのではない。

           ★   ★   ★

<もう一度、平泉へ>

 2024年11月、岩手県の平泉と盛岡へ旅行した。齢のわりには遠出だったかもしれないが、齢のわりによく歩いた。平泉では、思いがけずも美しい紅葉に出逢うこともできた。

 平泉も盛岡も2度目である。だが、前回の旅の記憶は断片的で、その旅がいつ頃だったのかもぼんやりしている。もの忘れが進んだのだが、そればかりでない。今思えば働き盛りの旅行は体力任せで、気持ちが駆け足なのだ。あわただしいばかりで、心に残らない。

 それでも、復元されたばかりの毛越寺の庭園が記憶の中にある。ただ、私が訪れたときは、藤原基衡が造った浄土庭園を観賞するというようなものではなく、考古学上の発掘の結果を見学したという印象だった。

 毛越寺の庭園の修復・復元は、昭和の末から平成の初めにかけて (1980~90年) 行われている。だから、私が訪れたのはその直後ぐらいだったのだろうと思う。30年も前のことだ。

 それから歳月がたち、その間に新たな発掘調査も進み、奥州藤原氏の実像も次第に明確になって、2011(平成23)年には「平泉 ─ 仏国土 (浄土) を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 ─」がユネスコ世界文化遺産に登録された。

 そこをもう一度訪ねてみたい。

 今度は、心静かに平泉の景色を楽しみ、往古の姿を想像する旅にしたい。これが今回の旅の動機の一つである。

      ★

<「旅ごころ定まりぬ」>

 新大阪から「のぞみ88号」で東京へ。東北新幹線の「やまびこ61号」に乗り継いで、岩手県一関まで来る。

 一関駅のホームで、在来線の「東北本線盛岡行き」を30分待った。

  (一関駅ホーム)

 芭蕉は「奥の細道」の旅で、「白河の関にかかりて、旅ごころ定まりぬ」と書いている。

 白河の関はみちのくの入り口で、福島県に入った所にあった。江戸を出発したのが「弥生も末の七日」だったが、白河の関を越えるときは青葉の季節となり、卯の花が咲いていた。ここまで来て、芭蕉は旅の遥けさを思い、「旅ごころ」が定まったと感じた。

 現代の旅は速い。新幹線で東京を出ると、福島県を走り抜け、宮城県も一気に通過して、岩手県との境を越えた一関までわずか2時間半。旅の情緒はない。

 一関駅から在来線に乗って、わずか7分で平泉駅に着いた。プラットホームで「盛岡行き」の列車の後ろ姿を見送りながら、わずかな時間でも車窓風景を眺めながら平泉に着いて良かったと思う。少しばかり旅ごころが定まった気分になった。

  (平泉駅)

       ★

<歌枕の地・衣川へ>

 平泉駅から宿までタクシーに乗った。2泊する宿は、歩いて行くには遠すぎる。

 運転手に、衣川(コロモガワ)の橋のたもとで、暫時、車をとめてほしいと頼んだ。橋の上から衣川の流れを写したいからと。観光タクシーもやっているという運転手は快く応じてくれた。

 明日はまる一日、平泉を徒歩で見て回る予定だが、衣川まで足を延ばすのはちょっとしんどい。若い頃なら馬力で歩いただろうが、今はそういう歩き方はできない。だが、衣川を、一度、自分の目で見ておきたかった。

 どんな川なのだろう。想像したような川なのだろうか。或いは、近代化の波に洗われて、昔の面影など片鱗も残っていないのだろうか。たとえそうであっても、現地に立ってみたかった。

  (衣 川)

 流れは細かったが、橋が架かる谷は茫々として、かなり広い。長雨が降り続いたりすると、この茫々とした谷筋一帯が大きな流れになるのかもしれない。

 北上川水系の一河川で、奥羽山脈の一角に源を発し、東流して、平泉(写真右手)の北端をめぐり、北から流れてきた北上川に流れ込む。前九年の戦いのとき、衣川の北側(写真左手)に安倍氏の衣川の館があった。古戦場でもある。

 寄ってもらって良かった。 「山河あり」である。

 水鳥が浮かび、飛び立った。あちこち指さしながら教えてくれていた運転手が、「シャッターチャンス!!」と叫ぶ。が、まあ、そううまくは写せない。水鳥を写しに来たのではないし。

 都人たちは、この衣川を、蝦夷の勢力と倭人の勢力とを分ける境界の川と考え、遥かなロマンを感じ、歌にした。

 歌枕は、和歌に詠まれてきた日本各地の名所・旧跡をさす。

 司馬遼太郎『街道をゆく26』から

 「古来、日本の名勝は、歌によってつくられた。そこが詠まれつづけているうちに、土地そのものが歌枕になる。松島も塩釜も宮城野も、王朝のころ、すでに歌枕第一等の地で、いわば詩による霊気を帯びていた。

 その霊気に感じなければ、歌詠みとはいえない。はるかな後代に生まれた芭蕉もまた、中世の歌枕の地を踏むべく、聖地巡礼のようにして白河の関を越えるのである。越えるとき、『風流の初めやおくの田植えうた』(注:「おく」は陸奥のこと) という句をつくって『おくのほそ道』に挿入したのは、美の聖地へゆく覚悟をしたものである」。

 「奈良朝・平安朝の都人(ミヤコビト)たちは奥州の山河を愛し、その草木まで知識として知っていた。宮城野の萩で象徴されるように、草の名さえ詩になった」。

 古代の都人の、遥かな異郷へのあこがれが歌枕となった。そこは一生行くこともなく、もちろん写真で見ることもなかった時代の、頭の中の想像の地、空想の地であった。

       ★

<「束稲山の桜花」>

 運転手が、あれが束稲(タバシネ)山だと教えてくれた。

  (衣川と束稲山)

 旅の歌人・西行(1118~1190)は、平泉を2度訪ねている。

 1度目は20代後半から30歳の頃かとされる。

 北面の武士として平清盛とも交流があった武人としての西行(佐藤義清)が、20代も早い時期になぜ出家したのか。現代にいたるまであれこれ追究され文学作品にもなっているが、人の心はわからない。

 みちのくへの長旅に出た直接の動機は、彼より100年以上も前の旅の歌人・能因法師が歩いた歌枕の地をたどってみたかったからだろう。

 西行が平泉に着いたのは冬の初めだった。前九年(1051~1062)の古戦場をまず見たいと思い、着いたその足で衣川へ向かった。だが、その日は、風が吹き荒れ、雪が激しく舞って、かつての衣川の館は、今は川の南側に、(藤原氏によって) 想像していた以上に立派に再建されていたが、川辺には人影なく、汀は凍り、流れはただしんと雪の中に沈んでいた。

  とりわきて心も凍(シ)みて冴えぞ渡る衣河見に来たる今日しも (西行「山家集」) 

 西行は、翌年の春まで、平泉に滞在した。

 西行が訪れたとき、奥州藤原氏は2代目の基衡(1105~1157)の時代で、3代目を継ぐ秀衡(1122~1187)は西行よりやや年下の青年であった。初代の清衡(1056~1128)が中尊寺金色堂を建立し、自らの棺を祭壇の下に納めさせてから、既に20年近くの歳月がたっていた。

 西行と奥州藤原氏は、平将門の乱で功を挙げた関東武士団の雄・藤原秀郷の流れをくむ遠い縁で結ばれていたと言われる。

 ひと冬を奥州藤原氏のもとで過ごし、春を迎えた。その頃、北上川の対岸の束稲山(タバシネ)山は、全山が山桜におおわれていた。前九年の合戦で滅ぼされた安倍氏の時代に1万本の桜木が植えられたと伝わる。

  「みちのくの国に、平泉にむかひて、束稲山と申す山の侍るに、こと木は少なきやうに桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる

  聞きもせず束稲山のさくら花吉野のほかにかかるべしとは」(同上)

 束稲山の山桜がこんなに美しいとは聞いていなかったなあ。あの吉野山の桜に負けていないことよ。

  (吉野山の桜)

       ★

<西行、二度目の旅のこと>

 西行の1回目の平泉訪問から、40年近い歳月が流れた。2度目の平泉訪問は、1186年、西行69歳の時である。平氏によって焼かれた奈良の東大寺(大仏)再興のため、僧重源に依頼されて、陸奥の藤原秀郷に砂金の提供を求めるためであった。

 途中、鎌倉に寄り、源頼朝と面会している。この時、既に義経は頼朝に追われ、北へ北へと行方をくらましていた。頼朝に会ったのは、今回の旅の目的に他意がないことを知らせておくためだったかもしれない。行く先々の関でいちいち詮議されたらたまらない。

    (鎌 倉)

 平泉で、藤原秀衡と再会し、旧交を温めた。互いに年を取っていた。秀衡は西行の求めに快く応じた。

 その翌年(1187年)、義経、平泉へ入る。そのあと、秀衡、病に伏し、逝去。

 軍事の天才・義経をいただけば、必ず侵攻してくるはずの鎌倉軍を奥州深くに呼び込み、義経の巧妙な作戦に加えて、やがて鎌倉軍は兵站尽き、冬将軍に襲われて、わか奥州は独立を維持し続けるだろう。秀衡はそう考えていたのだろうか。

 だが、1189年、秀衡の子・泰衡は義経を攻撃し、義経は高館にて自刃。そのあと、満をきたしていた頼朝は、自ら兵を率いて泰衡ら藤原一族を滅ぼした。

 1190年の春、望月の頃、西行は花の下にて73年の生涯を閉じた。一歌人にとって、世の変遷はただ眺めるしかなかった。

 (衣川のたもとで)

 

 

 

 

 

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