ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

散歩道5 … 石仏

2013年05月27日 | 随想…散歩道

       ★   ★   ★

 散歩していると、今まであまり気に留めていなかったことに、改めて気づかされることがある。

   例えば、気をつけて歩いていると、あちこちに石仏がある。

   石仏には、雨露をしのげるようお家が作ってある。野ざらしの場合も、その前に、花が供えられている。

   だれが、このように敬虔な、或いは、心優しいことをしているのだろう?

 まさか役所がするはずもあるまい。核家族化し、互いに干渉しなくなったいま、 町内会や自治会が輪番でするわけもない。

 その付近の住民も、そこに石仏があることさえ知らない人も多いだろう。人は、眼に映じているものすべてが見えているわけではない。

 それでも、遠い昔から、21世紀に到った現在も、近所のだれかが自発的に、心を込めて、それぞれの野の仏のお世話をしている。

 これもまた、この島国に生まれ、母音の強い言葉を話し、漢字混じりのかなを書き、四季の変化に一喜一憂し、風の音や鳥の声を左脳で聞く人々の、心に引き継がれてきた文化の一つである。

 わが家から比較的近い八幡神社の近くの、田畑の小道にある石仏は、ステキな瓦屋根のお家に住んでいらっしゃる。

 ( 八幡神社の石段 )

  

 もう一つの神社、春日神社の杜付近には、あちこちに古い石仏があり、そのいくつかは町の文化財保護の指定を受けているようだが、名もない野の仏にも、いつも花が供えられ、絶えることがない。

 

 散歩の途中、大和川に架かる橋のどこを渡りどの橋から折り返すかは、そのときどきの気分なのだが、ここ多聞橋に立って、上流の方を眺めると、写真写りがいちばん良い。

   

   ( 多聞橋からの眺め ) 

 多聞橋は、車の通れない、人 ( と自転車 ) のためだけの橋だが、以前は水かさが増えると水に沈下する石の橋だった。その上、川を直線で渡るのではなく、川の真ん中辺りで稲妻のように折れ曲がっていて、なかなか風情があった。ただ、欄干がなく、狭い橋幅だから、自転車で渡るときはちょっとスリルがあった。

 今は、沈下橋ではなく、鉄の橋から水面を見下ろすと、かなり高い。

 川の岸の草むら近くの淀みに、鯉が何匹も群れているのが見える。もとから鯉はいただろうが、近くの龍田大社の春祭りの神事の一つに、鯉を大和川に放流するという行事がある。毎年のことだから、もしかしたら、その鯉が増えていっているのかも知れない。鯉は、いずれ、龍になる‥‥?

 その多聞橋のたもとにも、石仏がある。

 

 横に、石版に書かれた説明があり、「多聞地蔵」 とある。全国からやってくる信貴山への参拝者の交通安全を祈って、このあたりのムラの人が立てたお地蔵さんだそうだ。

 この列島に生きた心優しい庶民の、心と文化を感じることができる。

 わが家の最寄りの駅は小さい。無人駅であった時期もある。今は、研修を終えた新人の、最初の勤め先になっているようだが、まもなく再び無人駅になると聞いている。

 その駅の裏手に、比較的大きな石仏がある。 横に書かれている説明によると、「役の行者」さんらしい。やはり信貴山と関係があるのだろうか?

         ★

 この5月14日から23日まで、スペインに行ってきた。

 アンダルシヤ地方の小さな村を歩いていて、道の辻に、マリア像や磔刑のキリスト像が祀られているのを見た。以前、何度か行った海の都ヴェネツィアの路地にもあった。

 しかし、日本の石仏の、周りの家並みや野の景色に溶け込んで、穏やかで心優しい、愛嬌のあるお姿は、ちょっと一味違うと思う。

 やはり、日本は素晴らしい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩道4 … 大和川の白い雲

2013年05月13日 | 随想…散歩道

   ( 大和川の白い雲 )

 情報化の時代だから、健康づくりとしてのウォーキングの効能や、歩き方の基本などについて、それなりの知識はあった。また、健康のために歩いている先輩・知人も周囲にいた。

 リタイアを契機に一念発起。40分ほどかけて住んでいる住宅地を1周してみた。が、運動といっても、若いころにやった草野球の楽しさなどと比べると、いかにも単調で退屈。つい億劫になり、出不精になる。

 転機になったのは、ずっと年下の友人の定年退職を祝って、ごく親しい者数名が集った飲み会の席。

 彼は仕事に前向きで、仕事がよく出来たから、出世もしたが、何より人懐っこく温かい人柄で、一緒に仕事をして楽しい男だった。 

 しかし、リタイアする前の数年は闘病生活を余儀なくされた。周囲や部下の理解と助けもあって、何とか病を克服して、2ヶ月前にゴールのテープを切る。今は、お酒を飲める程度に回復した。

 「当面の目標は、あと5年、生きることです」と、気負うことなく言うところが彼らしい。

 「朝は、『まだ現役』の奥さんを仕事に送り出したあと、午前中に70分ほどかけて、散歩を愉しんでいます」。

 ‥‥ 70分! すごい! と思った。病み上がりの彼でも、毎日、それだけ歩く。生き方が自分のようにぐうたらではない。

 と同時に、彼ならきっと、健康のためにというような義務的な感じではなく、あせらず、のんびりと、楽しんで、ごく自然に70分を歩いているに違いないと思った。

 そういう歩き方もあってよい、と思った。

         ★

 仕事には、それぞれに、どうしてもやり抜かねばならないという目標がある。

 それはそのまま、生きがいにもなる。仕事は生きがいだ。

 そのために、まず健康であらねばならないと、健康づくりもするが、逆に、健康など構っていられないくらい打ち込むこともある。

 仕事をリタイアした今は、そういう一途な目標はないし、人生において、そういう目標が不可欠というわけでもない、と思えるようになった。日々楽しく、生を慈しむ、そのこと自体が目標である。

 健康を保持するために散歩するのではなく、散歩そのものが楽しいから、散歩をするのである。

         ★

 歩くときには、それなりにスポーティーに歩くが、必ず小型のカメラをぶら下げて行く。

 立ち止まってカメラを構えている時間も、結構ある。

 西ヨーロッパの美しい街並みや牧歌的な田園風景を飽きるほど見てきた眼に、日本の、しかも見飽きているはずのわが家の周辺の平凡な道が、なかなか捨てたものではないぞ、と見えてくる。

 季節の移り変わりに応じて変化する木々や草花の面白さ。優しい青空に浮かぶ白い雲。川辺の茅やススキに明暗を与える光線の美しさ。ローカルな電車も、小さな杜や社も、道端の石仏も、遊ぶ子らも、家々の佇まいも、それぞれに魅力的だ。

 

   ( あぜ道のタンポポ )

 

    ( 川原で遊ぶ小学生たち )

 

      ( 画面右端の杜は久度神社 )

          ( 久度神社の手水舎  )

 久度神社は有名な神社ではないが、全国の神社一覧である「延喜式神名帳」(927年)に載っている式内社。少なくとも平安時代初期には、朝廷から格式ある神社として承認されていたことになる。

 おそらく奈良時代からずっとここにあった。

 神を祀る社があったから、「杜」という形で日本の自然も守られ、戦後の宅地造成の波からも残った。 

 

      ( 久度神社 )      

 手水舎はいつも清浄にされ、本殿にはいつもお供えがしてある。

  自然石を積み重ねたような風情の境内の石灯籠には、「大和川改修工事従業員有志」と刻まれていた。

 

 工事の安全と無事を祈ったのか、或いは、いかなる暴雨にもこの堤防が耐えるようにと祈願したものか。境内の裏は、大和川が流れる。

 

 

 

 

 

 

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散歩道3 … 信貴山

2013年04月01日 | 随想…散歩道

 信貴山の本堂は舞台造り。毘沙門天を祀る。舞台からは、遥かに大和盆地が見渡せる。

    ★   ★   ★

 寅年の元日は、信貴山へ続く道路が朝から大渋滞になる。

 タイガースファンが、タイガースの優勝祈願の初詣のために信貴山へ参詣する。タイガースの選手たちもやってくるらしい。

 それにしても、なぜ、信貴山は、トラなのか?

 言い伝えによると、6世紀、古くからの勢力・物部氏と、新興の蘇我氏の対立が沸点に達した。蘇我氏に味方した若き日の聖徳太子は、大阪の河内に陣を敷く物部守屋を攻めるため、軍を率いて斑鳩から進撃し、この山で戦勝祈願した。

 すると、天空に、虎を供にした毘沙門天が現れ、必勝の秘法を太子に授けたという。太子はこの武神の加護によって、守屋との戦いに勝利した。

 戦いののち、太子は自ら毘沙門像を彫って祀り、「信ずべし,貴ぶべき山」として、この山を信貴山と名付けた。

 その毘沙門天が虎を従えて太子の前に顕現したのも、寅の年、寅の日、寅の刻であったという。  

  (参道の途中にある武装した聖徳太子像)

        ★

 戦後、高野山真言宗から独立し、信貴山真言宗の総本山となる。正しい名称は、信貴山寺、或いは、朝護孫子寺。

 密教や修験道の影響が濃い。お正月に参詣すると、修験道の装いの修行僧が鉦を激しくうち鳴らし、焚火に護摩を焚き、全山に響くような大音声で祈祷し、まことに勇壮にしてかつ呪術的である。

 信貴山の中腹のパーキングに車を置いて、石の鳥居をくぐる。

 本堂までの途中、石灯籠や塔やいくつものお堂や宿坊の前を通って行く。 宿坊では、民間の研修などもできる。郵便ポストもある。

  

クリック 

(参道のポスト)

 上へ上へと坂道の参道を歩いていけば、自然に本堂に着く。寄り道しなければ、パーキングから、徒歩約20分。

  ( 本道への階段 )

 クリック 

(本道の前の舞台)

  本堂の本尊は毘沙門天。毘沙門天は別名、多聞天。仏法を守る四天王の一。日本では、鎧を着た武神ということになっている。

 有名なのは上杉謙信。自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたという。 旗印に「毘」を用いた。

        ( 舞台からの眺望 )

        ★

 ここから、信貴山雄嶽の頂上にある空鉢護法堂へ向かう。

 信貴山が人々の信仰を集めだしたのは平安時代、醍醐天皇のころからで、中興開山をしたのは命蓮上人という高僧。

 その命蓮上人の伝説がある。けちん坊の長者を懲らしめるため、上人が自分の托鉢を空に投げると、何と鉢は長者の蔵を乗せて持ってきた。蔵を召し上げられて涙を流す長者に、上人は、もっと慈悲の心を持つようにと諭したという。

 その後、上人は、竜王を祀る空鉢護法堂を建てた。

 この話が12世紀に絵巻物になった。「信貴山縁起絵巻」。信貴山の国宝である。

 山頂の空鉢護法堂には水がないので、手水舎で缶に一杯の水を汲んで、持って登る。ささやかなご奉仕である。

 ( 鳥居の連なる空鉢護法堂への急坂 )

 かなりの急坂で、信貴山に参詣しても、ここまで上がろうという人は少ない。よほどの願いのある人だ。

 途中、朱の鳥居をいくつもくぐり、いくつもの小さな祠の横を通り過ぎていく。空気が神秘的になり、神や仏の気配になっていく。

 ( あちこちに祠 ) 

 標高433m、信貴山雄嶽の頂上にある空鉢護法堂のすぐ手前に、信貴山城跡がある。

 1577年、松永久秀が織田信長に背き、50日間の篭城の末、落城した。

 空鉢護法堂に祀られている竜王は、庶民からの信望のあつい「一願成就」の霊験あらたかな神様。ただし、願い事は、一つだけ。

      ( 空鉢護法堂 )

 ここは山頂だから、天気さえ良ければ、金剛、葛城、二上の連山が見える。大和三山の方も見えるが、三山は遠すぎて識別できない。

 本堂からここまで20分。帰りは下りなので、駐車場から往復して約1時間の散歩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩道 2 … 龍田大社

2013年03月26日 | 随想…散歩道

 わが家の近くで、「大社」 と名の付く神社は龍田大社である。

 20代のころ、この地に転居してきて以来、初詣はずっとここ。

 そのころ、亡き父もまだ働き盛りで、歩いて初詣に行ったことがある。

 途中、あぜ道などもまだ残っていて、水溜りを跳び越えたりしながら歩いたのを覚えている。遥々と遠かったような気がするが、亡父の方は、岡山県の山の中の農家で育った人だから、それほど苦にはならなかったのかもしれない。

 しかし、歩いてお参りしたのは、その一度きりである。

 子どもたちも、この神社に詣でた。

 小学校高学年のギャングエイジの時代から中学生のころにかけて、仲間たちと龍田大社まで遊びに行くこともあったようだ。 同じ校区だから、近くに友人の家もあったかも知れない。

  特に次男は、大晦日の深夜から元旦の朝にかけ、仲間たちと徒党を組んで参詣に行っていた時期があったが、あれは、初詣用に振舞われる樽酒のお神酒がねらいだったのだろうか。

         ★

 その道も、今は、散歩道の一つになった。

 うらうらとお天気の良い日が楽しい。 

  旧家の家並みが続くのどかな道があり、2階が納戸になっているお宅などもある。

 やがて、杜が見えてきて、朱の鳥居をくぐり、境内へ。

 

 

 拝殿の前に立つと、拝殿の床の向こうに、杜を背にした本殿が見通せる。両サイドには、摂社が並んでいる。この景観がとても好きだ。

   

 主祭神は天御柱命と国御柱命となっているが、意味不明。古来から(少なくとも、日本書紀の時代には)、風の神様、「風神」で通っている。そのほうが、かっこよくて、好きである。

 一説に、斑鳩の里を本拠とした聖徳太子もあつく信奉されたとか。ちなみに、現在の奈良県の行政区画で言えば、龍田大社があるのは三郷町。法隆寺や、龍田大社を勧請した竜田神社があるのが、お隣の斑鳩町である。

 聖徳太子亡きあと、斑鳩に住む皇子の一族は滅亡させられる。その一族の古墳の方に向いて、一族の霊を鎮めるために、皇子が愛した龍田大社を勧請して建てられたのが、斑鳩の竜田神社だと言う。

         ★

 錦秋の女神である竜田姫は、平城京の西方に当たるわが竜田山の神霊。本殿の横に、その龍田姫を祀る摂社もある。

 なお、春をつかさどるのは、平城京の東にある佐保山の佐保姫。

 龍田大社境内の末社の一つに、白龍神社があって、その少し怪しげな雰囲気が、今、流行りのパワースポットのイメージと重なってか、若い人に人気があるようだ。

 それよりも、本殿の横に配列されている摂社や末社とは別の、境内の離れた一角に下照姫神社があり、説明書きもなく、気になる。

  下照姫については、日本書紀などにいくつかの異なる記述があるようだが、一様ではなく、私などにはよくわからない。よくわからないが、とにかく出雲系の女神である。

 池があり、橋があって、そのたたずまいは物語りめいており、いつも心ひかれる。初めは、ここが龍田姫の社かと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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散歩道1…散歩をはじめました

2013年03月21日 | 随想…散歩道

  ( 散歩道 … 塀の上の大黒様 )

 昨年の秋ごろから、運動のために散歩するようになった。

 初めは運動不足を解消しなければいけないという強迫観念からであったが、歩くことに慣れてくると、「この道をもう少し先へ歩いたらどんな景色があるだろう」とか、「今日は車で初詣に行くあの神社まで歩いて行ってみよう」とか、「今日はこっちの道へ行ってみよう」などと、チャレンジすることも楽しくなり、自ずから距離も伸び、新しい発見があり、いくつかのマイコースも出来て、今では1時間から1時間半くらいの楽しい散歩の時間になっている。

 例えば、古くからの立派なお屋敷には、塀の上の瓦に福を呼ぶ像や災いを防ぐ恐ろしい顔の像があったりして、目を愉しませてくれる。

 玄関脇にあるフクロウや蛙も面白く、遊び心がわいてきて、わが家も陶器の蛙を買ってきて庭に置いてみた。

 釣るし柿を干しているお家もあって、ゆかしい。と思えば、2階の庇に猫!

 ローカル線の踏切を渡る。

 気をつけて歩いていると、あちこちにお地蔵さんがあって、その一つ一つがとても丁寧にまつられている。日本人って、神仏を大切にする民族なのだと改めて思う。

  

 やがて小さな社に着く。全国に何千とある八幡社の一つ。でも、この旧村の小さなお社の小さな本殿は室町時代のもので、国の重要文化財指定だから、馬鹿にしてはいけない … ということも、立て看板を読んで発見した。

 

 

 その小さな境内に、伊勢神宮遥拝所があった。

 そこから、遥かに伊勢神宮の方を眺めると、何と、これから向かおうとする春日神社のこんもりした杜(モリ)が見えるではないか! 春日大社ではありません。春日大社から勧請されてできた隣の旧村の小さな春日神社のことです。わが八幡社 → 春日神社 → 伊勢神宮が一直線上に!! これはきっと意味がある?と、一瞬、古代のミステリーかと考えた。

 が、わが住む大和は、国のまほろば。東に向けば、伊勢神宮、その先に富士山も、皇居もある。西を向けば、瀬戸内から北九州。日本列島が、そのように連なっているのだ。

 大和川沿いを歩いて、その春日神社へ。

  

    

 ここも小さな社だが、杜が静かで、手を合わせ、耳をすますと、いつも小鳥の声が聞こえてくる。

         ★          

 それまで運動不足を補うために近くのプールに行って小1時間、水中ウォーキングしたり、軽く泳いだりしていたのだが、若いころにやっていた野球などのスポーツの楽しさと比べると、単調でアキがくる。

 今は、プールは1週間に1回だけ。1時間のアクアビクス講習に参加し、思いっきり、手足を動かす。

 そして、週2回の散歩。小型カメラを持って、あちこち写すのも楽しい。これからの春の季節はもっと楽しいだろう。

 

 

 

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