ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

古都ラヴェンナへ行く(2002)その1 … 早春のイタリア紀行(4)

2020年11月07日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (サン・ヴィターレ聖堂のモザイク画)

       ★

<ラヴェンナへ行こう>

 2002年6月のヴェネツィア紀行の続き ──。

 3日目の朝、ヴェネツィアの小さなホテルで目が覚めた時、よしっ 今日はラヴェンナへ行こう という気持ちが、降ってわいたように起こった。

 「命短し、恋せよ乙女」 …… 。ラヴェンナには日帰りできる。このチャンスを逃せば、ラヴェンナを訪ねる機会は二度とこないかもしれない。

 異国で一人、列車に乗って、さらに足を延ばすことにためらいがあった。だが、今回は3度目のヴェネツィア。明日はパリへ飛ぶ日だが、今日も一日この町で過ごすのは、もう満腹、という気分になっていた。

 ヴェネツィア ― ラヴェンナ間の列車の時刻は調べてきていた。各駅停車のローカル線。フェッラーラで乗り換える。

 ラヴェンナで観光して、遅くならないうちにヴェネツィアのホテルへ帰り、明朝のパリ行きに備えるには、早朝の列車に乗る必要がある。本数は続けて2本だけ。

 急いで支度し、サンタ・ルチア駅へ向かった。

 サンタ・ルチア駅は文字どおりの「終着駅」。どこかから列車に乗ってヴェネツィアに到着し、駅を出ると、そこはいきなりカナル(大運河)。この先、鉄道も自動車道路もない。バヴォレット(水上バス)や、タクシー(モーターボート)や、ゴンドラの世界だ。

 駅の窓口で1本目の列車のメモを示したら、笑われた。もう駄目だよ。時計を見ると、まさに発車時刻だった。次の列車を示したら、発券してくれた。列車はすでにホームに待機していたので、乗り込んだ。ここまでは、うまくいった。

 初め、列車は海の上を走った。やがて本土側に着き、メストレ駅に停車。ここからはイタリア本土の汽車旅だ。

 各駅停車の数駅目のパドヴァで、若者たちが一斉に降りた。何事

   そうか 何かの本で読んだ。ここは大学の町だ。ヨーロッパで一番古い大学はイタリアのボローニャ大学。2番目が1222年創立のパドヴァ大学。そのパドヴァだ。

 中世ヨーロッパの大学は、神学や哲学、それに医学や文学や法学を学ぶ。パトロンはローマ・カソリック。その支配が強い。自由を求めた学者は、ヴェネツィアの勢力圏にあるパドヴァ大学にやってきた。この時代、自由とは、キリスト教からの自由。ガリレオもダンテもここで教鞭をとった。

 ヴェネツィア共和国はカソリックだが、東方貿易に生きた。それで、ユダヤ教でも、イスラム教でも、無宗教でも、受け入れた。印刷術が興ると、どんな学術書でも発刊できた。ヴェネツィアの貴族の若者が通う大学はパドヴァ大学だった。

 フェッラーラでは、乗り継ぎの時間が1時間近くあった。しかし、朝が早く、まだカフェもレストランも開いていない。

 フェッラーラもルネッサンスの町。しかし、駅前にはそういう面影はない。ヨーロッパの旧市街は城壁で囲まれ、城壁の中は家々が密集して、近代になっても、旧市街の中に線路を敷き駅舎を建てる余地がなかった。駅はたいてい城壁の外の郊外にある。

       ★

<ラヴェンナとは>

 イタリア半島の西側の海はティレニア海。北からコルシカ島(仏領)、サルデーニャ島、「長靴」の爪先にはシチリア島があり、これらの島々と長靴半島に囲まれた海域がティレニア海だ。

 一方、イタリア半島の東側の海はアドリア海。対岸はバルカン半島。

 バルカン半島は、かつてオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国からの長い独立戦争を経、第二次世界大戦の後、「スラブ民族」の名の下に社会主義国家ユーゴ・スラヴィアができた。だが、ベルリンの壁の崩壊の後、またもや激しい民族紛争。憎悪と殺りくの悲劇を経て、アドリア海沿岸だけでも、北からスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アルバニア、ギリシャが独立した。火種は今も残っている。EU加盟国のほか、伝統的にロシアの影響のある国もあり、最近は中国の「一帯一路」が浸透してきている。

 そのアドリア海の一番奥(北)に、かつて「アドリア海の女王」と言われたヴェネツィア共和国があった。バルカン半島は、ビザンティン(東ローマ)帝国からオスマン帝国の時代だった。

 ラヴェンナは、ヴェネツィアからイタリア半島を150㌔ばかり南下した、アドリア海側の町。現在の人口は約15万人。ミラノやローマと比べたら、静かな、ローカル都市である。だが、かつてここに都が置かれた時期があった。知る人ぞ知る、ビザンティン文化の宝庫である。

 その歴史を概略すれば、

1) ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代に、ラヴェンナに軍港が築造された。今は海岸線が広がって、当時の軍港は消滅。

2)  テオドシウス大帝(在位379~395年)のあと、ローマ帝国は東西に分裂する。

 AD402年、西ローマ帝国のホノリウス帝が、帝国の都をラヴェンナに移した。前は海、後ろは沼で、水上の戦いに弱い異民族の侵攻から守りやすかった。

3) 476年、西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥスを廃位し、西ローマ帝国の帝位を東ローマ帝国皇帝に返上する。かくして西ローマ帝国は自然消滅オドアケルは引き続き都をラヴェンナに置いて、イタリア半島を統治した。

4) オドアケルの死後の493年、東ゴード族の王テオドリックが侵攻し、イタリアに東ゴード王国を樹立引き続きラヴェンナを都とした。アリウス派のキリスト教徒であったテオドリックは、ローマの行政制度や文化を尊重し、また、ビザンティン式の建築物やモザイク画を今に残した。

※ <閑話> この旅からずっと後のことだが、NHK文化センターの講義を聴講し、カソリックの歴史を勉強した。その中にラヴェンナの歴史文化遺産のことも登場した。以下、脱線 ──

 キリスト教を国教化した(他の宗教を禁止した)のはテオドシウス大帝であるが、その前の313年に、コンスタンティヌス1世(大帝)がミラノ勅令によって「信仰の自由」を打ち出し、キリスト教信仰を公認した。ただ、信仰の自由と言っても、その実態は、諸民族の神々の神殿を破壊してその石材を使ってキリスト教の教会を建設するなど、ローマ世界のキリスト教化への布石としてのキリスト教公認、信仰の自由だった。

 325年、このコンスタンティヌス大帝の主催で帝国内のキリスト教司教が招集され、第1回公会議が開かれた(ニカイア公会議)。ここでの議題は「イエス・キリスト」は神か、人か、という論争の決着だった。

 アリウスは人望のある高潔な司教だった。彼はキリストは神聖な方ではあるが、神性はもたず、人間である、とした。

 一方、アタナシウスはまだ若く、俊英の司教だった。彼は、イエスは神の子であるとし、いわゆる神と子と聖霊の三位一体説を唱えた。

 主催したコンスタンティヌス大帝には、神学論争は全く分からない。最後は参加した司教の「多数決」で決められた。その時、議場にアタナシウス派が多かった。採決の結果、アリウス派は異端となった。

 この公会議を含めて、第1回から第7回までの公会議の決定は、カソリックだけでなく、正教会も、プロテスタントも、その有効性を認めている。

 異端とされたアリウス派は、地中海世界を離れ、ゲルマン人やスラブ人への宣教をはじめた。こうして、東ゴートの王も、フランクの王も、アリウス派のキリスト教徒になった。

 フランク王国のメロヴィング朝のクロヴィス1世は妻にも説得され、496年にアリウス派からアタナシウス派(カソリック)に改宗した。そのことが、後のフランク王国の発展に役立った。もちろん、カソリックの発展にとっても。クロヴィス1世にカソリックの洗礼を施した司教は、その功績で聖人に叙された。── 閑話終了。

5) 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)のユスティニアヌス大帝(在位527~565年)は、地中海世界をローマ帝国に取り戻すため、名将ベリサリウスを遠征させた。ベリサリウスは東ゴード王国を滅ぼし、540年にラヴェンナに総督府を置いた。以後、ラヴェンナには、初期ビザンティン文化が一層花開くことになる。

 ユスティニアヌス大帝の後、ビザンティン帝国の力は徐々に衰えていき、200年後にはランゴバルト王国、続いてフランク王国がイタリアに侵攻した。しかし、ミラノやローマと比べてローカルな都市であったラヴェンナは、戦禍や破壊に遭うこともなく、歴史の表舞台からひっそりと退場していった。

 キリスト教の大聖堂の歴史を書いた馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』(講談社現代新書)によると、

 合法化され、歴史の表舞台に躍り出たキリスト教は、コンスタンティヌス大帝の主導の下、ローマにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ聖堂などを創建した。しかし、ローマにあるこれら4世紀の初期聖堂は、建物も、内部を飾るモザイク画も、その後、修復・更新されて、創建当時のものはほとんど残っていない。

 ところが、402年に西ローマ帝国の都となったラヴェンナには、5~6世紀の初期キリスト教文化が花開き、建築物も内部を飾る壁画も、当時のまま残されている。ローカルな町であったため、歴史から取り残され、忘れられた結果である。

 「ポンペイは死んで残ったが、ラヴェンナは生きたまま鎮まった」と言われるそうだ。

 初期キリスト教の文化・美術はラヴェンナにある。これは、ぜひ見ておきたい

       ★

<ガッラ・プラチーディア廟を目指し、若者グループに付いて歩く >

 『地球の歩き方』のラヴェンナの地図は、小さくて、わかりにくい。駅前の観光案内所でもらった地図はイタリア語だから、目印になるものが判読できない。

 見当を付け歩き始めて気が付いた。街の中を、高校生、大学生ぐらいの年齢の5、6人のグループが、その中のリーダーらしき若者の後について、どんどん歩いていく。そういうグループが幾組もいる。

 ヨーロッパの若者たちは、ヨーロッパの歴史・文化を訪ねてよく旅に出る。ヨーロッパを観光していると、しばしば見かける光景である。

 そういうグルーブの後に付いて行けば、自ずから目的地に導かれるに違いない。そう思って、1グルーの後に付いて行った。若者たちは元気で、馬力があって、どんどん歩く。付いて行くのはかなりしんどかった

 博物館と、ガラ・ブラキディア廟と、サン・ヴィターレ聖堂が同じ敷地内にあり、一つの窓口で入場券を買って入る。そういう窓口のある場所にも、若者グループが自然と導いてくれた。

 ラヴェンナに行ってみたいと思うようになった最初のきっかけは、藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』(中公新書)の第1話「皇女ガラ・ブラキディアの物語」である。

 皇女ガラ・ブラキディア(390年頃~450年)は、皇帝テオドシウス大帝の皇女として生まれた。母同様に美しい女性だったが、数奇な運命をたどった。後半生は幼い西ローマ帝国皇帝の母として、摂政の務めを果たして、かろうじて帝国を支えた。彼女の死後、帝国は音を立てて瓦解する。

 『物語 イタリアの歴史』には、廟は12m×10m程度のレンガ造りの簡素な建物だが、中に入ると、「…… その柔らかい光に目が慣れた時、壁と天井をびっしりと埋めるすばらしいモザイクに気付いて、思わず嘆声を漏らすであろう」と書いてあった。

 そのモザイク画を見たい。それで、真っ先にこの廟に向かったのだ。

 6月の、暑く、明るい太陽の下から、廟の中に入ると、その暗さにとまどった。

 暗がりの中に素朴な石棺が置かれていた。中は空っぽらだと書いてあった。

 古都ラヴェンナの最も古く美しいモザイク画は、暗闇に目を慣らしても、闇は深く、残念ながらよく見えなかった。

 高くはない天井にたくさんの星が描かれていること、壁に色とりどりの草花が描かれていることが分かった。それに、牧者の姿とか、鳩とか ……。暗がりの中に見えたのはそれぐらいだった。それは、キリスト教のもつ磔刑のキリストに象徴される暗いイメージとは異なり、明るく、清らかで、メルヘンチックな世界のように見えた。

 だが、暗く狭い空間に見学の若者のグループが次々に入って来て、息苦しくなって表に出た。

 ずっと後に読んだ紅山雪夫さんの『イタリアものしり紀行』には、「入口と半透明のアラバスターがはまっている窓から入ってくる光だけではちょっと暗すぎて、本当の色彩の輝きはわからない。照明をつけてもらうと、その美しさに圧倒される思いがする」とあった。

 事前に予約した著名な研究者のお供でもすれば見ることができたかのもしれない。いつも照明で明るくするのは、モザイク画の保護の観点からも難しいのだろう。それにここは、死者の世界なのだから。(続く)

      

 

 

 

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6月のヴェネツィア(2002) … 早春のイタリア紀行(3)

2020年10月24日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (ヴェネツィアの朝/フィルム撮影した写真から)

 2002年の6月、再びヴェネツィアとパリを訪ねた。

 今度は落ち着いて見て回ることができた。3度目になると、旅心は定まる。

        ★

<シャルル・ド・ゴール空港のストライキ> 

 ただ、この旅では、一人旅の初心者にとって少々きつい「ハードル」が待ち受けていた。後でわかったことだが、全てはパリのシャルル・ド・ゴール空港のストライキに起因していた。

 日本ではヨーロッパの1空港のストライキのことなどほとんど報道されない。スマホでネット情報を得ることが難しい時代だから、英語もロクに話せない一人旅の身には、いったい何が起こっているのか全くわからなかった。

 往路 ── 。関空から出発し、パリのシャルル・ド・ゴール空港に順調に着陸した。だが、着陸してからあと、飛行機は車の渋滞のように少しずつしか前に進まず、降機口に着くのに時間がかかってしまった。

 1時間あった乗り継ぎ時間が20分になってしまい、広大なシャルル・ド・ゴール空港の通路を走った。途中で、手荷物検査もあった。もう間に合わないと思ったがとにかく走って、ヴェネツィア行きの小型機に搭乗したのは最後の1人だった。

 小型機が離陸し、雲の上に出て、ほっと安堵した。何とか乗り継げた

 そのとき、ふと、機内預けのスーツケースは乗り継いただろうかという不安がよぎった。人は走れるが、関空から飛んできた大型機から乗客の荷物を降ろし、行き先別に選り分けて、運搬車に載せ、広大な空港の次の飛行機に積載するという作業が、わずか20分でできるとは思えなかった。

 案の定、ヴェネツィア空港の手荷物受取所では、最後まで私のスーツケースは現れなかった。自分で手続きをしなければならない

 見ると、私の乗ってきた便の半数ぐらいの人が既に並んでいた。日本人ツアーもいた。成田から飛んできたツアーのようだ。前の到着便の乗客らしい人も含め、ロスト・バッゲージの手続きをする長蛇の列ができていた。

 一体、何が起こっているのだろう ロスト・バッゲージの手続きをするオフィスの係りの女性に怒りをぶつける若い白人男性もいた。しかし、少なくともヴェネツィア空港の職員に文句を言ってもはじまらない。   

 順番が来るまで、随分、時間がかかった。片言の英語で何とか手続きし(ちゃんと通じたのかどうか、翌日、スーツケースがホテルに届くまで心配した)、タクシーとヴァポレットで、とっぷりと日の暮れたヴェネツィアの街に入った。

 それから、予約したホテルを探して暗いカッレ(路地)をさまよった。何度もホテル名を言って人に尋ね、路地の中の小さな広場で、小さなホテルに掲げられた看板をやっと見つけた。

 アフリカから地中海を渡ってやってくるシロッコという湿度をたっぷり含んだ熱風が襲っていて、汗みずくになっていた。シャワーを浴びてすっきりしたが、汗に濡れた下着の着替えもなく、一晩、椅子に掛けて乾かし、翌日も着た

 翌日、ホテルのおじさんは、「大丈夫。よくあることだ。観光しておいで」と送り出してくれた。その言葉どおり、午後、スーツケースはホテルに届けられた。

 帰国後、海外旅行の本を読んでいたとき、ロスト・バッゲージの確率は10%以上もあるという記事があった。それで、それ以後の旅では、手荷物の中に下着の1枚ぐらいは入れておくようになった。

 その後の旅でも、ロスト・バッゲージに遭った。今回のように飛行機が遅れて乗り継ぎ時間が少なくなったとき、或いは、アムステルダムとマドリッドというように2度も乗り換えたときは、相当の確率で起こった。しかし、翌日にはホテルに届けられた。

 ただ、ツアーの場合は、観光バスでどんどん移動するから、スーツケースは宿泊ホテルに追いつけず、結局、出発地の関空で再会したりするようだ。1泊目と2泊目のホテルは同じにするか、近くの都市ヘの移動にすることが一人旅の心得である。

 そのあとヴェネツィアでゆっくりと3日間を過ごし、パリへ移動するため、朝、ヴェネツィア空港に行くと、また長蛇の列ができていた。前のパリ行の便がキャンセルになって、私の乗る便に並んでいるらしい。ローカルな空港の小さなホールは人いきれで苦しかった。

 わけもわからず1時間近くも並んでいたら、空港の職員の女性が一人ぼっちの東洋人を見かねたのか、「1人??」と聞き、別の窓口に案内してチェックイン手続きをしてくれた。

 一人旅をしていると、時々、優しさに出会う。ツアーでは添乗員におんぶに抱っこで、こういうことはない。

 その後、パリで2、3日を過ごし、帰国のためシャルル・ド・ゴール空港に行ったら、またもや長蛇の列ができていた。

 一人旅らしい日本人の中年女性に何事かと聞いてみると、シャルル・ド・ゴール空港の労働組合のストライキらしいと言う。

 その女性は京都に店をもち、世界のお茶を仕入れて販売しているという人だった。彼女は昨日、帰国の予定だったが、空港の窓口で「飛行機は飛ばない」と言われた。それならと、パリまで戻る交通費とホテルの手配を要求したが、労働組合がやっていることで会社には責任がないと撥ねつけられた。見通しを聞いたが、「組合に聞け。我々にはわからない」とニベもない返事。やむなく1人でパリに戻り、ホテルを探して1泊し、今朝、とにかく様子を見ようと来てみたと言う。

 その日、どういう事情の変化があったのか、AF(フランス航空)は成田回りの関空行きを手配してくれて、お詫びのしるしとして300ユーロの小切手もくれて、大幅に遅れたが無事に帰ることができた。

 一人旅の身にとって、いつ起きるかわからない、しかも一度発生すると1週間で終わるのか、1か月も続くのかわからない、イタリアやフランスのストライキは誠に恐ろしい。

 今回は1空港のストライキだったが、これがゼネストだったりすると、空港にさえ行けなくなる。そういうトラブルに巻き込まれると、かなり絶望的だ。今はネットで、出発前に少しは情報を入手できる。

        ★

<映画「旅情」のヴェネツィア>

 6月のヴェネツィアは観光客で賑わっていた。

 (サン・マルコ広場/ 2002年フィルムから)

 サン・マルコ広場の2つのカフェの前にはテラス席が並んで、楽団がロマンチックな曲を奏で、映画『旅情』の世界だった。

 

(「カフェ・フローリアン」の前の賑わい/同)

(サン・マルコ広場のテラス席の日向と陰/同)

 サン・マルコ広場では、映画の中のようなエレガンスなカップルが幸せそうにたわむれている。初老の家族づれの旅行者は日陰のテラス席でそよ吹く風を楽しんでいた。 

 カッレ(路地)からカッレ(路地)へとたどり、小橋を渡り、リオ(小運河)の岸辺を通り抜け、主なカンポ(広場)と聖堂をほとんど見て回った。

 聖堂の内部は、フランスのロマネスクやゴシックの大聖堂と比べると、ローマの神々の神殿であるパンテオンに似て、晴朗で、清々しく、ヴェネツィア・ルネッサンスの巨匠の絵が飾られていた。

 塩野七生の『レパントの海戦』の冒頭に出てくるサン・ザッカーリア教会にも入ってみた。

 なぜか道が行き止まりになって、暫くうろうろとしていたら、建物と建物の間の人がすれ違えないほど狭いすき間を向こうから人がやってきて、なるほどと感心した。 地図が間違っているわけではないのだ。ここでは「道」というものの観念が違う。

 バボレットに乗って、リド島にも、ムラーノ島にも、ブラーノ島にも行った。

 アドリア海を見たくて、横に長いが、幅は狭いリド島を、てくてくと歩いて横断した。しかし、地図で想像していた以上に遠かった。

 しかも、アドリア海は、イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海峡のような海ではなく、人間の目にはただ茫々と広がる太平洋のような海だった。地図のイメージと違って、がっかりした。

 (ブラーノ島のリオ 2002年)

 昼下がりのブラーノ島の土産物店や食堂に人影がなかった。街が奇妙にしんとしずまっている。ここでは、午後の午睡の時間があるのだろうか

 すると、1軒の店の奥からわっと拍手や歓声。

 そうか 日韓主催のワールドカップ。今、イタリアと韓国が戦っているのだ。

 その夜、ホテルの部屋のテレビのスイッチを入れると、いかに韓国選手がひどい暴力を振るったか(ラフプレイだったか)、スローモーションの映像が次々と映された。確かに、それはほんとにひどく、アナウンサーや解説者が怒りで絶叫していた。だが、不覚にも、負けてしまった。その結果は如何ともしようがない。

 翌日からの観光は、ちょっと怖かった。自分は韓国人に見えるか、日本人に見えるか。外見からは、自分でも区別がつかない。

 だが、そういう目で見られることはなかった。多分。

 観光しかないテーマパークのようなヴェネツィアの街だが、サンマルコ広場やリアルト橋の一画を除けば、韓国人や中国人は言うまでもなく、まだバブルの潤いの残る日本人もほとんど見かけない時代だった。

 

 

 

 

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冬のヴェネツィア(1999年) … 早春のイタリア紀行(2)

2020年10月14日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (冬のヴェネツィア/1999年のフィルム撮影の写真から)

<海の上の都ヴェネツィアとの出会い … 1997年>

 初めてのイタリア旅行の話の続き。

 ── ツアーに入ってルネッサンスの諸都市を見て回ったが、そのなかでも特別に強く印象に残ったのは、ヴェネツィアだった。

 前日は、ミラノのオシャレなアーケードを歩き、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見た。そのあとバスで走って、「ロミオとジュリエット」の舞台となった町ヴェローナをざっと歩き、さらにバスで走って、ヴェネツィアの本土側の町メストレのホテルに宿泊した。

 朝、メストレを出発し、ふと気づくとバスは海の上を走っていた。 …… 海の上に一筋の道路と鉄道が通っていた

 やがて前方に街並みや教会の塔が見えてきた。海の上に浮かぶ16世紀の都市だった

 キャサリン・ヘップバーン扮するオールドミスのアメリカ人女性が、夏の休暇で訪れたヴェネツィアで、子づれの骨董商の男と出会う。中年男女のちょっとユーモラスでちょっと切ない出会いと別れを描いた映画「旅情」も、ヒロインが海の上を走る列車の中で、胸を躍らせながらヴェネツィア本島へ近づいていくシーンで始まった。

 ヴェネツィアは、街それ自体がドラマチックなのだ。

 ツアーのバスがヴェネツィア本島のローマ広場に着き、ヴァポレット(水上バス)に乗り換えてジュディガ運河を進んでいったとき、目の前に繰り広げられる海の上の街並みに驚き、ただ感動した

 (海の上の都ヴェネツィア)

 サン・マルコ広場で、サン・マルコ寺院を少しのぞき ── ミサが行われていて中へ入れなかった ── 、ヴェネツィア共和国の元首の公邸であったドゥカーレ宮殿を見学して、そのあとヴェネツィアン・グラスの工房を見学。昼食のあとはもうバスに乗ってフィレンツェへ向かっていた。

 いったいあの街は何なのだ …… そういう思いが強く残った。

 もちろん、シェークスピアの「ベニスの商人」は知っていたが、実際にこの街を体験した驚きと感動は大きかった。

       ★   

<ノブリス・オブリージュとヴェネツィア>

 帰国後、塩野七生の『海の都の物語』2巻(今は活字が少し大きくなって3巻)を読んで、なぜ砂州の上に人々が移り住むようになったのか、どのようにして砂州の上に都市を築いていったのかを知った。

 最初はフン族に追われて、その後は戦争などさまざまな理由から、それぞれのリーダーのもとにグループごと、本土から砂州へ逃げてきた。

 彼らは砂州を埋め立て、小さな島を造成した。島には中心となる広場と教会があり、その周りに一つの共同体が形成された。

 そういう島の何十という寄せ集めが、ヴェネツィアである。

 島と島の間は、潮の満ち干によって流れができる。無数の橋が島と島を結び、ヴェネツィアという街が構成された。

 のちのことだが、本土から砂州に移り住んだときのリーダーの家系を貴族階級とし、貴族の各家系から1人ずつ、その嫡男が元老院議員となった。

 「貴族」と言っても、砂州の上に築かれた都市国家ヴェネツィア共和国には、大土地を領有し、武力と農民に対する徴税権をもつヨーロッパ型の封建領主は存在しない。ヴェネツィア貴族には、経済的な特権は何もなかった。貴族もそれ以外の人々も、移住当初は漁業や小規模な海上運送業を生業として、何とか暮らしを立てていた。やがて彼らはガレー船を建造し、協同して地中海貿易に乗り出していった。

 「貴族」の特権は、1家から1人の元老院議員を出すこと。ヴェネツィアの政治は世襲制による元老院制であった。寡頭政治だったと言っても良い。

 ただし、ある一族に権力が集中して勢力を強め、やがて世襲制の「王」として君臨することにならないよう、どんなに勢力のある家でも、元老院には1家から嫡男1人と決められていた。彼らは経済的な見返りは何もなく、ただヴェネツィア共和国の運営にかかわり、その進路に責任をもった。貴族でない人たちは経済活動に専念し、職業として行政官(事務官)や警察官になることはあっても、政治決定には直接関与しなかった。

 いや、ヴェネツィアも、当初は男たち全員がサン・マルコ広場に集まって議論し、採決する直接民主制の時代があったのである。

 しかし、こういうやり方は一見、いかにも民主的に見えるが、結局、「声の大きい」ヤツが勝つものだ。7、8人も同調者と示し合わせて、「賛成」の大声を広場のあちこちで挙げれば、たちまち流れはそちらに行ってしまう。きちんと論拠をあげ、冷静に発言する「静かなる男」の提案など無視されてしまう。今でも大なり小なり、会議で見かける光景である。だが、本当は彼のような人材が必要なのだ。

 ヴェネツィアが本当に発展するのは、貴族による元老院制になってからである。 

 諸外国の王や大臣と渡り合い、或いは海軍を率いて、修羅場をくぐってきた百戦錬磨の元老院のトップ層が、議会での発言をよく聞いていれば、若い層の中で誰が冷静沈着で、知性やセンスがあり、よく物事を調べ、説得力のある発言をしているか、自ずからわかってくる。家柄は関係ない。そういう若者を選んで、初めは小さな任務から、徐々に大きな任務を与えて経験を積ませ、将来はヴェネツィアのために世界を相手にすることができる成熟した政治家や、一旦、戦争ともなれば司令官を任せられる人材へと育てていく。

 800年のヴェネツィア史において、人材のプールが枯渇することはなかった。元老院が真の意味で機能していたからである。

 何より大切なのは、共同体に対して、エリートである者たちが忠誠心を持ち続けること、即ちノブレス・オブリージュである。

        ★

<ヴェネツィアのリアリズム>

 生きるために海に乗り出したヴェネツィア人は、海賊と戦いながらアドリア海を自分たちの海にしていき、やがて遠くエジプトのアレクサンドリアやビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル、さらに黒海沿岸に及ぶ定期航路を切り開いていった。そして、ついには「アドリア海の女王」と言われるようになる。塩野七生の『海の都の物語』を読んで、そういう経緯を詳しく知ることができた。

 その歴史は英雄たちの歴史ではなく、貴族であるリーダー層とその他の人々との共同体としての力、組織力の歴史であった。

 フィレンツェ共和国のような有力家と有力家の覇権争い、或いは、有力家が中間層以下を巻き込んだ抗争、クーデターの繰り返しは、ヴェネツィアではほとんど皆無だった。

 地中海のアフリカ北岸の諸国はイスラム教の国々で、その港は海賊の巣だった。地中海沿岸のヨーロッパ側の町々は常にその脅威にさらされた (塩野七生『ローマ亡き後の地中海世界 上・下』)。また、ヨーロッパ側でも、ジェノヴァの商船などは海上で海賊行為を行った。しかし、ヴェネツィア商船は海賊行為をしなかった。

 海賊行為をしなかったが、他国の海賊や他国の政治的・軍事的脅威から自国の商船を守るために、海軍力を作っていった。ヴェネツィア商船団の定期航路には、ヴェネツィア海軍が巡航した。戦後日本の復興を支えた「護送船団方式」という言葉も、そもそもヴェネツィアが発祥である。

 土地も資源もない人口20万人ほどの海の上の都市国家が生きていくには、商売しかなかった。戦争になれば、その相手国や相手国と友好関係のある国との取引はできなくなる。商売ができなくなれば、ヴェネツィアは生きていけない。ゆえに、友好関係の維持や紛争のタネの上手な処理には、最大限の神経を使った。

 彼らはカソリック教徒だったが、宗教と、政治・経済はドライに切り離した。ギリシャ正教であろうと、イスラム教の国であろうと、利のある所で商売をした。それが国益であり、国是であった。ヴァチカンのキリスト教原理主義者からは、異教徒(=悪魔)と商売をして儲けているヴェネツィアと、しばしば非難された。ヨハネ騎士団などからは敵の味方は敵として武力攻撃されることもあった。

 ローマ教皇のヴァチカンの中にも、イスラム教のオスマン帝国の宮廷の中にさえ、ヴェネツィアは情報網を張り巡らせた。平和の維持は外交力による。外交力とはまず情報収集である。そういうリアリズムに貫かれていたのがヴェネツィアである。のちに、007のようなスパイ網を生み出すイギリスは、多分、同じ島国の海洋国家の大先輩として、ヴェネツィアからいろいろ学びとったのだ。

 だが、万やむを得ず戦争に踏み切らざるをえないこともあった。同じ海洋都市国家ジェノヴァとの数次に渡る生存を賭けた戦争も戦った。大国オスマン帝国の膨張に抗して、人口20万人のヴェネツィアは、国益を賭けて数次に渡る戦争を遂行した。

 ヴェネツィア人の帰属意識は強く、彼らの海軍力は当時において世界有数であった。

 こうして …… 塩野七生のヴェネツィア関連の著作は全て読んだ。

 研究者の著書では、陣内秀信『ヴェネツィア─水上の迷宮都市』(講談社現代新書)なども読んで、ますますヴェネツィアに魅せられていった。

        ★

<塩野七生の作品が描いたヴェネツィア>

 (塩野七生のヴェネツィア関係の文庫本)

 ヴェネツィアの青年貴族を主人公にした『緋色のヴェネツィア』『銀色のフィレンツェ』『黄金のローマ』はエンターテインメント性が強い3部作だが、主人公以外の登場人物や時代背景は歴史を踏まえている。ヴェネツィア貴族の祖国に対する使命感、政治的リアリズム、他国の王侯貴族やヴァチカンの中に食い込んでいくための知性や優雅さなどもよく描かれており、ストーリーは波乱に富んで面白かった。

 ヴェネツィア海軍軍医らの実体験の記録をもとに描いた歴史文学『コンスタンティノープルの陥落』は、ビザンティン帝国の最期の戦いを描いて悲壮である。

 それに続く『ロードス島攻防記』は、膨張するオスマン帝国の10万の大軍を引き受けたロードス島のヨハネ騎士団の戦いを描く。

 オスマン帝国との戦いを描いた3部作の最後は『レパントの海戦』。スペイン、ヴェネツィアを主体とした西ヨーロッパ連合艦隊とオスマン帝国艦隊との激突を描いている。「両軍合わせれば、500隻の船と17万人の人間が正面から激突しようとしているのだ」(同著)。主人公はヴェネツィア艦隊の副司令官で、この戦いで戦死する。

 ヨーロッパのガレー船も、オスマン帝国のガレー船も、軍船同士がぶつかり合う海戦において、艦長はマストの後ろに立って指揮を執った。しかし、ヴェネツィアの軍船では、艦長はマストの前に立って指揮を執る。しかも、艦隊司令官や副司令官のガレー船は、それが海上から誰でもわかるように船の色を変えていた。オスマン帝国の軍船は、その軍船を目指して殺到する。

 『レパントの海戦』によると、この海戦の戦死者のうち、最も戦死率が高かったのはヴェネツィアの貴族であった。

 ちなみに、ヴェネツィアでは、艦長(戦いの前は商船の船長)や将校や兵士が戦死した場合、国は、家族が暮らし、遺児を一人前に育てられるよう、遺族に年金を払い続ける。しかし、貴族の場合は戦死しても、何の保障もなかった。

 元首や政府のトップ組織である十人委員会に選出され人生の全てをヴェネツィアに捧げても無報酬だった。貴族である一族の人たちが、一族のトップである彼と彼の家族の生活を支えた。もちろん、そのカネは商船で地中海に漕ぎ出して稼いで得たカネである。

 ここまでで、私がヴェネツィアについて書きたかったのは、結局、貴族である者の義務、ノブレス・オブリージュということについてである。ヴェネツィアをヴェネツィアとしてあらしめたのは、貴族のノブレス・オブリージュと、貴族とそれ以外の人々の共同体への信頼と忠誠心である …… 塩野作品を読みながらそう思った。良い国だ。

 タイムスリップしても、フィレンツェ人にはなりたくない。ヴェネツィア人になら、文字どおり「決死の覚悟」のラグビー代表になってもいい。クールで、しかも、熱き心を持っていますよ、彼らは。

        ★

<冬のヴェネツィア一人旅 … 1999年> 

 最初のイタリア旅行から2年後の1999年の冬、単身、ヴェネツィアとパリへ行った。

   往路 ── 関空から飛び立ち、パリのシャルル・ド・ゴール空港でヴェネツィア行きに乗り換えた。関空からパリ行きのエール・フランスに一緒に乗っていた大勢の日本人たちは、ヴェネツィア行きのホールには1人もいなくなった。

 小さな飛行機に搭乗するとき、周りにはクリスマスをヴェネツィアで過ごそうという欧米系のカップルや家族連れが多く、異国を1人で旅をしているという緊張と心細さがじわじわと身に染みた。

 それでも、飛行機がスイスアルプスの上空に差し掛かった時、日は傾いてなお明るい上空から、雪をいただいたアルプスの鋭鋒の数々や深い谷あいの湖を見下ろして、感動した。

 冬のヴェネツィアは寒く、霧が出て、観光客も少なかった。

  (カナル・グランデ=大運河)

 「観光客がめっきり少なくなる冬は、白い息を吐きながら行き交う市民が主役となるから、ヴェネツィアが一番、素顔を取り戻す時季でもある」(陣内秀信『ヴェネツィア ─ 水上の迷宮都市』)。

 ダウンコートを着て、寒風の吹くヴァポレットの舳に立ち、霧の中から現れてくるクーポラ(円蓋)や、鐘楼や、優雅な石橋や、邸宅兼商館だった建物の数々が織りなす光景を眺めた。

 海水がちゃぷちゃぷと裾を洗う煉瓦の建物と建物の間のカッレ(小道)をたどって歩いた。ゴンドラやモーターボートを繋留するリオ(小運河)の小橋を渡り、ひょこっと教会のあるカンポ(小さな広場)に出たりした。

 (リオと、カッレの小橋/同)

 小さな土産物店には、さまざまな種類の奇怪な仮面が並び、紅色や緑色のヴェネツィアン・グラスが飾られていた。それは、フランスやドイツとは異なる北原白秋の異国情緒の世界に思われた。

 「サン・マルコ広場には、その南側に1720年創設のカフェ・フロリアンが、北側に18世紀末創設のカフェ・クアドリが店を構え、よきライバルとして張り合っている」(同上)。

 ヨーロッパで最も古いカフェ・「カフェ・フロリアン」の優美な部屋で、熱いコーヒーを飲んで冷えた体を温めた。ウェイターの恰幅の良い老人は、このカフェのことを紹介した日本のテレビで見たことがあった。控えめな所作の中に、ユーモアと気配りがあった。

 

 

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イタリアの美のセンス … 早春のイタリア紀行(1)

2020年10月04日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

 (ヴェネツィア…1998年撮影のフィルム写真から)

   ※ アドリア海を航海してヴェネツィアに入ってきた商船は、ヴェネツィアの表玄関スキアヴォーニ埠頭に着く。船着場から望む対岸のサン・ジョルジュ・マジョーレ島は、その日のお天気や時間の移ろいのなかで微妙な変化をしながら一幅の絵となる。ヴェネツィアを訪れた旅人は、絵の中の人となる。

<1997年の最初のイタリア旅行のこと>

 イタリアに初めて行ったのは1997年。この時は急に、25年勤続の休暇を取れと言われた。それならと、日曜、祭日も合わせて8日間とし、たまたま目にした新聞広告を見て、えいっ、やっと、イタリア・ツアーに申し込んだ。

 イタリアを選んだのは、周りのヨーロッパ旅行経験者からイタリアが面白い(興味深い)と聞いていたから。

 急なことで何の予備知識も準備もなく参加した。『地球の歩き方』という本を手にするのも、この旅の後だった。

 世の中は「お客様は神様」という言葉が流行った時代だったが、旅行の間、小柄で、不愛想で、ぶっきら棒な若い女性添乗員が頼りだった。旅行中、彼女の笑顔を見たことは一度もなかった。だが、イタリアのどこかの街角とかイタリアの空港で、もしこの人とはぐれたら、子どものように途方に暮れるだろう。

 まだイタリア・リラの時代だった。

 ツアーの行程は、 [ ミラノ(泊) → ヴェローナ → ヴェネツィア(泊) → フィレンツェ(2泊) → アッシジ → ローマ(2泊) ]。

 正味5日間でつまみ食いのように次々と回るが、初心者にとって、ざっと見て回れて、格安で、取り合えずこれでいい。

 いずれツアーに入らず、自力で関空から出発する。そして、興味・関心のおもむくままヨーロッパの街を自由に、自分の足で見て回る。定年退職したらそういう旅に出ようと思っていた。高校時代からのあこがれだから、仕方ない。まあ、ぼつぼつと、ゆっくりでいい。

   実は、このイタリア・ツアーの2年前に、初めてのヨーロッパ旅行を経験していた。

 15日間の視察研修旅行で、ドイツ、スイス、フランスのローカルな都市を1都市ずつ訪問し、現地の関係者と交流した。

 このときは旅行会社の最優秀の添乗員が付いてくれていたから、一行は彼の後ろをひたすら付いて回った。

 研修とは別に土・日曜日には観光もした。バスの車窓から眺めたヨーロッパの牧歌的な田園風景や、訪ねたメルヘンチックな街並み、ゴシックの大聖堂の蝋燭の下で祈る人、ステンドグラスの宝石箱をひっくり返したような美しさなど、あこがれていたヨーロッパに深く感動した。空気に透明感を感じた。

 これが、私の最初のヨーロッパだった。

       ★

<イタリアの美のセンスはすごい>

 だが、2度目のヨーロッパの旅であるイタリア・ツアーに参加して、ドイツやフランスとは少し違う印象をもった。

 簡単に言えば (簡単にしか言えないのだが) 、壮大な古代ローマ文明はほとんど廃墟となり、中世のキリスト教世界が延々と続いたあと、時熟して14、15世紀に古代ギリシャ・ローマ文明の再発見があって、イタリアの各都市にルネッサンスの花が開いた ── それがイタリアである。

 今、私たちがイタリア旅行で見て回るのは、古代ローマ文明の少々の遺跡と、フィレンツェに始まりイタリアの各都市を彩ったルネッサンス文化、それに続くバロック文化の数々である。 

 そういうイタリアの街並みや、街を構成する建築物(大聖堂や宮廷や個人の邸宅や広場や橋など)、或いは広場に立つ彫像群、建物の内部を飾る絵画などを見て回っているうちに、ふと、天啓のように、フランスやドイツやスイスはヨーロッパの田舎なのかもしれないという観念がひらめいた。

 もちろん、近代化という意味では、今ではイタリアはすっかり後れを取り、一方、フランスやドイツやスイスは都会も田舎も豊かで透明感があり美しい。それに比してイタリアの街は、建物も古く、壁は汚れ、裏通りは言うまでもなく表通りもごみごみとして、車窓から見た農村も豊かとは思えなかった。

 しかし、それでも …… 洗練された美的センスという意味において、フランスやドイツは、未だにイタリアに追いついていないのかもしれない、と思った。

 イタリアの街角の広告用の絵や写真、ショーウインドウの飾りつけなど、目にするものが全てが、安普請かもしれないが感覚的に美しい。

 ローカルな宗教都市・アッシジで目にしたキリスト教関係の小さな土産物ショップのショーウィンドウのセンスは、パリの高級ブランド街のショーウィンドウのセンスに勝るとも劣らない。

 イタリア在住の作家・塩野七生さんのエッセイを読んでいると、時々、「その方が官能的ではないですか」などという言葉が出てきてどきっとするが、確かにイタリアの感覚的な美は、官能的なのだ。

 パリの星付きレストランが値段の分だけオシャレで美味しいのは言うまでもないが、イタリアのごく庶民的な店のパスタの味は、少々誇張すれば3千年の歴史を感じる。 

       ★

<フランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチ>

 (フィレンツェ/1997年のフィルム撮影から)

※ 写真左手の奥にフィレンツェを代表する大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母堂)が見える。この大ドームは、フィレンツェに始まったルネッサンスの最初の大傑作だった。

 1515年、フランスのフランソワ1世は大軍を率いてルネッサンスのイタリアに侵攻し、ミラノ公国を占領。さらにフィレンツェ共和国に圧力をかけてきた。商工業者がつくったイタリアの都市国家の2、3千人の傭兵では、大国フランスが動員した大軍の前に全く手も足も出なかった。

 しかし、一方でフランソワ1世は、初めて目にしたイタリア・ルネッサンスの壮麗な建築物、彫刻や絵画の数々、古代ギリシャ・ローマ文明から得たルネッサンス的教養の新鮮な豊かさ、それに洗練された料理の味などに完全に圧倒されたのだ。自分たちがいかに大軍を率いた田舎者であるかを思い知らされた。

 翌年、彼はレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招き、進んだイタリア文明の後を駆られたように追いかけ始めた。ダ・ヴィンチに対しては、彼がロワール川のたもとで死を迎えるまで、敬愛をもって遇しつづけた。

 フランス料理だって、その母体はイタリアから招いたイタリア人シェフたちである。

 英国やドイツや北欧諸国のルネッサンスは、フランスよりもさらに遅れた。

       ★

<パリの美しさは19世紀にできあがった>

  現在のローマ市は、古代都市ローマの上に、ルネッサンス・バロックの街として再開発された町である。

 フィレンツェやヴェネツィアは、毛織物業や銀行業、或いは、ガレー船で地中海に乗り出した商人たちがつくった新興の町だったが、その経済力が成長し頂点に向かっていく過程で、ルネッサンスの美しい街並みがつくりあげられていった。

 一方、パリが美しい街になるのは、19世紀のことである。

 地方から流入する人々によって、パリの町は拡張しスラム化していた。

 パリの道路は馬車がすれ違える広さで、道路の中央部は凹み、生活ごみがたまっていた。フランスにはトイレがなかったから、ヴェルサイユ宮殿の庭園でさえ、夏になると臭かったという。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿でさえそうなのだから、ましてパリの街では、夜になるとマンションの窓からオマルの中が道路へ落とされた。それでも上品なマダムは、「落としますわよ」と下の闇に向けて一声かけた。夜、道を歩く人は、足元と頭上に注意する必要があった。(このあたりの事情は、玉村豊男『パリ 旅の雑学ノート』が面白い)。

 パリが今のように整備されていくのは、皇帝ナポレオン3世が、1853年にパリの県知事としてオスマン男爵を任命してからだ。シャンゼリゼ大通りやリボリ大通りが開発され、美しい公園も配置された。建物の高さもそろえられて、計画的に整然とした街並みが造られた。1889年にはエッフェル塔も建てられた。

(冬のシャンゼリゼ大通りと凱旋門/1998年フィルム撮影)

 もちろん、この大開発事業の過程で、多くの庶民は強引に立ち退かされた。権力が絶対的に強くなったときでなければ、整然とした街並みはつくれない。

   (早朝のパリ/2005年フィルム撮影から)

 いつの時代にも、「反権力」の立場に立ち、圧政にノーを言って庶民から拍手を受ける人もいる。

 しかしまた、時に政治は強いパワーを発揮して、目の前の大衆の利益に迎合せず、未来の国民のために投資することも必要だと考える人もいる。

 歴史の中で、人の考えはそれぞれだ。

 かつてオスマン帝国の大軍の包囲に耐えたウィーンを囲む分厚い城壁が撤去され、華麗なリング通りになったのも19世紀。

 フランスもドイツも、イタリアと比べると、新興国なのだ。

 

            

 

 

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