(サン・ヴィターレ聖堂のモザイク画)
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<ラヴェンナへ行こう>
2002年6月のヴェネツィア紀行の続き ──。
3日目の朝、ヴェネツィアの小さなホテルで目が覚めた時、よしっ 今日はラヴェンナへ行こう という気持ちが、降ってわいたように起こった。
「命短し、恋せよ乙女」 …… 。ラヴェンナには日帰りできる。このチャンスを逃せば、ラヴェンナを訪ねる機会は二度とこないかもしれない。
異国で一人、列車に乗って、さらに足を延ばすことにためらいがあった。だが、今回は3度目のヴェネツィア。明日はパリへ飛ぶ日だが、今日も一日この町で過ごすのは、もう満腹、という気分になっていた。
ヴェネツィア ― ラヴェンナ間の列車の時刻は調べてきていた。各駅停車のローカル線。フェッラーラで乗り換える。
ラヴェンナで観光して、遅くならないうちにヴェネツィアのホテルへ帰り、明朝のパリ行きに備えるには、早朝の列車に乗る必要がある。本数は続けて2本だけ。
急いで支度し、サンタ・ルチア駅へ向かった。
サンタ・ルチア駅は文字どおりの「終着駅」。どこかから列車に乗ってヴェネツィアに到着し、駅を出ると、そこはいきなりカナル(大運河)。この先、鉄道も自動車道路もない。バヴォレット(水上バス)や、タクシー(モーターボート)や、ゴンドラの世界だ。
駅の窓口で1本目の列車のメモを示したら、笑われた。もう駄目だよ。時計を見ると、まさに発車時刻だった。次の列車を示したら、発券してくれた。列車はすでにホームに待機していたので、乗り込んだ。ここまでは、うまくいった。
初め、列車は海の上を走った。やがて本土側に着き、メストレ駅に停車。ここからはイタリア本土の汽車旅だ。
各駅停車の数駅目のパドヴァで、若者たちが一斉に降りた。何事
そうか 何かの本で読んだ。ここは大学の町だ。ヨーロッパで一番古い大学はイタリアのボローニャ大学。2番目が1222年創立のパドヴァ大学。そのパドヴァだ。
中世ヨーロッパの大学は、神学や哲学、それに医学や文学や法学を学ぶ。パトロンはローマ・カソリック。その支配が強い。自由を求めた学者は、ヴェネツィアの勢力圏にあるパドヴァ大学にやってきた。この時代、自由とは、キリスト教からの自由。ガリレオもダンテもここで教鞭をとった。
ヴェネツィア共和国はカソリックだが、東方貿易に生きた。それで、ユダヤ教でも、イスラム教でも、無宗教でも、受け入れた。印刷術が興ると、どんな学術書でも発刊できた。ヴェネツィアの貴族の若者が通う大学はパドヴァ大学だった。
フェッラーラでは、乗り継ぎの時間が1時間近くあった。しかし、朝が早く、まだカフェもレストランも開いていない。
フェッラーラもルネッサンスの町。しかし、駅前にはそういう面影はない。ヨーロッパの旧市街は城壁で囲まれ、城壁の中は家々が密集して、近代になっても、旧市街の中に線路を敷き駅舎を建てる余地がなかった。駅はたいてい城壁の外の郊外にある。
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<ラヴェンナとは>
イタリア半島の西側の海はティレニア海。北からコルシカ島(仏領)、サルデーニャ島、「長靴」の爪先にはシチリア島があり、これらの島々と長靴半島に囲まれた海域がティレニア海だ。
一方、イタリア半島の東側の海はアドリア海。対岸はバルカン半島。
バルカン半島は、かつてオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国からの長い独立戦争を経、第二次世界大戦の後、「スラブ民族」の名の下に社会主義国家ユーゴ・スラヴィアができた。だが、ベルリンの壁の崩壊の後、またもや激しい民族紛争。憎悪と殺りくの悲劇を経て、アドリア海沿岸だけでも、北からスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ギリシャが独立した。火種は今も残っている。EU加盟国のほか、伝統的にロシアの影響のある国もあり、最近は中国の「一帯一路」が浸透してきている。
そのアドリア海の一番奥(北)に、かつて「アドリア海の女王」と言われたヴェネツィア共和国があった。バルカン半島は、ビザンティン(東ローマ)帝国からオスマン帝国の時代だった。
ラヴェンナは、ヴェネツィアからイタリア半島を150㌔ばかり南下した、アドリア海側の町。現在の人口は約15万人。ミラノやローマと比べたら、静かな、ローカル都市である。だが、かつてここに都が置かれた時期があった。知る人ぞ知る、ビザンティン文化の宝庫である。
その歴史を概略すれば、
1) ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代に、ラヴェンナに軍港が築造された。今は海岸線が広がって、当時の軍港は消滅。
2) テオドシウス大帝(在位379~395年)のあと、ローマ帝国は東西に分裂する。
AD402年、西ローマ帝国のホノリウス帝が、帝国の都をラヴェンナに移した。前は海、後ろは沼で、水上の戦いに弱い異民族の侵攻から守りやすかった。
3) 476年、西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位し、西ローマ帝国の帝位を東ローマ帝国皇帝に返上する。かくして西ローマ帝国は自然消滅。オドアケルは引き続き都をラヴェンナに置いて、イタリア半島を統治した。
4) オドアケルの死後の493年、東ゴード族の王テオドリックが侵攻し、イタリアに東ゴード王国を樹立。引き続きラヴェンナを都とした。アリウス派のキリスト教徒であったテオドリックは、ローマの行政制度や文化を尊重し、また、ビザンティン式の建築物やモザイク画を今に残した。
※ <閑話> この旅からずっと後のことだが、NHK文化センターの講義を聴講し、カソリックの歴史を勉強した。その中にラヴェンナの歴史文化遺産のことも登場した。以下、脱線 ──
キリスト教を国教化した(他の宗教を禁止した)のはテオドシウス大帝であるが、その前の313年に、コンスタンティヌス1世(大帝)がミラノ勅令によって「信仰の自由」を打ち出し、キリスト教信仰を公認した。ただ、信仰の自由と言っても、その実態は、諸民族の神々の神殿を破壊してその石材を使ってキリスト教の教会を建設するなど、ローマ世界のキリスト教化への布石としてのキリスト教公認、信仰の自由だった。
325年、このコンスタンティヌス大帝の主催で帝国内のキリスト教司教が招集され、第1回公会議が開かれた(ニカイア公会議)。ここでの議題は「イエス・キリスト」は神か、人か、という論争の決着だった。
アリウスは人望のある高潔な司教だった。彼はキリストは神聖な方ではあるが、神性はもたず、人間である、とした。
一方、アタナシウスはまだ若く、俊英の司教だった。彼は、イエスは神の子であるとし、いわゆる神と子と聖霊の三位一体説を唱えた。
主催したコンスタンティヌス大帝には、神学論争は全く分からない。最後は参加した司教の「多数決」で決められた。その時、議場にアタナシウス派が多かった。採決の結果、アリウス派は異端となった。
この公会議を含めて、第1回から第7回までの公会議の決定は、カソリックだけでなく、正教会も、プロテスタントも、その有効性を認めている。
異端とされたアリウス派は、地中海世界を離れ、ゲルマン人やスラブ人への宣教をはじめた。こうして、東ゴートの王も、フランクの王も、アリウス派のキリスト教徒になった。
フランク王国のメロヴィング朝のクロヴィス1世は妻にも説得され、496年にアリウス派からアタナシウス派(カソリック)に改宗した。そのことが、後のフランク王国の発展に役立った。もちろん、カソリックの発展にとっても。クロヴィス1世にカソリックの洗礼を施した司教は、その功績で聖人に叙された。── 閑話終了。
5) 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)のユスティニアヌス大帝(在位527~565年)は、地中海世界をローマ帝国に取り戻すため、名将ベリサリウスを遠征させた。ベリサリウスは東ゴード王国を滅ぼし、540年にラヴェンナに総督府を置いた。以後、ラヴェンナには、初期ビザンティン文化が一層花開くことになる。
ユスティニアヌス大帝の後、ビザンティン帝国の力は徐々に衰えていき、200年後にはランゴバルト王国、続いてフランク王国がイタリアに侵攻した。しかし、ミラノやローマと比べてローカルな都市であったラヴェンナは、戦禍や破壊に遭うこともなく、歴史の表舞台からひっそりと退場していった。
キリスト教の大聖堂の歴史を書いた馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』(講談社現代新書)によると、
合法化され、歴史の表舞台に躍り出たキリスト教は、コンスタンティヌス大帝の主導の下、ローマにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ聖堂などを創建した。しかし、ローマにあるこれら4世紀の初期聖堂は、建物も、内部を飾るモザイク画も、その後、修復・更新されて、創建当時のものはほとんど残っていない。
ところが、402年に西ローマ帝国の都となったラヴェンナには、5~6世紀の初期キリスト教文化が花開き、建築物も内部を飾る壁画も、当時のまま残されている。ローカルな町であったため、歴史から取り残され、忘れられた結果である。
「ポンペイは死んで残ったが、ラヴェンナは生きたまま鎮まった」と言われるそうだ。
初期キリスト教の文化・美術はラヴェンナにある。これは、ぜひ見ておきたい。
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<ガッラ・プラチーディア廟を目指し、若者グループに付いて歩く >
『地球の歩き方』のラヴェンナの地図は、小さくて、わかりにくい。駅前の観光案内所でもらった地図はイタリア語だから、目印になるものが判読できない。
見当を付け歩き始めて気が付いた。街の中を、高校生、大学生ぐらいの年齢の5、6人のグループが、その中のリーダーらしき若者の後について、どんどん歩いていく。そういうグループが幾組もいる。
ヨーロッパの若者たちは、ヨーロッパの歴史・文化を訪ねてよく旅に出る。ヨーロッパを観光していると、しばしば見かける光景である。
そういうグルーブの後に付いて行けば、自ずから目的地に導かれるに違いない。そう思って、1グルーの後に付いて行った。若者たちは元気で、馬力があって、どんどん歩く。付いて行くのはかなりしんどかった。
博物館と、ガラ・ブラキディア廟と、サン・ヴィターレ聖堂が同じ敷地内にあり、一つの窓口で入場券を買って入る。そういう窓口のある場所にも、若者グループが自然と導いてくれた。
ラヴェンナに行ってみたいと思うようになった最初のきっかけは、藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』(中公新書)の第1話「皇女ガラ・ブラキディアの物語」である。
皇女ガラ・ブラキディア(390年頃~450年)は、皇帝テオドシウス大帝の皇女として生まれた。母同様に美しい女性だったが、数奇な運命をたどった。後半生は幼い西ローマ帝国皇帝の母として、摂政の務めを果たして、かろうじて帝国を支えた。彼女の死後、帝国は音を立てて瓦解する。
『物語 イタリアの歴史』には、廟は12m×10m程度のレンガ造りの簡素な建物だが、中に入ると、「…… その柔らかい光に目が慣れた時、壁と天井をびっしりと埋めるすばらしいモザイクに気付いて、思わず嘆声を漏らすであろう」と書いてあった。
そのモザイク画を見たい。それで、真っ先にこの廟に向かったのだ。
6月の、暑く、明るい太陽の下から、廟の中に入ると、その暗さにとまどった。
暗がりの中に素朴な石棺が置かれていた。中は空っぽらだと書いてあった。
古都ラヴェンナの最も古く美しいモザイク画は、暗闇に目を慣らしても、闇は深く、残念ながらよく見えなかった。
高くはない天井にたくさんの星が描かれていること、壁に色とりどりの草花が描かれていることが分かった。それに、牧者の姿とか、鳩とか ……。暗がりの中に見えたのはそれぐらいだった。それは、キリスト教のもつ磔刑のキリストに象徴される暗いイメージとは異なり、明るく、清らかで、メルヘンチックな世界のように見えた。
だが、暗く狭い空間に見学の若者のグループが次々に入って来て、息苦しくなって表に出た。
ずっと後に読んだ紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』には、「入口と半透明のアラバスターがはまっている窓から入ってくる光だけではちょっと暗すぎて、本当の色彩の輝きはわからない。照明をつけてもらうと、その美しさに圧倒される思いがする」とあった。
事前に予約した著名な研究者のお供でもすれば見ることができたかのもしれない。いつも照明で明るくするのは、モザイク画の保護の観点からも難しいのだろう。それにここは、死者の世界なのだから。(続く)