( 中尊寺の紅葉)
<鎮魂の祈り、平和の希求>
関山(カンザン)という低い丘陵が、平泉の街の北端をふさぐように横たわっている。丘陵の上に立って北方を眺めれば、前九年の合戦の舞台となった衣川が左から右へと巡り、北から流れてきた北上川に流れ込むのが見えるだろう。
初代清衡はこの丘陵上に中尊寺を建立した。「関山中尊寺」である。
中尊寺とは一組の堂塔のことではない。比叡山や高野山のように、最盛期には寺塔40余、僧坊300余があったという、その総称が中尊寺である。
清衡(1056~1128)は、前九年の合戦 (1051~1062) のさ中に生まれた。戦いが終わった時、母の出自である安倍氏は滅亡し、父の藤原経清は殺された。子どもであった清衡は、母とともに勝者の清原氏に引き取られた。母の母(母方の祖母)は安倍氏に嫁いだが、清原氏の出であり、奥六郡を経営するためにも安倍氏の血が大切にされたのだ。
20年後、清原氏の内紛が、後三年の合戦(1083~1087)となった。腹違いの兄とその養子、清衡、同母弟、それぞれを担いだ清原一族が骨肉の戦いを繰り広げ、清衡の妻と子は異母弟によって館ごと焼き殺された。
後三年の戦いの勝者は清衡だったが、現代の歴史研究では、清衡がすぐに奥州に覇権を打ち立てたのではないとする。朝廷は、後三年の合戦における源義家の戦いを野心による私戦であったとし、清衡もまた源義家に従って奧羽に戦禍をもたらした人物としたのである。そのため、清衡は中央政府や陸奥の国府に監視される身となった。
妻子を殺され同母弟と戦った心の傷跡が癒えぬまま、清衡は清原一門内の融和と再結束に努め、敵将であった人の娘を嫡妻に迎えている。
その後は、中央政界とのつながりを求めて活動した。関白家に馬を贈るなどの働きかけもしている。また、数年間、妻の縁故を頼って京に出て、都の政界や仏教界の人々と交わったようだ。
清衡が奥六郡の主として中央や陸奥の国府から公認されるようになったのは、後三年の合戦から20年もたってからのことである。
彼は本拠を平泉へ遷し、北上川の右岸に柳之御所を建てて、ここを基盤に奥州統治の政務を行った。
中尊寺の建立に着手したのは、平泉に遷って2、3年後の50歳の頃とされる。二つの合戦で亡くなった全ての人々の霊を敵味方の別なく鎮魂し、この丘陵の上に法華経に描かれた仏国土を表そうとしたものであった。
中尊寺が建つ前、関山(カンザン)には、名のとおり衣川の関があった。
陸奥国の入口の (福島県) 白河の関から、北の果ての (青森県) 津軽半島の外ヶ浜まで、奥羽を南北に貫く道があった。そのちょうど中間点にあたるのが関山の関所だった。東西に横たわる丘陵を、南或いは北側から直登する峠道は、函谷関を思わせるような急坂であったという。
中尊寺のHPによると、後三年の戦いの後、清衡は、初め白河の関から津軽の外ヶ浜までの街道の1町ごとに、慰霊の笠卒塔婆(供養塔)を建てていったという。そして、その中間点の関山には1基の塔を建て、やがてその両側に多宝塔と釈迦堂を建立して、法華経の一場面を具現化した。それがどのようなものであったのか今はわからない。そのあと、次々と、丘陵上にいくつもの伽藍を建立した。
今日、現存するのは、金色堂のみである。自身の廟堂として建てたとされる。その棟上げは1124年で、70歳近くになっていた。
中尊寺全体の落慶供養が行われたのは1126年で、中尊寺の建立に着手してから22年目であった。このとき清衡が読み上げたとされる「中尊寺建立供養願文」の原文は既に失われているが、南北朝の時代、鎮守府将軍として奧羽に派遣された若き北畠顕家が書写したものが、寺史の第一級史料として今に伝えられている。
後三年の戦い(~1087)のあと、 藤原清衡(~1128)、基衡(~1157)、秀衡(~1187)と続いた藤原三代は、奥州の地に約100年間の平和をつくった。
その後、1189年、源頼朝が平泉に侵攻し、奥州藤原氏は滅亡する。
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<その後の中尊寺のこと>
「頼朝が平泉に入った時、秋風と、音もなく降りしきる雨の中、灰となった街には人影すらなかったと『吾妻鏡』は伝えています」(中尊寺HPから)。
廃墟となった平泉の街区に入ったあと、頼朝は残された寺々を巡回して、その仏教文化に深い感銘を受けた。そして、奥州の政務は藤原氏の先例に倣うよう命じ、また、御家人の葛西清重に平泉の安全を保持するよう命じた。こうして平泉の寺院群の存続は約束された。
だが、庇護者を失ってしまうと、多くの堂塔を維持し続ける収入はなくなる。鎌倉幕府は数度に渡って中尊寺の修理を行い、1288年には金色堂を保護するため覆堂(オオイドウ)を設けたが、中尊寺の荒廃は進んでいった。
1337年、中尊寺に大火があり、金色堂以外のほとんどの堂塔が焼失した。かろうじて残ったのは、金色堂と、一部の仏像、仏画、経文、工芸品などである。
室町時代から戦国時代にかけて、荒廃は一層進んだ。
江戸時代、平泉は仙台藩領になった。伊達藩の歴代の藩主は、中尊寺の収入を安堵し手あつく保護した。今、山内に点在する堂の多くは仙台藩によって再建されたものである。
戦後、1950(昭和25)年、文化財保護法が制定され、金色堂は国宝建築物の第1号となり保護されることとなった。また、この年、藤原四代の遺体の学術調査も行われた。
1962(昭和37)年、金色堂の解体修理が行われた(後述)。
2011(平成23)年、「平泉─仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群─」がユネスコ世界文化遺産に登録された。
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<紅葉の中尊寺を散策する>
中尊寺の表参道は「月見坂」という風流な名で呼ばれるが、関山の東の麓から丘陵を800mほども登っていく道である。参道には仙台藩が植樹した樹齢350年の杉の古木が鬱蒼とそびえている。登り着いた山上の樹林の中に、中尊寺を構成する諸堂は点在している。
朝、宿の小型バスが宿泊客を平泉駅まで送って行く途中、これから金色堂を見学しようという客のために、金色堂近くの駐車場に停車するという。マイカーやレンタカーで平泉を回る人はしんどい月見坂を登らず、ここに車を置いて金色堂を見学するらしい。
中尊寺の核心部へいきなり車で乗りつけるというのはどうなのかとも思った。古人のように、一歩一歩、表参道を登っていくべきである。芭蕉もそうしたし、西行もそうした。かつての私も。しかし、年齢と、今日一日の行程を慮って、バスに便乗することにした。
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[降り残してや … 金色堂]
駐車場から脇道を上がっていくと、ほどなく、鬱蒼とした巨木の下に金色堂が現れた。紅葉が彩りを添え、覆堂(オオイドウ)に囲われている。そう、こういう佇まいだったと記憶がよみがえる。広大な中尊寺の建築群のなかで、唯一、900年前の創建時の姿を遺す阿弥陀堂である。
(樹間の金色堂)
入場券は、中尊寺の宝物館である讃衡堂(サンコウドウ)とセットになっていた。
覆堂の中へ入ると、まことに小さなお堂である。… 写真に写せないのが残念。
少し後方に下がってお堂全体を眺めたときの姿がいい。3間四方の小さな堂の上の屋根が、鳥が羽を大きく横に広げたようにお堂を覆っている。その大きくのびやかな羽を支えて、正面に4本の柱が堂々と並び、その太柱の奥に、まるで垣間見るような感じで、須弥壇とその上の黄金色の仏たちが見える。それらは、まるで遠近法で見るように、遥かに遠く、小さい。
この正面全体のお姿がまことに良い。
近寄って、お堂の中を拝観した。
5.5m(3間)四方、高さは8mとか。「皆金色」の極楽浄土を表す。
芭蕉は「五月雨の降り残してや光堂」と詠んだが、確かに、広大な中尊寺の数多の堂塔のうち、一つだけ奇跡のように今に遺された珠玉のような小宇宙である。
下の写真は、宝物館の讃衡蔵に貼ってあった須弥壇の写真の写真。この前に立って自由に記念撮影を、という趣旨のものだ。
(中央の須弥壇)
須弥壇両脇の円柱は、夜光貝を用いた螺鈿細工が施されて、象牙や宝石で飾られている。このような素材はどういう道筋をたどって奥州藤原氏のもとへやってきたのだろう。
須弥壇の前面には孔雀の浮彫り。気品がある。
そして、須弥壇の上に、本尊の阿弥陀如来、両脇に観音菩薩と勢至菩薩。さらに左右に3体ずつの地蔵菩薩。最前列には持国天と増長天。合計11体で1組の須弥壇が構成されている。
須弥壇は3組ある。中央の須弥壇の中には初代清衡の遺骸が納められ、左手の須弥壇には2代基衡、右手の須弥壇には3代秀衡の遺骸と4代泰衡の首級が安置されている。
1950(昭和25)年、須弥壇の中の藤原四代の遺体の学術調査が行われた。もちろん、異人種、異民族ではなかった。泰衡の首桶から発見された800年前のハスの種は植物学者の手にゆだねられ、今、季節になると中尊寺境内の池に花を咲かせている。
1962年、金色堂の解体修理が行われ、金箔が貼りなおされて今の美しい姿になった。そのとき使用された金箔は3万枚、金9㎏という。
金色堂の見学を終え外に出ると、近くに芭蕉の句碑があった。石の文字は風化して既に読みにくい。
(芭蕉の句碑)
松尾芭蕉「奥の細道」から
「かねて耳驚かしたる二堂、開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠(タマ)の扉風に破れ。金(コガネ)の柱 霜雪に朽ちて、すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ。しばらく千載(チトセ)の記念(カタミ)とはなれり
五月雨(サミダレ)の降り残してや光堂」。
芭蕉は「経堂は三将の像を残し」と書いているが、藤原三代の像はない。随行した曽良日記によると、この日、経堂は開いていなかったそうだ。つまり、フィクションであり、「奥の細道」は文学作品なのだ。
しかし、「五月雨の降り残してや光堂」の句は、霜雪を経て今なお遺る金色の小堂を見たときに誰しもが抱く感慨をよく表現している。個別的で、かつ、普遍性をもたねば、文学として残らない。
金色堂の近くにある讃衡蔵(サンコウゾウ)は、火事や地震にも耐えるように建て直された近代建築で、中尊寺の各堂宇にあった3千点を超える文化財を収蔵・展示している。少し時間をかけて見て回った。
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[「中尊寺経」を納めていた経蔵]
(経 蔵)
金色堂に近く、紅葉の下にひっそりと建つ小さな建物。
もとは2階瓦葺きの立派な建物だったという。
現在の経蔵は鎌倉時代のもので、一部、平安時代の古材が使用されている。鎌倉幕府によって、縮小しながら大修理されたのであろう。
しかし、これはこれで味があって、いい。重文である。
経蔵の中に「三将の像」はなく、須弥壇(国宝)があり、その上に文珠五尊像(重文)が安置されていた。今、それらは讃衡蔵に移されている。
しかし、ここに納められていた最も大切なものは、藤原三代によって発願・書写された紺紙金銀字交書一切経(コンシ キンギンジ コウショ イッサイキョウ)、金字一切経、金字法華経である。
金字で手書きされたお経は、大河ドラマ『光る君へ』の中、道長が書写し吉野に奉納する話があった。金字による写経事業は、都の皇族や上級貴族にしかできなかった大事業である。
それをさらに超えるのが、初代清衡の発願とされる紺紙金銀字交書一切経。紺の紙に金字と銀字で1行ごとに経文を書き写したもの。完成までに8か年を要したという。戦いで亡くなった全ての人々に対する鎮魂の祈り、全ての人々の浄土を願う清衡の願いがこめられた大事業だった。
豊臣秀吉が小田原北条氏を降し、さらに東北の仕置に赴いたとき、4000巻以上の経が京都伏見に運び出された。今、中尊寺の讃衡蔵に残されているのは15巻のみという。持ち出された経文は「中尊寺経」として高野山と大阪の観心寺等に所蔵され、全て国宝である。
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[金色堂を守り続けた旧覆堂]
(旧覆堂)
芭蕉が「すべて頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面あらたに囲みて、甍(イラカ)をおほひて風雨をしのぐ」と書いたのは、この覆堂である。この覆堂の中に入って、金色堂と対面したのだ。
1962(昭和37)年から行われた金色堂の解体修理のとき、新たに鉄筋コンクリート製の覆堂が建築され、旧覆堂は500年の任務を終えて100m先のこの地に移築された。重文である。
この旧覆堂も実は2代目で、建築年代は室町時代中頃と推定されている。1代目は、鎌倉幕府が平泉滅亡後100年目の1288年に建てたもの。
奥州藤原氏の文化遺産に対し、鎌倉幕府はそれなりに配慮し続けたのだ。
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[頼朝の心を動かした大長寿院]
(大長寿院の門)
かつて、ここに高さ15mという2階建ての大堂があった。平泉に入った頼朝は中尊寺の堂宇を見て回り、特に大長寿院の威容に打たれた。鎌倉に帰って、大長寿院を模して永福寺を建立し、奥州藤原氏と弟義経の霊を弔ったという。
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[幽玄の趣をもつ白山神社の能楽堂]
(白山神社の鳥居)
白山神社の鳥居をくぐり、老杉の聳える参道をゆくと、中尊寺で最も奥まった一画に出る。
(白山神社の社殿)
白山神社は中尊寺の北方の鎮守である。社殿の奥へ入ることはできないが、その向こうには衣川方面の眺望が開けているはずだ。
神社にはふつう歌舞を奉納する神楽殿があるが、ここには能舞台がある。今も春と秋、中尊寺の僧侶たちによって御神事能が奉納され、8月には薪能も催されるとか。山中の暗闇の中で演じられる薪能は幽玄であろう。
江戸時代、仙台藩主はこの御神事能を推奨して、能舞台を再建し、能装束を奉納した。風雪にさらされた能舞台は枯淡の味があり、舞台正面奥の鏡板には、ほのかに老松の色が残ってゆかしい。重文である。
(幽玄の趣をもつ能楽堂)
(老松の色が残る鏡板)
能楽堂の周りを歩くと、草の地面はすり鉢状に周囲が高くなっていて、どこからでも舞台の能を観賞できるようになっている。小高くなった地面の感覚から、ふっと、シチリア島の地中海を望む丘の上の古代ギリシャの野外劇場を思い出した。こちらは星空が似合いそうだ。
(シチリア島の野外劇場)
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[紅葉を楽しみ旧鐘楼へ]
(中尊寺の紅葉)
最近は桜や紅葉をわざわざ見に行くことはない。雑踏がわずらわしいから。
今回、紅葉の季節をねらって旅に出たのではないのだが、美しい紅葉に出会えて幸せな気分になった。
讃衡蔵の前まで戻って、月見坂の方へ歩いて行くと、道の脇の小高くなった所に旧鐘楼があった。ここも紅葉が繊細可憐で、思わず立ちどまってしまった。
(旧鐘楼)
もと、2階造りの立派な鐘楼があったのだが、1339年の大火で焼失した。
今は茅葺き木造平屋建て、1間四方の小さな建物だ。梵鐘は大火のあとの1343年に新たに鋳造されたが、それからも歳月を経て、摩耗激しく、今は撞かれることはないそうだ。
ただ、この梵鐘に刻まれた銘によって、1337年の中尊寺の大火災のことがわかり、寺史を知るうえで貴重な存在だという。
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[今も生きて活動する中尊寺の本堂]
(本 堂)
東麓から月見坂を登ってくると、坂道を登り切った所に本堂がある。中尊寺の法要儀式の多くはここで取り行われる。
中尊寺は遠い過去を伝えるだけの文化遺産ではなく、今も生きて活動しているお寺である。
エジプトのピラミッドも、始皇帝墓から出土した兵馬俑も、立派であるが、既に滅んでしまった文明の考古学的遺産である。仁徳陵は、今も祀る人がいて祀られている。遠い昔のシルクロードの笛の音は、宮中と春日大社に残るのみ。長安の都を想像したければ、奈良へ行くしかないと言われる。
本堂には丈六皆金色の釈迦如来がご本尊として安置されていたが、今は讃衡蔵にある。
現在の建物は明治期の建築で、ご本尊は2013年に開眼法要された現代的な仏像だ。
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[月見坂を下る]
中尊寺はお堂だけでも数多く、それら全てを一日で見て回ることはできない。今回はいくつかピッアップして見て回った。それでも、前回より多くを見ることができた。前回は金色堂だけだったような気がする。しかも、ゆとりをもって楽しんで見学できて、満足した。
月見坂の参道を降っていく。
(表参道月見坂)
すぐに物見台があった。麓から急坂を登ってきた人は、ここで展望が開け、ほっと一息入れる場所である。
藤原三代の頃、山桜の名所であった束稲(タバシネ)山を望むことができる。標高595m。写真左手に、わずかに北上川。
(物見台から束稲山)
「束稲山の桜」を詠んだ西行の歌碑があった。この歌碑の字ももう読めない。
(西行歌碑)
(北上川)
手前を東北本線の高架が通り、その向こうに国道。さらにその向こうの右手に北上川。北上川の左手の橋は、多分、衣川に架かる橋だろう。
再び月見坂を下ってゆく。両側は鬱蒼とした杉の古木である。
(表参道月見坂)
既に正午を回った。今日はどこで昼食にありつけるだろうと心細く思っていたら、月見坂参道入口に、感じの良い蕎麦屋があった。ここを逃したら、昼飯抜きになるかもしれない。
(蕎麦屋)
場所柄、値段は高かったが、味は良かった。
昼飯を食べ終わると、あとはひたすら歩くだけ。
参道の入り口に到着した。「関山中尊寺」とある。
(中尊寺境内入り口)
少し疲れを覚える足で、平泉の街を経て、義経ゆかりの高館へ向かった。
(続く)